第22話 元勇者の一歩
食堂の戸を開けたばかりのレオンのもとへ、荷運びの男が駆け込んできた。
荷運びの男「畑に、でかいのがいる! 婆さんが水路のそばに!」
男は肩で息をし、石橋の向こうを指さしている。昨夜は畑に出ないと決めた農家夫婦も、朝の水やりには戻ったのだろう。
レオンは竈の火を落とした。
レオン「ほかに人は?」
荷運びの男「農家の旦那と、向こうから来た荷運びが一人!」
レオン「この道へは誰も通さないでください。店の戸は開けておきます。逃げてきた人を中へ」
返事を待たずに駆け出した。
◇
水路に近づくと、湿った土を踏み潰す重い音がした。
昨日、レオンが農家と立てた布付きの杭が倒れている。その向こうで、黒褐色の獣が根菜の畝を掘り返していた。
肩は人の胸ほどの高さ。太い首の前に短い角が二本あり、泥のついた牙が口の端から覗く。小さな角の獣とは、明らかに違う。
農家の妻は、水路のこちら側で腰を落としていた。足元には割れた木桶。男は妻の前に立ち、一本の農具を握りしめている。
男「戻れって言ってるだろ!」
女「水をやりに来ただけなのに……」
獣が顔を上げた。畝の奥にいた荷運びの男が、息を呑んで後ずさる。
その足音へ、獣の頭が向いた。
レオン「動かないで!」
声を張ると同時に、レオンは身体強化の魔力を脚へ巡らせた。
土を蹴る。
荷運びの男と獣の間へ、レオンが滑り込んだ。
獣の頭が跳ね上がる。牙を避けて肩を入れ、突進の向きをわずかに外す。黒い巨体が土を抉り、水路の手前で足を踏み直した。
レオン「橋の方へ。走れるなら走って!」
荷運びの男「お、おう!」
荷運びの男が離れるのを見届け、レオンは農家夫婦へ振り向いた。
レオン「旦那さん、奥さんを連れて家の方へ。ここは俺が見ます」
男「お前、素手じゃないか!」
レオン「ええ。剣を返してしまったので」
男「こんなときに冗談を言うな!」
レオン「冗談じゃないんですが……とにかく、先に行ってください」
妻の腕を取った男が、家へ続く小道を急ぐ。レオンは獣から目を離さず、二人の足音が遠ざかるのを聞いた。
◇
獣は逃げなかった。
レオンが進路をふさいでも、鼻先で土を掻き、また畑の方へ向かおうとする。片側の肩には古い擦り傷があり、痩せた腹が荒い呼吸に合わせて上下していた。
追い払っても、腹を満たす場所を覚えた獣は戻ってくるかもしれない。だが、それだけで命を奪う理由にはしたくなかった。
レオン「……森へ帰ってくれればいいんだけどな」
レオンは道を一つ空けた。人のいない林縁へ続く、短い逃げ道だ。
獣はそちらを一瞥した。
次の瞬間、林ではなく、農家夫婦の背中が遠ざかった道へ突っ込んだ。
レオン「そっちは駄目だ」
再び身体を強化する。獣の横へ一歩で回り込み、首の後ろを掌で押さえた。土を蹴った前脚が宙を掻く。その勢いを利用して向きを変え、巨体を水路から離れた空き地へ押し戻した。
獣は着地と同時に振り向き、今度はレオンを狙って牙を突き出した。
速い。だが、見えない速さではない。
魔王との戦場で、もっと速い刃を見てきた。
レオンは半歩踏み込み、牙の軌道を外側から押し流した。空いた側面へ回る。ひとつの動きに、余分な力は要らなかった。
獣が体勢を崩す。
このまま押さえ込むこともできる。けれど、手を離せば再び走り出すだろう。林へ帰るより先に、畑と人の匂いを追うと、今の動きが示していた。
レオンは短く息を吐いた。
レオン「……悪いな」
強化した拳を、獣の頭の急所へ正確に打ち込む。
鈍い音が一つ。
巨体は前脚から崩れ、畑の外の土に倒れた。
二度目の攻撃は必要なかった。
レオンは少し距離を取り、呼吸と反応が止まったことを確かめた。汗はほとんどかいていない。それでも、拳を開いたとき、手のひらに残った感触は軽くなかった。
◇
ガルド「……おい。何をしたら、こうなるんだ」
林縁から駆けてきたガルドは、倒れた獣と、素手で立つレオンを交互に見た。
レオン「人の方へ向かったので、止めました」
ガルド「止めたって……お前な」
ガルドは近づきかけて足を止め、獣の様子を自分でも確かめた。
ガルド「もう動かんな。まず、お前は怪我してないか」
レオン「大丈夫です。旦那さんたちは家の方へ逃げました。荷運びの人も橋へ」
ガルド「ならいい。俺は道と林縁を確かめて、人を近づけないよう伝えてくる。お前はここで誰も近づけるな。獣の体も、俺が戻るまで動かすなよ」
レオン「わかりました」
ガルドは倒れた獣を見下ろした。
ガルド「昨日の小さな足跡とは別の奴だ。こっちの畝を荒らした大きな跡とは、体格が合う。だが、どこから来たかまでは今すぐ決めつけられん」
