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分かってるけど


 剣に名前をつけた日から、何かが変わった。


 何が変わったのかは、うまく言えない。装備の手入れの手順は同じだし、朝起きる時間も同じだし、ニーカがうるさいのも同じだ。でも蓄を手に取った時の感触が違う。名前のある剣は、手の中での存在感が違う。呼べば応える感じがある。


 装備師の感傷かもしれない。でも感傷で刃の手触りが変わるなら、それはもう感傷じゃなくて事実だ。


 夕方。依頼をこなして宿に戻って、手入れの時間だ。


 ニーカの盾。今日の依頼で受けた打痕が二箇所。浅いから研磨で均す。裏のグリップを締め直して、終わり。


 リーゼの杖。触媒結晶の汚れを落として、柄に油を塗る。結晶の角度は問題なし。揺らぎ域で入れた緩衝材がいい仕事をしている。残しておいて正解だった。


 セリアの短剣。


 最後。いつも通り、最後だ。


「セリア、短剣」


「うん」


 セリアが短剣を差し出した。受け取って、刃を確認する。刃こぼれはない。研ぎの状態も良好。新しく買った鞘との相性もいい——革が馴染んできて、抜き差しが滑らかになっている。


 研ぎ石をあてた。角度を合わせて、一定のリズムで研いでいく。


 セリアがいつものように隣に座った。俺が手入れするのを見ている。いつもの光景だ。最初の頃は何をしているのか不思議そうに見ていたけど、今はただ黙って見ている。時々、油の塗り方を覚えようとして目を細めている。


「……ねえ、ラグ」


「ん」


「ずっと聞きたかったことがある」


 研ぎの手は止めなかった。でも、指先の力加減が少しだけ変わった。自分で分かった。


「何だ」


「わたしの短剣を一番手入れしてくれてるの——本当に約束だからやってる?」


「約束だからだけど」


「約束だから一番大切にしてるの? それとも——ラグがそうしたいから?」


 研ぎの手が止まった。


 この質問は、装備の話じゃない。装備の話に見せかけた、別の質問だ。分かっている。ずっと分かっていた。セリアが何を聞いているのか、何を待っているのか、俺は分かっていて——ずっと装備の話に逃げてきた。


