第23話 一頭分のごちそう
肉が届いたのは、獣を倒した翌日の昼前だった。
食堂の戸口に立ったガルドは、蓋つきの木箱を抱えていた。背後には農家の男がいて、二人とも昨日より少し疲れた顔をしている。
ガルド「先に言っとく。丸ごと一頭、食わせてやれるわけじゃないぞ」
レオン「そこまで期待してません」
ガルド「昨日の顔は、だいぶ期待してたがな」
ガルドが箱を台へ下ろすと、冷たい布に包まれた肉が見えた。赤身の間に細い脂が走っている。レオンが思わず身を乗り出すと、ガルドが手の甲で制した。
ガルド「触る前に手を洗え。話はそれからだ」
◇
昨日の獣は、ガルドが人払いを終えたあと、土地の世話役へ事情を伝えたうえで扱いを決めたという。
農家の畑に入り、人を襲いかけた獣だった。討伐は人命を守るためのものだが、倒したレオンが獲物を独り占めしてよいわけではない。
ガルドは許された作業場へ獣を運び、狩猟に慣れた手伝い手とともに、その日のうちに処理を進めた。暑さが残る時季だ。日陰と冷たい水を使える場所を確保し、傷んだ部分や汚れた部分を避け、使える肉を冷やして保管した。
ガルド「腹の中を見て、変な腫れやひどい傷みは見当たらなかった。嫌な臭いもしない。だが、昨日の時点で全部食えると決めたわけじゃない。今朝も確かめて、使わない部分は分けた」
レオン「ありがとうございます」
ガルド「礼はまだ早い。見た目がよくても、生のまま食うな。中心までしっかり火を通せ。怪しいところは使うなよ」
レオン「はい。そこは守ります」
獣は見慣れた小さな角の獣とは別物だった。ガルドにも詳しい名はわからないという。食べられると判断した部分だけを使う。それ以上のことを、レオンは知ったふりをしなかった。
農家の男が、空の籠を持ち上げる。
男「俺の畑で起きたことだ。世話役とも話して、肉は手を動かした連中と被害のあった家で分けることになった。俺の家にも、夕飯に足りる分をもらった」
ガルド「運びと処理をした連中の取り分もある。俺の仕事代も、そこから話をつけた。お前の店の分は別だ」
ガルドが示したのは、鍋一つを仕込めるほどの肉だった。
レオン「これを買わせてください」
ガルド「世話役と決めた値段だ。安くはないぞ」
レオン「命をもらって、誰かに仕事をしてもらったんです。安く済ませたいとは思いません」
代金を数えて渡すと、ガルドは一枚ずつ確かめて懐へ入れた。
ガルド「いいか。今日はその分だけだ。売り切れたら終わりにしろ」
レオン「四席しかありませんからね」
男「そこを自慢げに言う店主は初めて見たよ」
レオンは笑いながら、肉を清潔な器へ移した。使う分だけを取り分け、残りは冷えた状態を保てるようガルドに教わった場所へ戻す。長く置けない量だ。今日のうちに使い切るつもりだった。
◇
肉を前にして、レオンは母の料理帳を開いた。
古い頁の端には、鍋を焦がした跡がある。肉の煮込みについて、母の字で短い覚え書きが残っていた。
『最初に焼き目をつけること。鍋の底に残る香りを、捨てないこと』
レオンは指でその行をなぞった。
王都で母が作ってくれたのは、もっと脂の多い肉だった。今日の赤身は締まっている。急いで焼けば硬くなるだろう。
まず肉を食べやすい大きさに切り、塩を振る。鍋を十分に熱し、少量の油で表面を焼いた。
じゅう、と音が立った。
肉の縁が茶色に変わり、香ばしい匂いが立ち上がる。焼き目がついたところで一度取り出す。鍋底には、褐色の小さな粒が残っていた。
