第21話 畑の向こうの影
農家の男が食堂へ入ってきたとき、袖に土がついていた。
レオン「今日は早いですね。まだ昼の分がありますよ」
男「……食うつもりで来たんだがな」
男は入口で立ち止まり、片方の手を開いた。掌に載っていたのは、途中で折れた根菜の葉だった。昨日、畑の端で土を寄せ直した株のものだという。
男「朝行ったら、あの辺りがごっそりやられてた」
レオンは火を弱めた。店には、さっき注文を済ませた荷運びの客が一人いる。
レオン「すぐ見に行きたいんですが、今は店を開けています。昼の客を送り出したら伺ってもいいですか」
男「ああ。急かしに来たんじゃない。夕方、ガルドにも話すんだろう。あんたにも、先に見ておいてほしくてな」
男は椅子へ腰を下ろした。レオンが今日の焼き芋と薄い野菜汁を勧めると、一皿だけ頼んだ。
男「婆さんがな、朝飯にも手をつけなくてさ。畑の様子を見たら、食欲がなくなっちまったらしい」
レオン「食べられそうなものは、どれくらい残っています?」
男「行ってみないとわからん。抜かれたのを全部捨てるのも惜しいが、踏まれたのを売るわけにはいかん」
向かいで食べていた荷運びの客が、匙を置いた。
客「森の方か?」
男「たぶんな。何が来たかはまだわからん」
客「なら、橋を渡るとき気をつけるよ」
男は頷いた。レオンは二人の食事代を受け取って器を下げ、昼の営業を終えたところで戸に札を掛けた。
『本日の昼営業は終了しました』
夕方にはガルドと石橋で会う約束がある。その前に、畑を見に行くことにした。
◇
畑へ着くと、昨日レオンが見た一本だけでは済まなくなっていた。
森に近い三つの畝の端が崩れ、葉のついた根菜が幾つも横倒しになっている。土に残った深いくぼみには、水が薄く溜まっていた。かじられたものもあれば、引き抜かれたまま泥の上に放り出されたものもある。
畑の反対側で、腰の曲がった年配の女が籠へ根菜を分けていた。農家の男の妻だとわかった。
女「店の人かい。悪いね、こんなところまで」
レオン「見せてもらいに来ました。手伝えることがあれば」
女「じゃあ、これを持ってみておくれ」
女が差し出したのは、泥を払い落とした小さな根菜だった。片側が深くえぐれている。
女「これは売れない。でも、傷んだところを除けば、今日のうちに家で煮られる」
次に差し出された一本は、ぱっくりと割れていた。
女「こっちは駄目だね。こんなに大きくなるまで、時間がかかったんだけど」
女は捨てる方の籠へそれを入れた。音が小さかった。
レオン「……せっかく育てたのに」
女「育ててる最中は、そんなこと毎日考えないさ。土を見て、水をやって。収穫の日に数えればいいと思ってた」
女は少し笑った。
女「今日は、数えたくなかったよ」
レオンは籠の脇にしゃがみ込んだ。傷みの少ない株を一緒に拾う。どれを残すかは女に確かめ、判断を任せた。
男の方は、踏まれた畝を直していた。足跡らしいものが水路の近くにも残っているが、昨日見た小さな跡より大きく、輪郭も崩れている。
レオン「この先へ追った方がいいですか」
男「やめとけ。俺も行かん。婆さんが一人になっちまう」
レオンは頷いた。元勇者だった頃なら、跡を追えば何かできると考えたかもしれない。だが今、ここで必要なのは、何が来たか確かめることだけではなかった。
レオン「この畝、残った株に土を戻してもいいですか」
女「そっちの端だけ頼めるかい。根元を強く押さえすぎないでね」
レオンは教わったとおりに土を寄せ、倒れた葉を起こした。重たい物を動かすのには慣れている。それでも、細い葉の根元は力加減が難しい。
女「……勇者より畑仕事の方が苦手そうだね」
レオン「否定できません」
男「ガルドに続いて、婆さんにも言われたか」
男がようやく笑った。
◇
傷の浅い根菜は農家が今日の食事に回し、まだ育てられる株には土を戻した。それだけで全部が元どおりになるわけではない。
レオンは水路側の踏み荒らされた場所を見て、男に尋ねた。
レオン「ここは、いつも人が通りますか」
男「畑へ出るのは俺たちくらいだ。道は向こうの高いところにある」
レオン「では、壊れた畝を踏まないよう、目印を立てませんか。ガルドにも足跡を見てもらいたい」
男「それならできる。柵をこしらえるほどの木材はないが、短い杭ならある」