 逃げるか。


 いつもみたいに「約束だから」と言えば、それで終わる。セリアは「もういい」と言って唇を尖らせて、明日にはリセットされる。いつも通りの朝が来る。


 でも——蓄に名前をつけた。


 名前をつけるということは、認めるということだ。この剣が特別だと認めること。俺の道が特別だと認めること。


 だったら。


 セリアの短剣を手入れすることが特別だと認めることから、逃げるな。


「……そうしたいから、俺がそうしてる」


 言った。


 声に出した瞬間、指先から力が抜けた。刃の上に手を置いたまま動けなくなった。言ったぞ。言っちまったぞ。取り消せないぞ。


 セリアの呼吸が止まった。隣で空気が固まったのが分かる。


「最後にやる装備は、一番丁寧にやりたいから。時間をかけたいから。他の奴を全部終わらせて、最後にお前の短剣だけに向き合いたいから、一番時間をかけてる」


「……」


「それは約束だから、じゃない。俺がそうしたいからやってる」


 セリアが何も言わない。横を見た。


 泣いてた。


 声を出さずに、泣いていた。涙がぽたぽた膝の上に落ちている。


「……何で泣くんだ」


「泣いてないっ」


 泣いてる。明らかに泣いてる。


「分かってた。ラグがそうしてくれてること、分かってた。見てれば分かるもん。最後の手入れが一番長くて、一番丁寧で——分かってた」


「じゃあ何で聞いた」


「分かってるけど——ちゃんと言葉で聞きたかったの」


 分かってるけど。


 セリアはいつもそう言う。分かってる。分かってるけど。その先を言わずに、唇を尖らせて黙る。


 でも今日は、その先があった。


「ラグ」


「何だ」


「わたしの短剣、ラグにとって——何番目に大事?」


 装備の言葉で聞いてくれるのか。ありがたい。装備の言葉なら言える。


「蓄の次」


「……次、じゃなくて」


「…………同じくらい」


 言った。


 心臓がうるさい。走ってもいないのに。あの斜面の時と同じだ。走ったせいにできる言い訳が今回はない。


「同じくらいか——」


 セリアが涙を拭いた。袖でぐいっと。乱暴に。それから、笑った。泣きながら笑うのは反則だと思う。どう対処していいか分からない。装備師の道具箱には対応する工具が——


「ラグ」


「何だ」


「手、出して」


「……研ぎの途中だけど」


「いいから」


 セリアが俺の右手を取った。


 短剣の握り方を矯正した時と同じだ。あの時は短剣の柄を挟んで手を重ねた。セリアの指と俺の指が、柄の上で絡まった。


 今度は短剣がない。


 手と手だけだ。何も挟まずに、指が触れている。セリアの手は小さくて温かくて、あの時と同じだ。でも、間に何もないだけで全然違う。


「前に、手を重ねてくれた時——あの時から、ずっと」


「……ああ」


「装備の手入れだって言ってたけど」


「言ってた」


「嘘でしょ」


「…………半分くらいは」


「半分は本当なの?」


「装備師だから。半分は本当に握り方の矯正だった」


「残りの半分は?」


「……お前の手を、握りたかった」


 セリアの指が、きゅっと締まった。


 泣いてるのか笑ってるのか、もう分からない。たぶん両方だ。こいつはいつも両方やる。


「ラグ」


「ん」


「ラグの装備の言葉、好きだよ」


「……」


「短剣が大事とか、蓄と同じくらいとか、全然ロマンチックじゃないけど——ラグが一番本気で言える言葉が装備の言葉なら、それがいい。それがわたしは嬉しい」


 返す言葉が見つからなかった。見つからなかったから、手を握り返した。


 短剣の柄を握る時と同じ力加減——じゃなくて。もっと弱くて、もっと丁寧で。壊れ物を扱うみたいに。


 壊れ物じゃないけど。大事なものだから。


 しばらく黙って座っていた。二人とも何も言わなかった。


 最後の手入れは、まだ終わっていない。セリアの短剣の研ぎが途中だ。


 でも、もう少しだけこのままでいよう。


 研ぎは後でやる。



    ※



 翌朝。


 共有スペースで朝の手入れをしていたら、ニーカが出てきた。


「おはよー。……なんか今日、空気柔らかくない?」


「柔らかい?」


「ラグとセリアの間。いつもより——何だろ、壁がないっていうか」


 セリアが台所で顔を真っ赤にしているのが視界の端に映った。


 リーゼが紅茶を淹れながら言った。


「ようやくよ」


「ようやくって、何が」


「何でもないわ」


「何でもなくないだろ。二人に何かあったんだろ。——あ」


 ニーカが俺とセリアを交互に見た。


「あー……なるほどね」


「分かったのか」


「分かるよ。わたしだって」


 ニーカが盾を壁から取って、肩にかけた。


「盾使いは空気を読むのが仕事だからな。前に何が来るか、横に何が来るか、後ろで何が起きてるか——全部見えてないと盾は構えられない」


 リーゼが紅茶を吹き出した。


「……ニーカ、あなたずっと気づいてたの?」


「気づいてたっていうか——二人がそういう感じなのは最初から分かってたよ。言わなかっただけで」


「言わなかった? あなた、ずっと天然で鈍感な振りを——」


「振りっていうか。言ったら二人とも逃げるだろ。特にラグが。だから黙って盾構えてた」


 リーゼが紅茶のカップを置いた。


「……ニーカ。あなた、見直したわ」


「へへ。——でも恋愛のことは本当に分かんないからな。ジークさんの手紙の返事、まだ書けてないし」


「それは早く書きなさい」


 セリアが台所から出てきた。まだ赤い。


「ニーカ、気づいてたの……?」


「うん」


「いつから」


「セリアがラグの手入れをじっと見てる時の目、最初から普通じゃなかったからな」


 セリアが両手で顔を覆った。


「わたし、そんなに分かりやすかった?」


「分かりやすかった」


 全員が同時に答えた。俺も含めて。


「ラグまで!?」


「……悪い」


「分かってたなら——分かってたなら何でもっと早く——」


「装備の言葉でしか言えなかったから」


「…………もう。ほんと、もう」


 セリアがまた「もう」と言っている。でも今日の「もう」は、怒ってない。呆れてもない。照れてるだけだ。


 いつもの朝だ。ニーカが腹減ったと言って、リーゼが紅茶を飲んで、セリアが赤くなっている。


 ただ一つだけ違うのは、俺が手入れしているこの剣に、名前があること。


 そして作業台の隣に座っているセリアとの間に、もう壁がないこと。


 壁はなくなった。でもやることは変わらない。朝の手入れを済ませて、依頼に出て、夜に手入れをして、最後にセリアの短剣を仕上げる。


 最後にしたいから、最後にする。


 それだけのことだ。

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