第19話 肉を忘れた料理人
料理帳の肉料理のページには、油の染みがついていた。
厚切りの肉を焼くときは、先に表面へ焼き色をつける。鍋底に残った旨みを少量の水でこそげ、香草と一緒に煮詰めれば、肉にかける汁になる。
母の字の横には、昔のレオンが書き足した一文がある。
『焦って何度も裏返すな』
レオン「……俺が何回ひっくり返したんだろうな」
思い出せない。だが、失敗したときの焦げた匂いは覚えている。
昨日、ノエラに野菜料理ばかりだと言われた。肉を使うなら、ただ腹にたまるだけではない、ちゃんと食べたいと思ってもらえる皿にしたかった。
レオンは料理帳を閉じ、朝の仕込みに戻った。
今日は小芋を蒸して潰し、細かく刻んだ根菜を混ぜる。塩と、ミーナから買った香草を少し。平たくまとめて鉄鍋に並べると、表面がこんがり色づき始めた。
焼けた一枚を割る。外側は薄く香ばしく、中には芋の熱が残っている。
レオン「悪くない。でも……」
料理帳の中の厚切り肉が、どうにも頭から離れなかった。
◇
昼前、戸口に草籠が現れた。
ミーナ「今日の分。乾いた葉はこっち、生の葉は別の袋」
レオン「ありがとう。いつもの量だな」
ミーナ「値段もいつもどおりよ。勝手に増やしてないから」
レオン「疑ってないよ」
ミーナ「顔に書いてある」
レオン「どこに?」
ミーナ「……書いてないならいいわよ」
レオンは香草を確かめて代金を渡した。ミーナは硬貨を数え、籠の内側にしまう。
帰るかと思ったが、彼女の目が調理台へ向いた。
ミーナ「それ、何?」
レオン「芋と根菜の焼き物。今朝作った」
ミーナ「ふうん。肉は?」
レオン「まだない」
ミーナ「『まだ』って、作るつもりはあるの?」
レオン「ある。昨日から考えてる」
ミーナ「だったら、いつまで芋を焼いてるのよ」
レオン「肉がないからだろ」
ミーナが呆れた顔をした。
ミーナ「この辺の森に獣がいないと思ってる?」
レオン「いるのは知ってる。食べられる種類までは知らない」
ミーナ「じゃあ最初からそう聞けばいいじゃない」
彼女は籠を下ろさず、窓の向こうの山裾を指した。
ミーナ「石橋の向こうの森で、小さな角のある獣を見たことがある。あれを食べる家はあるわ。山の奥にはもっと大きなのもいるけど、危ないから近づかない方がいい」
レオン「小さな角か。名前は?」
ミーナ「人間の呼び方まで知らないわよ。見た目だけで食べられるか決めないでね」
レオン「それはそうだな」
ミーナ「それと、森で勝手に罠を仕掛けるのも駄目。人が通る道があるんだから」
レオンは頷いた。魔物と戦った経験はあっても、獲物を食卓に出すための狩りを知っているわけではない。
レオン「狩る場所の決まりも、さばき方も確かめないとな」
ミーナ「珍しく慎重ね」
レオン「料理の失敗なら俺の昼飯がまずくなるだけだけど、森じゃそうはいかない」
ミーナは一度だけレオンの顔を見た。
ミーナ「……わかってるならいいわ」
レオンは焼き物を一枚、皿に載せた。
レオン「一枚、小銅貨一枚。食べてみるか?」
ミーナ「肉の話をした客に芋を売るんだ」
レオン「今売れるのはこれだからな」
しばらく皿を見ていたミーナは、硬貨を一枚置いた。
ミーナ「味を確かめるだけよ」
レオン「ありがとうございます、お客様」
ミーナ「その言い方、やめて」
彼女は立ったまま一口かじった。焼けた表面が小さく割れる。
ミーナ「……中は柔らかいのね」
レオン「芋だからな」
ミーナ「そこは知ってる!」