レオン「食べられる獣でしょうか」
ガルド「……今それを聞くか?」
レオン「命を取ってしまいましたから。無駄にはしたくなくて」
ガルドは一度だけ眉を上げ、頷いた。
ガルド「食用かどうかは、体を調べてからだ。傷みや病気があれば諦めろ。肉の扱いも俺に任せろよ。素手で倒せるからって、さばけるとは限らん」
レオン「それはよく知っています」
ガルド「だったら、今は勝手に触るな」
ガルドは足跡と周囲の地面をひと目確かめてから、道の安全を見に歩き出した。
◇
農家の男が戻ってきたのは、ガルドが周囲に人を近づけないよう伝え終わってからだった。
妻は家で休んでいるという。男は無事だった畝と、倒れた獣を見比べた。
男「……あいつが、これをやったのか」
レオン「少なくとも、今朝は畑を荒らしていました。奥さんも無事ですか」
男「ああ。逃げるときに転んで膝を打ったが、家まで歩けた。今は座らせてる」
レオン「膝は腫れていませんか。あとで様子を見に行きます。痛みが強かったり、歩きにくくなったりしたら、薬師にも診てもらいましょう」
男「わかった。無理はさせん」
男は返事の代わりに、レオンの手を見た。
男「血もついてないな」
レオン「少し泥はつきました」
男「そういう話じゃない」
男は笑おうとして、失敗したような顔をした。
男「勇者だってのは聞いてた。だが、まさかあれを……一人で」
レオン「ガルドさんに、畑へ近づく人を見ておいてもらえたので。俺だけじゃ守れません」
男は何か言いかけ、畝の端で止めた。昨日、妻と拾い分けた根菜の葉が、泥に伏している。
男「全部は守れなかったな」
レオン「……はい」
男「いや。責めてるんじゃない。婆さんまで失わずに済んだんだ」
男は帽子を取り、深く頭を下げた。
男「ありがとう、レオン。ここにいてくれて」
レオンは返す言葉を探した。
魔王を倒したとき、王都では大勢の人が歓声を上げた。あの日の自分に求められたのは、戦争を終わらせる力だった。
今、目の前にいる男が喜んでいるのは、妻が家で休んでいられることだ。
レオン「……よかったです。本当に」
男は顔を上げ、畑に目をやった。
男「婆さんには、今夜こそちゃんと飯を食わせるよ。残った芋で、あんたの焼き物を真似してな」
レオン「火加減には気をつけてください。俺も最初は焦がしました」
男「元勇者でもか?」
レオン「料理の方は、まだまだです」
今度こそ、男が笑った。
◇
食堂へ戻る前に、レオンは農家の家へ寄った。
戸を開けた男の向こうで、妻が椅子に腰かけていた。膝には清潔な布が当てられ、足元には割れずに残った木桶が置かれている。
レオン「膝の具合はどうですか」
女「驚いたよ。転んだときは立てなくなるかと思ったけど、今はこうして座っていられる」
女は足を動かそうとして、顔をしかめた。レオンはその様子を見て、無理に立たせないよう男に頼んだ。
レオン「痛みが続くようなら、薬師に診てもらってください。歩けたからといって、無理はしないで」
男「ああ。今日は俺が水をやる。婆さんには休んでもらうさ」
女「畑のことばかり気にしてたけど……あんたが来てくれて助かったよ」
女は膝に当てた布を押さえながら、静かに頭を下げた。
レオン「二人とも無事で、よかったです」
男が妻のそばに戻るのを見届け、レオンはようやく食堂へ向かった。
食堂へ戻るころには、朝の仕込みが冷めていた。
レオンは戸口の札を『営業中』に戻し、竈へ火を入れた。遅れてしまった昼食を求めて、橋の方から荷運びの男が顔を出す。
荷運びの男「……あんた、あの獣を素手で倒したって?」
レオン「見てたんじゃないんですか」
荷運びの男「逃げろって言われたから逃げたんだよ!」
レオン「それで正解です」
男は少し黙ってから、空いた椅子に座った。
荷運びの男「じゃあ、飯を一皿。朝から腹がひっくり返ってる」
レオン「今日は温かい根菜の汁があります。小銅貨一枚です」
荷運びの男「命の恩人でも、飯代は取るのか」
レオン「食堂なので」
荷運びの男「……それもそうだな」
器から立つ湯気を見て、男の肩がようやく下がった。
レオンは窓の外の石橋を眺めた。
あの獣が、もう畑を荒らすことはない。今朝逃がした人たちも、無事に帰れた。
それが今日、手に入れたものだ。
肉料理を作りたい気持ちは、まだある。けれど、倒した獣が食べられるかどうかは、ガルドが調べるまでわからない。扱い方も、分け方も、これから考えることになる。
レオンは熱い汁を、客の前へ置いた。
レオン「お待たせしました」
かつて勇者と呼ばれた男の手は、今日も剣を握っていない。
その手で守ったもののそばに、今は一皿の食事がある。




