第1話 勇者、褒賞を断るレオン
「お断りします」
金貨を載せた盆を運んでいた侍従が、ぴたりと足を止めた。
盆の上で金貨が一枚、ちりんと鳴る。
エドワード「……今のは、どれに対する返事だ?」
玉座のエドワード三世は、怒るより先に確かめた。公爵位、黄金、領地、王家との婚姻。魔王を討った男への褒賞は、どれも王国にとって最大級のものだ。
レオン「全部です。身に余ります」
エドワード「余の娘もか」
レオン「お会いしたこともありませんので」
国王は口を開きかけ、閉じた。
エドワード「……娘には、そなたの話を聞かせてある」
レオン「それなら、なおさら一度ご本人に尋ねていただかないと」
玉座の脇で誰かが咳払いをした。エドワードは笑いをこらえる廷臣たちをひと睨みし、レオンに向き直った。
エドワード「では、余に何を与えさせるつもりだ。まさか、何も受け取らず去るとは言うまいな」
レオン「一つ、お願いがあります。西の国境にある廃村の、王国側の一画をいただきたいんです」
エドワード「あの街道沿いか? 建物も道も荒れたままだぞ」
レオン「承知しています」
エドワード「そこに何を築く?」
レオン「食堂を」
今度の咳払いは、あちこちから聞こえた。
エドワードはしばらくレオンを見つめ、それから深く椅子に腰を預けた。
エドワード「食堂なら王都で開け。客も食材も揃う。土地は余が用意しよう」
レオン「ありがたいお話ですが、場所は変えません」
国王の指が肘掛けを一度叩いた。
エドワード「そなたが国境へ行けば、王国は勇者を手の届かぬ場所に置くことになる。平和になった今こそ、民には英雄の姿が必要なのだ」
レオンは顔を上げた。国王の言葉には、引き留めようとするだけの重さがあった。
その隣で、宰相アルベルトが静かに口を開く。
アルベルト「確認を一つ。レオン殿は、今後、王命による出征も拒否なさると?」
レオン「はい。政治にも関わりません。次に戦争が起きても、命令で人を殺しに行くつもりはありません」
アルベルト「王国の民が危険にさらされても?」
レオン「目の前で襲われている人がいれば助けます。そこは変わりません。ただ、誰を敵にするかを命じられるのは、もう終わりにしたいんです」
アルベルトは一つ頷き、国王へ目を向けた。
アルベルト「勇者の称号は王国の守護を務めとする地位です。ご本人がその任を辞す以上、称号を残すことはできません」
エドワードの眉間に皺が寄る。窓の向こうから、祝賀の鐘が聞こえてきた。
エドワード「……最後に聞く。考えは変わらぬか」
レオン「はい」
エドワード「ならば、勇者の称号を剥奪する。聖剣も返してもらおう」
レオンは腰の鞘に手を添えた。
六年前、初めて握ったときより、柄革はずっと柔らかくなっている。替えたばかりの巻き革には、セシリアが雑だと笑った結び目が残っていた。
鞘を外す指が、一瞬だけ止まる。
レオンは聖剣を両手で台座に置き、手を離した。
エドワード「土地は、褒賞として正式に譲ろう。旧村落の王国側、その一画に限る。証書も渡す」
レオン「ありがとうございます」
エドワード「……うまい料理を作れよ」
意外な言葉に、レオンは顔を上げた。
レオン「はい。陛下にも、いつか」
国王は困ったように笑った。
謁見の間を出て数歩、レオンはいつもの癖で腰に手を伸ばした。そこには、何もなかった。
◇
セシリア「今、剣の場所を確かめたでしょう」
廊下の柱に寄りかかったセシリアが、まるで見ていたかのように言った。
レオン「見てたのか」
セシリア「顔に書いてあるわ。『ない』って」
レオン「……寂しいもんだな」
セシリアの笑みが少しだけやわらいだ。
セシリア「そういうこと、ちゃんと言えるのね」
レオン「お前が聞いたんだろう」
セシリア「聞いてないわよ。先に顔を読んだの」
二人は並んで歩き出す。外ではまだ祝賀の鐘が鳴っていた。
セシリア「それで、食堂の名前は?」
レオン「考えてない」
セシリア「まさか、看板に『食堂』って書く気?」
レオン「……わかりやすいだろ」
セシリア「当たっちゃった」
セシリアが肩を揺らす。レオンも笑った。
セシリア「料理の腕は知ってるけど、接客は心配ね。お客さんに文句を言われたら?」
レオン「まず話を聞く。それから、直せるところは直す」
セシリア「……案外まともね」
レオン「何を期待したんだ」
廊下の向こうから教会の使者が近づき、セシリアへ分厚い書類を差し出した。
使者「セシリア様、明日の就任式と、北部の救護所からの報告です」
セシリア「報告は先に執務室へ。就任式の方は、あとで確認します」
使者が去ると、レオンは彼女の抱えた書類を見た。
レオン「大聖女は大変だな」
セシリア「まだなってません。それに、名前が変わったくらいで仕事が減るわけでもないし」
レオン「そうだな」
廊下の分かれ道で、セシリアが足を止めた。