残りを食べ終えると、ミーナは皿を調理台に戻した。
ミーナ「肉を焼くなら、その草は控えめにした方がいいかも。匂いの強い獣だと、合わせ方が違うし」
レオン「食べたことがあるのか」
ミーナ「私が食べたことまで、アンタに話す義理はないでしょ」
それ以上は答えず、籠を担いだ。
ミーナ「森へ行くなら、獣だけ見て歩かないことね。足元の土も、木の枝も見なさいよ」
レオン「わかった。助言は助かった」
ミーナ「草を買ってくれる人が森で迷ったら、困るだけ」
ミーナはそう言って出ていった。
レオンは空いた皿を洗いながら、少し笑った。昨日までは肉の仕入れ先すら考えていなかった。今日はもう、教わりたいことがいくつもある。
◇
午後、石橋の農家の男が店へやってきた。
男「焼き物があるって札に書いてあったな」
レオン「芋と根菜の焼き物です。小銅貨一枚で」
男「それを一つ。畑仕事のあとには、腹にたまる方がいい」
レオンは新しく焼いた一枚を皿に載せた。男は縁の焦げたところからかじり、頷く。
男「これなら、うちの婆さんにも作ってやれそうだ」
レオン「根菜は小さく刻むと食べやすいですよ」
男「で、今日は何を考えてる? 顔が落ち着かんぞ」
レオン「そんなにわかりますか」
男「畑で種をまく前の息子と同じ顔だ」
レオンは棚の料理帳を見た。
レオン「肉を使った料理を出したいんです。でも、森で獣を捕るなら、土地の決まりも、食べられる種類も知らないといけない」
男「西の町から肉を買ってくる手もあるだろう」
レオン「あります。ただ、片道二日ですから。生肉を持って帰るのは簡単じゃないし、店を何日も閉めることになります」
男「そうだな。買って済む話じゃないか」
男は焼き物をもう一口食べ、少し考えた。
男「猟をしてる者なら知ってる。石橋の向こうで畑を荒らす獣を追ってる男だ」
レオン「会わせてもらえますか」
男「明日の昼前、集落の橋のところへ寄るはずだ。俺も野菜を持っていく。話を聞くなら、そのときだな」
レオン「行きます。相談にも相応の礼を払います」
男「それは本人に言ってやれ。猟師の仕事も、ただじゃないからな」
男は皿を空にした。
男「一つ言っとくぞ。誰が森を使っていいのか、俺は決められん。獲物を売れるかどうかも、猟師に確かめろ」
レオン「はい。許可をもらう前に勝手なことはしません」
男「その返事なら、紹介してもいいな」
男は小銅貨を置き、明日の待ち合わせをもう一度確かめて帰っていった。
レオンは札の売上を記し、窓から旧街道を見た。森へ行く約束ではない。森の決まりを知る人に会う約束ができたのだ。
◇
店を閉めたあと、レオンは料理帳をもう一度開いた。
肉に焼き色をつける。焦がさず火を通す。骨を煮て出汁を取る。
簡単そうに書かれた一行の向こうに、獣を選ぶ目があり、狩る人の技術があり、運ぶ手間がある。安全に食べられるように処理し、傷ませずに店まで届ける方法だって必要だ。
レオン「……一皿まで、遠いな」
そう言いながら、声は弾んでいた。
昔は剣を握れば前へ進めると思っていた。今は包丁を握っても、知らないことばかりだ。
レオンは帳面の明日の欄に書き込んだ。
『昼前、石橋。猟師に相談する。森の決まりと、食べられる獣を聞く』
それから、少し迷って付け足した。
『店は午後から開ける』
料理帳を閉じるころ、竈の火は静かになっていた。
まだ肉は一切れもない。
けれど明日は、その一切れを手に入れるために、知らなかった森の話を聞きに行ける。




