水面下の牙
第二層に降りた途端、靴が水に浸かった。
「うわ、冷た……」
セリアが足元を見下ろす。膝の少し下まで水が溜まっている。透明度は高いけど、底は苔で滑りやすい。光源石の光が水面に反射して、壁に揺れる模様を描いている。
「水没地帯か。足場が悪いな」
ヴァルドが慎重に歩を進めている。A級でも水中戦は得意じゃないらしい。
「ニーカ、盾の状態は」
「重い。水吸ってる」
ニーカの大盾が水を含んで重量が増している。ニーカの体力なら持てないことはないけど、盾を構える速度が落ちる。戦闘中にそれは致命的だ。
「止まれ。盾の処理をする」
足を止めて、道具袋から撥水用の油脂を取り出した。ニーカの盾の裏面と縁に手早く塗り込んでいく。北部の時に余分に持ってきた素材だ。こういう時のために準備していた。
「よし。これで水を弾くから、重くならないはずだ」
「おお、全然違う。軽い。——ラグ、天才じゃん」
「天才じゃない。準備だ」
ヴァルドがこっちを見ていた。
「……戦闘中に装備を調整できる冒険者は初めて見るな」
「装備師ですから」
ヴァルドは何も言わなかったけど、目の色がまた少し変わった。
※
水没地帯を進んでいく。水の深さは場所によって変わる。浅い所は足首、深い所は腰まで。なるべく浅いルートを選んで進むけど、回廊の構造上、避けられない深い場所もある。
十分ほど歩いたところで、水面が揺れた。
自然な波じゃない。何かが水の中を動いている。
「来る」
ヴァルドが剣を構えた。俺たちも臨戦態勢。
水面が割れて、白い体が飛び出してきた。蛇だ。全長は人の身長の三倍はある。全身が白い鱗で覆われていて、口を開くと二列の牙が光る。水棲の蛇型魔獣。
一体じゃない。水面のあちこちで同時に波紋が広がっている。三体、四体——五体。
「多い!」
先頭の一体がヴァルドに飛びかかった。ヴァルドが斬りつける。水中から跳躍する蛇の速さは相当なもので、A級のヴァルドでも一撃で仕留め切れない。
二体目がニーカに向かってきた。ニーカが盾で弾く。撥水処理のおかげで盾の動きは鈍っていない。弾いた蛇にセリアが追撃して仕留めた。
三体目と四体目がこっちに来る。俺が一体、リーゼの氷槍がもう一体を串刺しにした。水中の敵に氷属性は相性がいい。水ごと凍らせて動きを止められる。
五体目——こいつが問題だった。
水中に潜ったまま、見えない。水面に波紋だけが走っている。
「足元注意! 水中から——」
言い終わる前だった。
セリアの足が引かれた。水中から蛇が足首に巻きついて、引きずり込もうとしている。
「っ——!」
セリアが水中に膝をついた。足首に巻きついた蛇が、螺旋状に体を這い上がってくる。脛から太腿に向かって締め上げながら。
「セリア!」
走った。水を蹴散らして、セリアの横に飛び込んだ。
蛇の頭がセリアの腰のあたりまで来ている。牙を剥いて噛みつこうとしている。セリアが短剣で切りつけるけど、体に巻きつかれた状態では力が入らない。
俺はセリアの体ごと蛇を掴んだ。左腕でセリアの腰を抱えて支えながら、右手の剣で蛇の首元を突く。
山岳鉄の刃が鱗を貫通した。蛇が痙攣して、巻きついた体が緩む。もう一度突いて、完全に仕留めた。
蛇の死体がセリアの足元に崩れ落ちて、水中に沈んでいった。
「大丈夫か」
「う、うん……。ありがと……」
セリアの声が震えている。蛇に巻きつかれるのは怖かったんだろう。俺の腕がまだセリアの腰に回ったままだということに、ここで気づいた。
「…………」
「…………」
離した。ちょっと遅かった気がするけど、戦闘中の咄嗟の行動だから仕方ない。仕方ないんだ。