セシリア「……屋根が直ったら、手紙をちょうだい」
レオン「屋根?」
セシリア「あなた、店ができるまで連絡を寄こさなさそうだから。途中経過でいいの」
レオン「わかった」
セシリアは彼の襟元に手を伸ばし、曲がった端を直した。指を離したあと、何かを言いかけて、代わりに笑う。
セシリア「あと、自分の分もちゃんと食べること。みんなに配って、残り物で済ませない」
レオン「……気をつける」
セシリア「よろしい。じゃあ、またね」
レオン「ああ。また」
彼女は書類を抱え直し、教会の使者が待つ方へ歩いていった。
◇
王都で揃えた荷物のうち、いちばん気に入ったのは厚手の鉄鍋だった。
鍋屋の店主「十人分? その辺境の店で、最初から十人も来るのかい?」
レオン「来ないと思う」
鍋屋の店主「じゃあ、なんで大鍋を?」
レオン「一人分を作る日もあるだろう。でも、十人来た日に足りないのは嫌だ」
店主は呆れた顔で、ひと回り小さい鍋も棚から下ろした。
鍋屋の店主「じゃあ両方持ってけ。小さい方は毎日使う。大きい方は、いつか満席になったらだ」
レオンは二つの鍋を見比べ、頷いた。
そのほかに食器や調味料、保存食、丈夫な屋根板も買った。荷馬車の代金を払うと、旅の貯金の減り方に初めて少し驚いた。
数日後、国境の旧街道は草に埋もれていた。御者が進めるところまで馬車を寄せ、残りは自分で荷を運ぶ。
布で包んだ古い料理帳を荷の上に載せ、レオンは村へ入った。
家々は壁だけを残して崩れ、踏みしめる土の下で古い瓦が割れた。
その一角に、石壁と二つの竈が残る建物があった。かつて誰かが大勢の食事を作ったのだろう。流し台の下に、小さな欠けた椀が転がっている。
レオンはそれを棚の隅に置き、袖をまくった。
重い石材は補助魔法で動かせた。傾いた扉も直せた。けれど、雨は剣で切れない。
屋根を張った三日目の夜、眠っていたレオンの額に、冷たい雫が落ちた。
レオン「……そこか」
寝台を横へ引いた途端、別の場所からも滴る。
レオン「そっちもか」
翌朝、持ち込んだ屋根板の重ね方を変えた。水を流して確かめると、今度は落ちてこない。乾いた寝具を広げたとき、魔王城を攻略した日とは別の種類の達成感があった。
椅子は不揃いでも、四人が腰かけられる。窓は開くし、竈の煙もきちんと外へ出る。
入口に打ちつけた看板には、予定どおり二文字だけ刻んだ。
『食堂』
少し遠くから眺めてみる。
案外、悪くなかった。
◇
開店の朝、レオンはいつもより早く目を覚ました。
まな板に包丁が当たる乾いた音。玉ねぎを薄く切ると、目の奥がつんとする。皮をむいた根菜は、大きさを揃えて鍋に落とした。
鍋に少しの油を引き、玉ねぎが透き通るまで炒めてから水を注ぐ。ふわりと上がった湯気が、冷えた指先を包んだ。
煮えるにつれて、野菜の甘い匂いが厨房いっぱいに広がっていく。
塩を少し。乾かした香草を指でもんで加え、木匙でゆっくり混ぜる。
味見をすると、根菜の甘さが舌に残った。温かくて、腹の底がほっとする味だ。
ただ、母が作っていたスープは、もう少し何かが違った。
レオンはもうひと口飲み、塩を足しかけてやめた。
レオン「……今日はこれでいい」
パンを軽く焼く。表面に薄い焼き色がつくと、香ばしい匂いがスープに重なった。切り分けたパンを布で包み、木皿と匙を席に置く。
入口の扉を開ける前に、レオンは椅子の向きをもう一度揃えた。
レオン「よし」
草の向こうまで、朝の光が伸びていた。
最初にやって来たのは、崩れた塀に止まった一羽の鳥だった。
レオン「……お前はパンでいいか?」
鳥は返事もせず飛んでいく。
レオン「そうか。店内で食べる気はないか」
昼過ぎ、レオンは小鍋のスープを温め直しながら、街道の方を眺めた。
人の姿はない。店の場所を知らせる目印が、あの草むらの先には一つもなかった。
明日は道を少し刈って、案内板を立てよう。鍋屋に勧められた小さい方だけで仕込むのもよさそうだ。
夕方、レオンはようやく自分の席に座った。
スープに焼いたパンを浸す。香ばしい皮が汁を吸ってやわらかくなり、噛むと野菜の甘みが広がった。
うまい。
けれど、向かいの椅子は空いたままだ。
窓の外には、魔族領へ続く山影が見えた。
遠い場所で終わった戦いのあとにも、こうして誰かの夕飯時はやってくる。
レオンは椀を持ち上げた。明日は誰かと同じ鍋を囲めるだろうか。
食べ終えた器を洗い、竈の火を弱める。
そのとき、入口の蝶番がぎい、と鳴った。
レオンが振り返る。
扉の向こうに、少女が立っていた。
夕日に透ける銀紫色の髪。額には小さな黒い角が二本。琥珀色の瞳が、レオンの顔をまっすぐ捉えている。
年の頃は十六ほどだろう。旅塵のついた服の裾を、片手で強く握っていた。
スープの香りが流れていく。少女はそれにも、並んだ席にも目を向けない。
ただ一歩、敷居を越えた。
ミーナ「……アンタが勇者?」




