第20話 森の決まり
石橋に着くと、農家の男が木の根元にしゃがんでいた。
レオン「おはようございます。遅くなりましたか」
男「いや。あいつが遅いだけだ」
男の足元には野菜の籠がある。昨日の約束どおり、レオンは昼前に店を出てきた。食堂は朝から休業とし、入口には『本日は午後から開けます』と札を掛けてある。
橋の向こうで枝が揺れた。出てきたのは、背の低い、日に焼けた男だった。腰に短い刃物を吊り、片方の肩には縄の束。もう片方には空の革袋を提げている。
男「こいつが猟師のガルドだ。こっちは食堂のレオン」
ガルド「肉が欲しいんだって?」
レオン「食堂で肉料理を出したいんです。獲り方も、食べていい獣も知らないので、教わりに来ました」
ガルド「そうか。じゃあ、こいつを見てみろ」
ガルドは人の通る道から離れた平らな石の上に、肩の縄を置いた。輪を作り、枝を一本添える。まだどこにも結んでおらず、引いても何も動かない。
ガルド「何に見える?」
レオン「……輪になった縄です」
ガルド「正解だ。これだけじゃ獲物は捕れん。だが、草の中に本物の仕掛けがあったら、獣より先に人が足を取られることもある」
レオン「こんな細い縄なら、見落としそうですね」
ガルド「だから人の通り道には仕掛けんし、許しのない場所にも置かん。今日は見せるだけだ」
ガルドは輪を解き、縄を肩へ戻した。
ガルド「森に入る前に、どこを人が歩くのか知っておけ。勝手に仕掛けた罠で誰かが怪我をしたら、肉どころじゃない」
レオン「ミーナにも、同じことを言われました」
ガルド「草籠の娘か。あの子の方が、森じゃお前より物を見てるかもしれんな」
レオン「……それは否定できません」
農家の男が腹を抱えて笑った。
◇
ガルドは橋から少し離れた林縁まで、二人を案内した。
木々はまだまばらで、地面には人が踏み固めた細道がある。ガルドは道を外れず、幹の低い位置についた古い傷を指した。
ガルド「ここから先は、集落で薪を採る人も通る。猟のために使っていい場所と、そうでない場所が分かれてる。境を知ってるか?」
レオン「いいえ」
ガルド「なら、今日は見るだけだ。お前の食堂の土地をもらったからって、この森までお前のものにはならん」
レオン「そのつもりはありません。使える場所は誰に確認すればいいですか」
ガルド「集落の土地の世話役だ。俺も決められた範囲で猟をしてる。境の外や、今は獲ってはいけない獣に手を出すなら、まず向こうの管理者の許しが要る」
ガルドは枝で地面に橋と林の形を描いた。農家の男が、畑へ続く道を指で足す。
男「俺の畑はここ。森と畑の間には、細い水路がある」
ガルド「そこまでなら、狩りの道具を持たずに様子を見に行ける。今日はお前に、どこまで歩いていいかを教える。獲る許可は別の話だ」
ガルドは話を終えると、先に立って歩き出した。
道の土は湿っていた。木の根を避けて進むうち、レオンは獣の足跡らしい窪みを見つけた。
レオン「これですか?」
ガルド「そっちは人の踵だ。昨日、俺が歩いた」
レオン「……失礼しました」
ガルド「いい。俺も最初は、自分の足跡を獣だと思った」
少し先でガルドがしゃがみ込んだ。
ガルド「こっちだ」
泥の上に、丸みのある小さな跡が二つ並んでいた。その脇には、葉先をかじられた草がある。
ガルド「小さな角の獣が通った跡だ。森の浅いところでも見かける。食べられる種類だが、見た目だけで決めるな。似ていても食用にしないものがいる」
レオン「捕れたら、そのまま店へ持って帰れますか」
ガルド「生き物を倒して終わりじゃない。血を抜いて、内臓を確かめ、傷ませずに運ばなきゃならん。病気や変な臭いがあれば、食卓に出すな」
レオンは泥の跡を見ながら、母の料理帳に書かれた焼き色を思い出した。
あの一行の前に、これほど知らないことがある。
レオン「俺は、肉を料理する側をやります。獣の見分けや扱いは、まずあなたに教わりたい。店で出せるものかどうかも、確認してから決めます」
ガルド「無理に知った顔をしないのはいいことだ」
レオン「……元勇者だったので、知った顔をする機会は多かったんですが」
ガルド「勇者が肉の傷みを止められるのか?」
レオン「いいえ」
ガルド「なら、包丁を持つ前に覚えることがあるな」
レオンは素直に頷いた。
◇
林の切れ目から、農家の畑が見えた。
畝の端に、浅く掘り返された土がある。農家の男はそこへ近づき、黙ってしゃがんだ。
男「……またか」
レオン「何かありましたか」
男「端の根菜が一本、土から出かかってる。昨日は埋まってたんだがな」
