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命名


 目が覚めたのは、日の出より早かった。


 窓の外はまだ暗い。隣の部屋からニーカの寝息が聞こえる。こいつの寝息は盾にぶつかる風みたいにうるさい。


 眠れない、というのとは違う。体はもう十分休んでいる。ただ、起きなきゃいけない気がした。今日は朝の手入れを、いつもより丁寧にやりたい。理由は分かっている。


 共有スペースに出た。作業台の前に座る。


 道具を並べた。研ぎ石。油。布。革紐。補修材。いつもの配置に、いつもの順番で。


 四人分の装備を出す。ニーカの大盾。リーゼの杖。セリアの短剣。


 最後に、俺の剣。


 鞘から抜いた。


 青い光が、薄く刀身を覆っている。静かな光だ。明滅ではなく、灯り続けている。


 この剣と、どれくらいの時間を過ごしたか。


 最初はただの山岳鉄の剣だった。銘もなければ特別な来歴もない。鍛冶屋の片隅に転がっていた無名の一振り。俺が手に取ったのは、素材の手触りが良かったからだ。山岳鉄は硬くて粘りがあって、手入れに素直に応える。装備師にとっては扱いやすい、いい素材だった。


 それだけの理由で選んだ剣だ。


 こいつが経験値を蓄積する性質を持っていると分かったのは、しばらく使ってからだった。俺のレベルが上がらない代わりに、剣に経験値が流れ込んでいた。倒した魔獣の分、こなした依頼の分、走った距離の分。全部この刀身に溜まっていた。


 迷宮で覚醒した。蓄積経験値が閾値を超えて、剣が一段変わった。切れ味が跳ね上がって、刀身が青みを帯びた。


 揺らぎ域でさらに育った。経験値の流れが濃い環境で、蓄積が加速した。核の安定化の時には、この剣を通じてシステム全体の構造が見えた。


 そして今、この剣は俺の手の中で静かに光っている。


 研ぎ石をあてた。


 いつもの角度。いつもの力加減。刃の状態を指で読みながら、一往復ずつ研いでいく。


 研ぎながら、刃の中を読んだ。蓄積された経験値の層が、年輪のように重なっている。一層一層が、俺とこいつが過ごした日々の記録だ。薬草採取の日。ネズミ退治の日。甲殻獣を斬った日。セリアたちとパーティを組んだ日。迷宮に潜った日。揺らぎを直した日。


 全部、ここに積もっている。


 一日一日は小さい。一回の研ぎでは何も変わらない。でも毎日続ければ、刃は変わる。気づかないくらいゆっくりと、でも確実に。


 ()()


 こいつの本質はそれだ。一日分の経験値は微々たるもので、一回の手入れで劇的に切れ味が上がるわけじゃない。でも毎日毎日、少しずつ溜めて、少しずつ研いで、少しずつ育ってきた。派手な覚醒も、世界の核を直したのも、全部この「少しずつ」の上に乗っている。


 ()()こそが、こいつだ。


 そして蓄積は、兆しだ。


 今日の一研ぎが明日の切れ味になる。今日の一滴の油が来週の刃持ちになる。全部、未来への兆し。まだ来ていない明日のための、今日の仕事。


 ——名前が、降りてきた。


 降りてきた、という表現が一番近い。考えて絞り出したんじゃなくて、研ぎ石をあてている手の中に、するっと滑り込んできた。ずっと前からそこにあったのに、今まで気づかなかっただけのような。


 研ぎの手を止めた。


 刃を見た。青い光が、静かに応えている。


「——(きざし)


 声に出した。


 剣が、一瞬だけ強く光った。光はすぐに元の穏やかな輝きに戻ったけど、刀身全体の色が僅かに深くなった気がする。気のせいかもしれない。でも、手触りが変わった。名前を与えられた剣は、無名の時とは違う。持ち主に応える感触がある。


 蓄。きざし。


 日々の蓄積。未来への兆し。


 お前の名前だ。


 悪くないだろ。



    ※



 窓の外が明るくなっていた。日の出だ。


 他の三人の装備を手入れした。ニーカの盾、リーゼの杖、セリアの短剣。いつも通りの順番で、いつも通りの丁寧さで。


 セリアの短剣を仕上げたところで、足音が聞こえた。


「おはよう、ラグ」


 セリアが出てきた。寝起きの顔。寝癖。いつも通りだ。


「おはよう」


「……今日、早いね。もうやってるの」


「ああ」


 セリアが隣に座った。目をこすりながら、作業台の上を見ている。手入れが済んだ四人分の装備。その中に、俺の剣がある。


「あれ。ラグの剣、なんか——」


「名前をつけた」


 セリアの手が止まった。


「…………え?」


(きざし)。今朝、手入れしてる時に決めた」


 セリアが俺の顔を見た。それから剣を見た。もう一度俺の顔を見た。


「——やっと」


 小さな声だった。


「やっとつけたんだ。名前」


「ああ、もう少しもう少しって言い続けて、結局——今朝だった」


「今朝。いつもの手入れの時に」


「うん」


「ラグらしい」


 セリアが笑った。でも目が潤んでいた。笑ってるのに泣きそうな、よく分からない顔をしている。


「何で泣くんだ。剣の名前つけただけだろ」


「泣いてない。泣いてないけど——」


 セリアが袖で目元を拭いた。


「嬉しいの。ラグがやっと、この剣を自分のものにしたんだなって思ったら」


「最初から俺の剣だけど」


「そういう意味じゃなくて。……名前をつけるって、認めるってことでしょ。この剣が特別だって。ラグが歩いてきた道が、特別だって」


「……」


「ラグはいつも『やることは変わらない』って言うけど、変わってるよ。変わってないつもりでも、毎日少しずつ変わってる。蓄積してる。——だから(きざし)って名前、すごくいいと思う」


 返す言葉が出てこなかった。


 装備の話なら幾らでも語れるのに、こういう時に言葉が出ない。道具箱にこういう場面で使える工具が入ってない——前にも同じことを思った。何も変わってないな、俺。


 いや。変わっていないつもりで、変わっている。セリアの言う通りかもしれない。


「……ありがとう」


「何が」


「待っててくれて」


 セリアがまた目元を拭いた。今度は笑ってなかった、ただ泣いてた。


「——ラグ」


「ん」


「わたしも、もう少しだけ待ってていい?」


「何を」


「……もう少ししたら、言うから。今はまだ、もう少しだけ」


 何を言うのか。聞けば答えてくれるのは分かっている。でもセリアが「もう少し」と言うなら、もう少し待つ。


「待ってる」


「うん」


 ニーカが「腹減った——」と言いながら出てきて、リーゼが「毎朝うるさい」と続いた。いつもの朝が始まった。


 作業台の上で、蓄が青い光を静かに灯している。名前をもらった剣は、少しだけ嬉しそうに見えた。


 装備師の贔屓目かもしれないけど。

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