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蓄積


 朝。日の出前。


 安宿の食堂で、四人分の装備を手入れしている。


 ニーカの大盾。迷宮でへこんだ箇所を叩き直して、表面を研磨する。蓄積値がかなり育っていて、もう加入当初の盾とは完全に別物だ。ニーカが「この盾すげー」と毎日言ってくるけど、毎日言われるとさすがに照れる。


 リーゼの杖。触媒結晶を磨いて、柄の油を確認する。結晶の透明度はA級装備に迫るレベルまで回復している。リーゼの魔法がソロ時代の全盛期を超えたのは、この杖の蓄積値が物語ってる。


 セリアの短剣は、最後に回す。刃を研いで、コーティングを確認して、柄の革を撫でて状態を読む。この短剣とはもう五ヶ月近い付き合いだ。安物の鉄が、俺の手入れでC級上位を超える性能になっている。


 そして自分の山岳鉄の剣。


 鞘から抜いた。青みがかった銀色が、ランプの光を受けて淡く輝く。迷宮で急速に育った蓄積値が、この剣に新しい色を与えた。前の剣にはなかった色。この剣だけの色。


 まだ名前はつけていない。もう少しだけ、こいつがどこまで行くのか見てからにする。


 窓の外が明るくなり始めた。


 もうすぐみんなが降りてくる。



    ※



 迷宮から帰って一週間。日常が戻ってきた。


 依頼をこなして、素材を換金して、装備を手入れして。繰り返しの毎日。でもその繰り返しの一つ一つが、少しずつ変化を積み上げている。


 変わったこともある。


 ギルドの中で、俺たちを見る目が変わった。迷宮調査の帰還報告はギルド内部で回覧されていて、ヴァルドの証言が添えられている。「F級冒険者ラグは迷宮最深部において最も安定した戦力であった」。A級冒険者の言葉は重い。


 掲示板の前を通ると、他の冒険者が道を空けるようになった。以前は「端に寄れ」と言われた通路を、今は普通に歩ける。


 ギルドの上層部は、古代の記録の公開に抵抗している。「信憑性の検証が必要」という名目で時間を稼いでいるけど、調査隊全員が目撃者で、リーゼの書き写しとヴァルドの証言がある以上、永遠には隠せない。


 ガーヴの検討会は拡大されて、等級査定の見直しが本格的に議論され始めた。レベル以外の基準——実績、技術、装備、仲間との連携——を等級に反映する仕組みの設計が進んでいる。まだ試験段階だけど、動き出した。


 エルマが先日、窓口で言った。


「ラグさんの等級、変更の提案が出ています。ただし上層部の承認がまだで——」


「いいですよ。急がなくても」


「……本当に気にならないんですか」


「気にならないわけじゃないです。でも、数字が変わらなくても俺のやることは変わらない。F級でもA級でも、朝起きて装備を手入れして、仲間と依頼をこなして、夜また手入れする。同じ毎日です」


「…………そうですね。あなたはずっとそうでした」


 エルマが引き出しを開けて、中の記録の束を見せてくれた。厚さが指四本分くらいになっている。最初の一枚——俺の脱退届を処理した日のメモ——から、迷宮の記録まで。


「この引き出しも、そろそろ役目を終えるかもしれません」


「終わるんですか」


「引き出しに隠す必要がなくなりますから。全部表に出せる日が来ます」


 その日が来たら、エルマの七年間が報われる。



    ※



 昼過ぎ。ハインツの店を訪ねて、迷宮の報告をした。


 古代の記録のこと。調律者のこと。例外体のこと。全部話した。


 ハインツは聞いて、最後に紅茶を一口飲んで、言った。


「やはりそうでしたか。——ラグさん、あなたはこの世界に必要な人です」


「大げさですよ」


「大げさではありません。ただ、大げさに受け取る必要もない。あなたがやるべきことは、今まで通りのことでしょう」


「装備の手入れ」


「ええ。それが結果として世界を変える。——商人の目から見ると、これほど効率のいい投資はありません」


 ハインツが穏やかに笑った。この人は最初から、等級なんか関係なしに俺を一人の人間として見てくれていた。



    ※



 夕方。安宿の食堂。


 四人で飯を食っていた。


「ねえラグ、そろそろ宿変えない?」


 セリアが唐突に言った。


「宿?」


「この安宿、もう五ヶ月住んでるでしょ。迷宮の報酬も入ったし、もうちょっといい場所に移れるんじゃない?」


「……考えたこともなかった」


「考えてよ。壁薄いし、ベッド軋むし、お湯も出ない日あるし」


「でもこの食堂で手入れするの、慣れちゃったからな」


「慣れの問題じゃなくて環境の問題だよ」


 ニーカが口を挟んだ。


「わたしはどこでもいいぞ。盾置ける場所があれば」


「基準が低すぎる」


 リーゼが紅茶を飲みながら微笑んだ。


「もう少し広い場所がいいとは思うわ。四人で一つのテーブルだと、装備の手入れスペースが足りないでしょ」


「それはある。ニーカの盾がでかいんだよな」


「盾のせいにするな」


 こういう話ができるようになった。前は一人で安宿に転がり込んで、壁の薄さなんか気にする余裕もなかった。今は四人で「もうちょっといい場所に住もう」なんて話をしている。