男は根菜の肩に付いた泥を、指でそっと寄せ戻した。
男「小さいうちから婆さんが水をやってたやつだ。こうして土が浮くと、乾いて傷みやすくなる。売り物になるまで、まだ手がかかるのにな」
根元には細い爪のような跡がある。けれど、その先は乾いた土に消えていて、何が触れたのかはわからない。
ガルド「今、食べられたわけじゃない。夜のうちだろう。小さな獣か、もっと大きな奴の下見かもしれん」
男「下見なんて言うな。作物を見に来る客は、金を払ってくれん。うちじゃ一本残るかどうかで、明日の鍋の中身が変わるんだ」
ガルドは笑わなかった。水路の縁に立ち、対岸の茂みを眺める。
ガルド「ここのところ、森の奥から下りる足跡が増えてる。まだ何が原因かは決められん。畑に近いからといって、ここへ勝手に罠は置けないぞ」
男「わかってるよ。婆さんが畑へ出るんだ。危ない仕掛けなんかごめんだ」
レオンは、男が土を寄せた根菜を見た。自分の店では、買った根菜を刻んで鍋に入れる。だがその前には、朝ごとに水を運び、収穫まで畑を見守る人がいる。
肉を手に入れたいと思って森へ来た。けれど、獣が畑へ下りるなら、肉の話だけでは済まない。いつも野菜を届けてくれるこの男の、明日の食卓にも関わることだった。
レオン「この跡、明日も残りますか」
ガルド「雨が降らなければな。残らなくても、俺は今日見た場所を覚えておく」
レオン「俺も場所を覚えます。肉が欲しいからといって、勝手に追いかけることはしません。畑のことも気になります」
ガルド「それでいい。怖いもの知らずより、約束を守る奴の方が一緒に歩ける」
ガルドは荷袋から小さな木札を出した。片面には、橋から林縁までの道が粗く刻まれている。今日歩いた範囲を示すためのものらしい。
ガルド「これを貸す。今日見た道だけだぞ。森の奥へ通じる道があると思って勝手に進むな」
レオン「助かります」
レオンは札を受け取る前に、財布を開いた。
レオン「今日は案内してもらった分を払わせてください。猟の仕方を教わるのは、仕事ですから」
ガルド「……紹介された時点で、ずいぶん変わった料理人だと思ったが」
レオン「食堂も、食べた人に払ってもらわないと続けられません」
ガルドは少し考え、案内の代金として小銅貨二枚を受け取った。
ガルド「明日の朝、俺は世話役のところへ行く。お前が猟の手伝いをするなら、入っていい範囲を一緒に確かめよう。許可が出たら、安全な道具の扱いからだ」
レオン「明日は仕込みがあります。昼の営業を終えてからでも?」
ガルド「急がなくていい。明日の夕方、石橋で待ち合わせよう」
レオンは頷いた。猟ができると決まったわけではない。それでも、次に会う場所と、許可を確認する相手は決まった。
◇
食堂の札を『営業中』に戻したのは、午後になってからだった。
レオンは午前中に下ごしらえしておいた小芋を、皮つきのまま半分に切って鉄鍋へ並べた。少量の油で切り口を焼き、表面が色づいたら蓋をして弱火で蒸し焼きにする。箸の先がすっと通ったところで、塩と乾燥香草を振った。
皮の縁は香ばしく、中はほくほくしている。汁物とは違って、畑仕事のあとでも手早く食べられる一皿になった。
最初に入ってきたのは、朝の約束を取り持ってくれた農家の男だった。
男「昼は話ばかりで腹が減った」
レオン「小芋の蒸し焼きです。小銅貨一枚」
男「俺が持ってきた芋じゃないか。ずいぶん立派になったな」
レオン「代金を払って買ったので、遠慮なく料理しました」
男「俺も代金を払って食うんだな」
レオン「そこはお願いします」
男は笑って席に着いた。一つ頬張ると、皮の焼けたところを指で摘まむ。
男「……これ、家でもできそうだな」
レオン「できますよ。先に切り口を焼くと、香りが違います」
男「婆さんに教えてやるか。芋ならあるし」
レオン「次に来たら、感想を聞かせてください」
男は皿を空にし、小銅貨を置いて帰っていった。
片づけの途中、レオンは借りた木札を棚の脇に立てかけた。橋から林の端へ伸びる、短い一本の道。
そこまでなら今日、自分の足で確かめた。どんな獣が通るのかも、少しだけ教わった。
それなのに、思い浮かぶのは獲物より、畑で根菜に土を寄せていた男の指だった。
レオン「……まずは、森の決まりからだな」
肉料理のページには、まだ栞を挟んだままだ。
明日の夕方、もう一度石橋へ行く。その前に、いつもどおり店を開ける。
森で何かを獲るためにも、誰かの暮らしを傷つけないためにも、覚えなければならないことがある。
レオンは木札を伏せ、明日の仕込みのために新しい小芋を洗い始めた。