レオン「……ここが大事なんだよな」
刻んだ玉ねぎを入れると、残った肉の脂を吸って透き通っていく。少しずつ水を注ぎ、木べらで鍋底をこすった。焼きついた旨味がほどけ、湯が淡い茶色に染まる。
肉を戻し、蓋をする。弱い火でゆっくり煮る間に、レオンは根菜を洗った。
そこへ、戸口から声がした。
ミーナ「……何、その匂い」
銀紫色の髪の少女が、いつもの草籠を抱えて立っていた。鼻をひくつかせたあと、鍋とレオンの顔を交互に見る。
レオン「肉だよ」
ミーナ「見ればわかる。前に私が『肉は?』って聞いたとき、何もなかったじゃない」
レオン「やっと手に入った」
ミーナ「そのために森へ飛び込んだの?」
レオン「違う。畑で人が襲われそうになったんだ」
ミーナの表情が変わった。
ミーナ「……怪我人は?」
レオン「農家の奥さんが膝を打った。歩けたけど痛みがあるから、休んでもらってる。必要なら薬師に診てもらう」
ミーナ「そう」
短く答えたあと、ミーナは籠から香草を一束出した。
ミーナ「この肉、匂いが強いでしょ。いつもの草より、こっちの方が合うと思う。売り物だけど」
レオン「もちろん買う。いくら?」
値段を聞いて代金を渡す。ミーナは硬貨を確かめてから、束を台へ置いた。
ミーナ「葉は最後に入れなさいよ。長く煮たら香りが飛ぶから」
レオン「助かる。食べていく?」
ミーナ「味見くらいはしてあげる。肉があるって自慢したいんでしょ」
レオン「少しは」
ミーナ「……正直ね、アンタ」
ミーナは呆れた顔をしたが、帰らずに席へ座った。
◇
鍋を開けるころには、店の窓が白く曇っていた。
肉は煮汁を吸って、深い茶色になっている。匙で押すと抵抗があり、それから繊維がほろりとほどけた。レオンは一切れを割って中まで十分に火が通っていることを確かめ、香草を加えた。
ふわりと、匂いが変わった。
濃い肉の香りに、青く爽やかな草の香りが重なる。最後に煮込んだ根菜を合わせると、鍋の中に畑の色が戻ってきた。
レオン「できた」
今日の料理は、焼き目をつけた獣肉と根菜の香草煮込み。
深皿へ盛ると、照りのある煮汁が肉の間を流れた。湯気の向こうに、こんがりした表面と柔らかく煮えた玉ねぎが見える。
ミーナ「……まだ?」
レオン「今、出すよ」
ミーナ「さっきからずっとそう言ってる」
レオンは笑って、皿を手に取った。
その日の煮込みは、一皿小銅貨三枚に決めた。いつもの野菜料理より高いが、肉の仕入れと処理にかかった費用を考えれば、これ以上は下げられない。
ミーナ「で、これ、いくらなの?」
レオン「小銅貨三枚。いつもの料理より高いけど」
ミーナ「肉だものね。それで一皿、注文する」
ミーナは硬貨を三枚、台に置いた。レオンは最初の皿を差し出した。
ミーナは匙で肉を小さく切り、慎重に口へ運んだ。
噛む。もう一度噛む。
香草の匂いが鼻へ抜け、肉の濃い味が舌に残る。表面には焼いた香ばしさがあり、中は煮汁を含んで柔らかい。根菜をひとかけ口に入れると、肉の旨味を吸った甘さが広がった。
ミーナ「……硬くない」
レオン「よかった」
ミーナ「それに、草の使い方も悪くない」
レオン「君が教えてくれたからね」
ミーナ「代金もらったんだから、当たり前でしょ」
そう言いながら、ミーナは次の一切れを匙ですくった。
レオン「おかわりは?」
ミーナ「まだ一皿目!」
レオンは思わず笑った。
◇
昼の客がひと回りしたころ、農家の男が妻を連れてやってきた。
妻は杖代わりの棒を持ち、夫に歩調を合わせてもらっている。レオンはすぐ椅子を引いた。