 贅沢な悩みだ。悪くない。



    ※



 夜。手入れの時間。


 四人分の装備を終えて、最後にセリアの短剣。食堂に二人きり。いつもの時間。


「ラグ」


「ん?」


「迷宮から帰ってきて、何か変わった?」


「変わった。ギルドの空気も、周りの冒険者の目も。制度の動きも」


「そうじゃなくて。ラグの中で」


「俺の中……」


「うん」


 短剣を磨きながら考えた。


 俺の中で変わったこと……。


「……自分の手に、ちょっとだけ自信が持てるようになった」


「ちょっとだけ?」


「前は、装備の手入れが上手いってだけだと思ってた。でも迷宮で——調律者の言葉を読んで、この手に意味があるって分かった。意味があるって知ったら、もう少しだけ胸を張れるようになった気がする」


「うん。——わたしもそう思う。ラグ、最近ちょっと変わったよ」


「変わった?」


「前はさ、褒められると全部『装備師だから』で片づけてたじゃん。最近はそれが減った。自分の言葉で喋るようになった」


「……そうか?」


「そうだよ。——いいことだと思う」


 セリアが頬杖をついて、俺の手元を見ている。この光景は何十回、何百回と繰り返してきた。追放されてセリアと組んだ日から、ずっと。


「セリア」


「ん?」


「お前に会えてよかった」


 不意に出た。考えて言ったんじゃなくて、手入れしながら自然に口から出た。


 セリアの目が大きくなった。


「……急にどうしたの」


「急じゃない。ずっと思ってた。ただ言うタイミングがなかっただけで」


「……」


 セリアは頬杖をついたまま、こっちを見ている。目が潤んでいるのはランプの光のせいだと思いたいけど、たぶん違う。


「……ずるい」


「何が」


「そういうの、不意打ちで言うのずるい。心の準備ができてない」


「準備がいるのか?」


「いるよ。——わたしだって、言いたいことあるのに」


「言いたいこと?」


「……まだ。まだ言わない。ラグが剣に名前つけた日に言うって決めたから」


「ああ、そういえばそうだったな」


「忘れてたの?」


「忘れてない。楽しみにしてる」


「……うん。楽しみにしてて」


 セリアが立ち上がって、短剣を受け取った。指が触れた。もう偶然のふりはしなかった。


「おやすみ、ラグ」


「おやすみ」


 セリアが階段を上がっていった。いつもの背中。いつもの足音。途中で振り返って、手を振った。


 振り返した。いつも通りに。



    ※



 翌朝。ギルドの掲示板の前。


 四人で並んで立っている。


 最下段のF級依頼。ここから始まった。銅貨五枚の薬草採取。


 その上のE級、D級、C級、B級。一つずつ上を見るたびに、そこに至るまでの記憶が蘇る。


 一番上。A級欄。


 赤い紙が一枚、貼ってあった。


『依頼:北部地域における大規模魔獣調査。複数集落の安全確保と討伐。報酬:金貨五枚。——指名:パーティ「アンランク」宛て』


 指名依頼。


 A級欄に、俺たちの名前が書いてあった。


「……ラグ、これ」


 セリアが声を震わせている。


「見えてる」


「指名だよ。わたしたちへの。A級の」


「ああ」


「手が届いた。——A級に、手が届いたよ」


 掲示板に手を伸ばした。赤い紙に指が触れる。初めてだ。A級欄の依頼書に、自分の手で触れるのは。


 依頼書を取った。


 振り返った。三人が立っている。セリア、ニーカ、リーゼ。


 追い出された日から、ここまで来た。一人が二人になって、四人になった。F級の薬草採取から、A級の指名依頼まで。


 毎日の手入れ。毎日の蓄積。一日分は小さくても、積み重ねればここまで届く。


「行くか」


 三人が笑った。


「行こう」


 依頼書を握って、ギルドの出口に向かった。四人で並んで。


 俺たちの物語は、まだ続く。

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