第2話 勇者を憎む、最初のお客様
レオン「元な。お前は誰だ? 客か?」
少女の眉が跳ね上がった。
ミーナ「……客に見える?」
レオンは少女の握りしめた拳を見た。旅塵のついた裾。袖口には引っかけたらしい小さな裂け目がある。腰に剣はない。それでも、今にも飛びかかってきそうな顔だった。
レオン「見えないな」
ミーナ「だったら聞かないでよ!」
レオン「食堂だからな。一応」
少女は入り口の看板を見上げた。『食堂』の二文字を、何かの罠でも見つけたように睨む。
ミーナ「……本当に、こんなことしてるんだ」
声が少しだけ低くなった。
ミーナ「魔王様を殺したくせに」
竈の薪がぱちりと爆ぜた。
レオンは持っていた布巾を調理台に置いた。少女の目を見返す。
レオン「俺が倒した」
ミーナ「知ってる。知らないわけないでしょ」
少女は一歩進んだ。床石を踏む音が、がらんとした店内に響いた。
ミーナ「王都では、お祝いしたんだってね。鐘を鳴らして、お酒を飲んで。人間はみんな嬉しそうだったって」
レオンの耳にも、あの日の鐘の音は残っている。
レオン「……そうだな」
ミーナ「何がそんなに嬉しいのよ」
返事を急げる問いではなかった。
窓から差し込む夕日が、少女の黒い角の先を照らしていた。彼女は何か言われるのを待っているようで、同時に、どんな言葉も聞きたくなさそうだった。
レオン「戦いが終わったことを、喜んだ人はいる」
ミーナ「じゃあ、アンタも喜んだんだ」
レオン「生きて帰れたことは、嬉しかった」
少女の唇がきゅっと結ばれる。
レオン「でも、あの人が死んで嬉しかったわけじゃない」
ミーナ「……嘘」
吐き捨てた声は小さかった。
ミーナ「勇者は魔王を倒すものだって、人間はずっと言ってた。だから倒して、褒められて……今はこんなところで、のんきに料理?」
レオン「そう見えると思う」
ミーナ「思う、じゃない!」
少女が調理台を叩いた。棚の木皿がかたんと鳴る。
ミーナ「アンタには終わったことでしょうね。でも、こっちは終わってないの!」
少女は赤くなった掌を引っ込めた。
ミーナ「魔王様、料理をするたびに鍋を焦がして……」
ふいに声が途切れる。少女は唇を強く結び、レオンから目をそらした。
レオン「……そうだろうな」
彼女はその答えを気に入らなかったらしい。顔をしかめ、言葉を探すように息を吸った。
ミーナ「だったら、どうしてここにいるの。魔族の道に近い場所に、わざわざ」
レオン「ここで店をやりたかったからだ」
ミーナ「理由になってない!」
レオン「今は、それ以上うまく言えない」
少女は呆れたように笑った。笑ったといっても、目はまったく笑っていない。
ミーナ「勇者って、もっと立派なこと言うんだと思ってた」
レオン「期待に添えなくて悪い」
ミーナ「謝るところ、そこじゃないでしょ」
言ってから、少女は自分の言葉に噛みつかれたように黙った。
レオンは黙っていた。
しばらく、竈の火が燃える音だけがした。
少女の腹が鳴った。
あまりにきれいな音だったので、二人とも同時にそちらを見た。
ミーナ「……今のは違う」
レオン「何がだ」
ミーナ「違うったら違うの!」
少女の頬がみるみる赤くなる。
レオンは笑わなかった。朝から仕込んでいた小鍋の蓋を開け、匂いを確かめる。日中は火にかけて温度を保ち、少し前にもう一度十分に煮立てたところだ。
レオン「野菜のスープがある。まだ温かい」
ミーナ「いらない」
レオン「そうか」
蓋を戻そうとすると、少女の視線が一瞬だけ鍋に落ちた。
ミーナ「……魔族に、人間の料理を食べさせる気?」