レオン「無理して来なくても、届けましたよ」
女「家でじっとしてると、畑のことばかり考えちまうんだよ。少し歩けるようになったし、今日は座って食べるだけにするさ」
男「痛くなったらすぐ帰る約束だ。薬師にも様子を伝えてある」
レオン「それなら、ゆっくりしてください」
四席のうち二席を夫婦が使い、ミーナは端の席で食べ終えた器を前にしていた。
農家の男は一瞬だけミーナを見た。以前、同じ食堂で向かい合ったときの緊張が、わずかに戻る。
ミーナ「……何よ」
男「いや。お前さんの草の匂いがすると思ってな」
ミーナ「私が売ったの。ちゃんとお金ももらった」
男「そうか」
男はそれ以上言わず、妻の椅子を引いた。ミーナも無理に話を続けなかった。
レオンは夫婦の前に、温かな皿を二つ置いた。
男「こいつが、あの獣か」
レオン「ガルドさんが安全を確かめて、使えるところを分けてくれました。皆さんの取り分とは別に、店で使う分を買ったんです」
女「……畑を荒らした獣を、こうして食べるとはね」
妻は匙を握ったまま、しばらく肉を見ていた。
女「昨日は、駄目になった野菜を数えたくもなかった。でも、残ったものまで嫌いになりたくないね」
小さく肉を切り、口へ入れる。
噛んだ瞬間、妻の眉が上がった。
女「……あったかいねえ」
男「そりゃ、出来たてだからな」
女「そうじゃないよ」
妻は根菜も一緒に食べ、ゆっくり息を吐いた。
女「昨日、もう畑なんて見たくないと思ったんだ。でも、この芋は、まだうちの畑の味がする」
男は自分の皿へ目を落とした。肉を一口食べてから、照れ隠しのように言う。
男「……婆さん。今夜、俺が焼く芋よりうまかったら困るぞ」
女「比べるなら、まず焦がさず焼いておくれ」
ミーナが小さく吹き出した。
男も笑い、レオンは鍋の火を少し弱めた。
失った畝は戻らない。妻の膝も、まだ痛む。それでも、二人は同じ皿を前に、明日の食事の話をしていた。
◇
煮込みは夕方を待たずに売り切れた。
最後の一皿を食べた荷運びの客は、器を返すときに言った。
客「西の町へ戻ったら、橋のそばに肉を煮る食堂があるって話しておくよ」
レオン「毎日あるわけじゃないですよ」
客「それも言っとく。早く来ないとなくなるってな」
客が去ったあと、別の旅人が戸口から顔を覗かせた。
旅人「肉の煮込みがあるって聞いたんだが」
レオン「すみません。今日はもう売り切れです」
旅人「そうか。じゃあ、明日は?」
レオン「明日も肉があるとは限りません。でも、温かい食事なら作れます」
旅人は看板の『食堂』の二文字を見上げた。
旅人「なら、明日寄るよ」
レオンは礼を言って見送った。大行列ができたわけではない。けれど、店の場所を知らなかった人が一人、明日の食事を約束していった。
鍋の底には、香草と肉の匂いがわずかに残っている。
レオンは洗う前の鍋を見つめた。
昨日、この肉の持ち主だった獣を、自分は倒した。守れた人がいる一方で、失われた命もある。だからこそ、今日の皿をただの戦利品にはしたくなかった。
農家の男は妻の椅子を引き、ガルドは肉を安全に扱い、ミーナは香草を売った。レオン一人では、あの煮込みはできなかった。
レオン「……ごちそうさまでした」
空になった鍋に向かって、小さく言う。
次に肉が手に入るのは、いつになるかわからない。
それでも、この食堂で食べた一皿のことを、誰かがまた別の誰かへ話してくれる。
そんな明日なら、少し楽しみだった。