男が小屋から持ってきたのは、畑の区画に使っていた木杭と、古い布切れだった。レオンは男に場所を確かめながら、被害のあった畝の外側だけに杭を打った。布は人の目につく高さで結び、縄は張らない。
畑へ来る人が踏み込まないための印だ。獣を捕らえる仕掛けではない。
女「これなら、夕方に水をやるときも間違えずに済むね」
男「婆さん、今日は俺が行く。お前は家に戻っててくれ」
女「言われなくても、もう腰が痛いよ」
女は自分で仕分けた根菜を籠へ入れ、家へ向かった。男がその籠を途中まで運ぶ。
レオンは倒れた畝を振り返った。拾いきれなかった葉が、風で土を擦っている。
食堂で一皿分の材料が足りなければ、仕入れを考える。だが、この家の畑で失われたものは、金を払えばすぐに元へ戻るわけではない。
レオン「今日、店で使う分を買えたらと思ったんですが……」
男「無事なのが少しはある。明日、いつもの値段で持っていくよ」
レオン「無理はしないでください」
男「商売だろ。売れるものは売りたいんだ」
レオンは、その言葉に頷いた。
◇
夕方の石橋には、先にガルドが来ていた。
ガルド「今日は顔が違うな。肉のことを聞きに来た顔じゃない」
レオン「畑が荒らされました。昨日の一本どころではなくて」
ガルド「そうか。世話役には今朝会ってきた。森の内側で俺が見回れる範囲は確認できたが、畑の近くは別だ。まず持ち主に話を通さないとな」
男「持ち主ならここにいる。俺の畑は見て構わん。ただし、婆さんや近所の者が通る。危ないものは置かないでくれ」
ガルド「もちろんだ」
農家の男はレオンと一緒に来ていた。ガルドは二人を連れ、日が残っているうちに畑へ向かった。
布を結んだ杭の前で足を止め、地面を見比べる。ガルドは畝に入らず、湿った土の端へしゃがんだ。
ガルド「……昨日の小さな跡とは違うな。ただ、泥が崩れてる。これだけで何の獣かは決められん」
男「明日も来ると思うか」
ガルド「わからん。だが、森から畑へ続く跡はある。人が不用意に近づくのは避けた方がいい」
レオンは、家へ向かう道と水路の位置を確かめた。
レオン「今夜は畑を見に出ない方がいいですね。俺も、勝手に森へ入りません」
ガルド「それがいい。俺は明るいうちに、許された林の側から通り道を見ておく。お前らは家の側から見える範囲を教えてくれ。新しい跡があっても、無理に追うな」
男「わかった。婆さんにも言っておく」
レオンは少し考えた。
レオン「明日、俺が店を開けている間でも、何かあったら知らせてください。道を使う人にも、畑の方へ近づかないよう伝えます」
ガルド「お前がやるのは、それでいい。獣が人の前へ出てきたら、まず人を離すことだ」
レオン「はい」
ガルドはレオンの腰へ目をやった。そこに剣はない。
ガルド「……元勇者だって聞いた。戦えるんだろうな」
レオン「戦えます。でも、戦わずに済むなら、その方がいい」
ガルド「なら、忘れるなよ。その畑には、獣だけじゃなく人も来る」
レオンは畝の向こうを見た。家の窓から、女がこちらを見ていた。男が手を振ると、女も手を上げた。
◇
石橋へ戻る道で、農家の男がぽつりと言った。
男「昨日、あんたに芋を食わせてもらっただろ。婆さんに作り方を話したら、今度うちでも焼いてみるってさ」
レオン「それなら、よかった」
男「畑を見た朝は、もうそんな話をする気になれなかった。でも、残った分で作ってみるとよ」
夕日の中で、男の袖にはまだ土がついていた。
レオン「できたら、感想を聞かせてください」
男「店主が、客の家の料理を品定めするのか」
レオン「そんなつもりじゃ」
男「冗談だよ。うまかったら教えてやる」
男が笑い、家へ引き返した。
レオンは石橋の上で一度足を止めた。昨日は、あの森の向こうに食べられる獣がいると知って嬉しかった。
今日は、その森から何かが出てくることを、畑の人たちが恐れている。
どちらも、今ここにある暮らしの話だった。
レオン「……まず、人が無事に帰れるようにしないとな」
食堂へ戻る道には、夕飯を求める人の足跡が続いていた。
今夜はいつもどおり、店の火を起こす。
そして明日、もしあの影が人のいる場所へ現れたなら。
もう、肉を手に入れるためだけの話では済まない。