レオン「食べられないものがあるなら、先に教えてくれ。入っているのは玉ねぎと根菜、塩、香草だ」
ミーナ「そういうことじゃ……」
少女は奥歯を噛みしめた。
ミーナ「毒を入れてるかもしれないじゃない」
レオン「俺も同じ鍋から食べた」
ミーナ「勇者なら毒くらい平気かもしれないでしょ」
レオン「……それは試したことがないな」
ミーナ「試さなくていいわよ!」
勢いよく言い返したあと、少女は目をそらした。腹が、今度は控えめに鳴る。
レオンは椀を一つ取り、熱いスープを注いだ。匙と、小さく切ったパンを添える。
レオン「ここに置いておく。食べるかどうかは自分で決めてくれ」
ミーナ「だから、いらないって!」
レオン「わかった」
椀を窓際の席に置き、レオンは厨房に戻った。彼女の前へ押しつけはしなかった。
少女は食堂を出ようと扉へ向かった。取っ手に手をかけて、動きを止める。
ミーナ「……なんで何も聞かないの」
レオン「何を?」
ミーナ「私が誰か、とか。何しに来たか、とか」
レオン「最初に聞いた」
ミーナ「そうじゃなくて!」
振り返った少女は、扉の取っ手を握ったままレオンを睨んでいた。
レオン「名前は、教えたくなったらでいい」
ミーナ「教えない。絶対に」
レオン「わかった」
またそれだ、とでも言いたげに眉を寄せる。
そのまま数歩、外へ出ていった。
足音が遠ざかりかけたところで止まった。
レオンは振り返らず、洗い終えた器を拭いた。戻ってこなければ、窓際の一杯は自分で食べるつもりだった。
扉がもう一度、ぎい、と鳴った。
ミーナ「……冷めたら、もったいないでしょ」
少女は誰にともなく言って席へ座った。椀の匂いを確かめ、匙を取る。ほんの少し口に入れたところで、顔が止まった。
玉ねぎの甘みが染み出した汁に、柔らかく煮えた根菜。熱い湯気が冷えた頬を撫でる。
彼女はもうひと口すすった。
レオン「塩が足りなければ言ってくれ」
ミーナ「……別に」
匙がゆっくり動く。途中でパンをちぎり、スープに浸した。
レオンは食堂の片づけを続けた。窓際には近づかない。
やがて椀が空になった。
少女は匙を置き、空になった椀を一度見た。レオンと目が合うと、すぐに椅子を引いた。
少女は懐から小さな硬貨を取り出し、卓上へ置いた。レオンが値段を書いた札を出していないせいか、彼女は少し考えて、もう一枚重ねた。
レオン「待て。まだ値段を決めてない」
ミーナ「はあ?」
レオン「今日が開店初日でな。決めるのを忘れてた」
ミーナ「……商売する気あるの?」
レオン「ある。明日までには決める」
少女はほんの一瞬、呆気に取られた顔をした。
ミーナ「これでいい。釣りなんかいらない」
レオン「多すぎるかもしれないぞ」
ミーナ「だったら次に来たとき返して」
少女は自分の言葉に気づいたのか、硬貨の置かれた場所を一瞬見つめた。
ミーナ「……来るとは言ってないから」
扉が開き、すぐ閉まった。
レオンは窓へ視線を向ける。少女は草に覆われた街道を、振り返らずに歩いていった。
テーブルには硬貨が二枚と、きれいになった椀が残っている。
レオンは硬貨を引き出しの端に分けて置いた。いくら返せばいいのか、明日こそ考えなければならない。
外はもう薄暗い。
片づけを終え、戸締まりをしようとしたとき、レオンは入り口の敷石に落ちた細い銀紫色の髪を一本見つけた。
その先には、人ひとりが通ったばかりの草の倒れた跡が続いている。
レオンは小さな案内板のために用意していた木板を、戸口の脇へ立てかけた。
今夜のうちに、道を少し刈っておこう。