ニーカが後ろから「おーい、大丈夫かー?」と叫んでいる。リーゼはこっちを見て、何も言わずに目を逸らした。気を遣ってくれてるのか、にやにやしてるのを隠してるのか、両方か。
「……足首、怪我してないか」
「大丈夫。締めつけられただけ。折れてないし、噛まれてもいない」
「見せろ」
「え、ここで?」
「足首の状態を確認するだけだ」
セリアが渋々足首を見せてくれた。水中だから靴を脱がないといけなくて、俺が支えながらセリアが靴を脱ぐ形になった。
足首に蛇の鱗の痕がついているけど、皮膚は切れていない。打撲程度。問題なし。
「平気だ。靴の革が保護してくれてる。……ただ、靴の内側が水浸しだから、次の休憩で乾かした方がいい」
「う、うん……」
セリアの顔が赤い。水中で片足を俺に預けてる体勢が恥ずかしいんだろう。早く靴を戻してやった。
「……ラグ」
「何だ」
「助けてくれてありがと。でも次は、もうちょっとこう——」
「こう?」
「……いや、何でもない。ありがと」
何が「こう」なんだか分からないけど、無事でよかった。
※
第二層を抜けるのに半日かかった。蛇は合計で十二体出てきたけど、パターンが分かれば対処できた。水中から来るなら、リーゼの氷魔法で水面を凍らせて動きを封じればいい。何度か繰り返すうちに、合同チーム全体の連携が噛み合い始めた。
第二層と第三層の間に、広い踊り場があった。水のない乾いた空間。ここで休憩を取ることにする。
「全員、装備を乾かせ。水浸しのまま第三層に入ったらまずい」
ヴァルドの指示で、全員が装備を外して乾燥作業に入った。
問題は——全員ずぶ濡れだってことだ。装備だけじゃなくて、服も。
「男は向こう側、女はこっちで着替えろ。柱で仕切れる」
ヴァルドが仕切ってくれた。踊り場の中央に太い柱があって、視線が遮られる。
俺はヴァルドとドルゴと一緒に柱の向こう側で服を絞った。替えの服に着替えて、濡れた服は広げて乾かす。
装備の乾燥処理は俺の仕事だ。全員分の武器と防具を集めて、水気を拭き取って、油を塗って。アンランクの四人分に加えて、ヴァルドたちの分もやることにした。ここまで一緒に戦ったんだ。装備の手入れくらいはする。
作業に没頭していたら、柱の反対側からセリアの声が聞こえた。
「ラグ、ちょっと来て……」
「何だ?」
「革鎧の紐が水で膨張して、結び目が解けないの。引っ張っても無理で……」
革が水を吸うと膨張して紐が締まる。よくある問題だ。力任せに引くと革が裂けるから、道具を使って解かないといけない。
「今行く」
柱の横に二人で行った。セリアが背中を向けて立っている。上半身の革鎧を半分脱いだ状態で、背中の紐が二箇所解けずに残っている。下は肌着を着てるけど、肌着も水で濡れていて体に張りついている。
「……紐だけ見るから」
「分かってるから早くして、寒いの」
道具を使って紐の結び目に細い金具を差し込む。膨張した革を押し広げて、紐を緩めていく。装備の修理と同じ作業だ。同じ作業なんだけど、指先がちょっとだけ震える。背中の肌着越しに体温を感じる距離で作業するのは、盾を磨くのとはわけが違う。
「痛くないか」
「痛くない。……手、冷たい」
「ずっと仕事してたからな」
「……ん」
一箇所目、解けた。二箇所目に取りかかる。
「ラグ」
「何だ」
「……ありがとね。いつも」
「紐くらいいいさ」
「紐だけじゃなくて、全部」
二箇所目、解けた。革鎧がするりと外れて、セリアが受け取った。
「終わった。戻るぞ」
「うん。——見てないよね」
「見てない」
「嘘」
「見てない。紐しか見てない」
「……まあいいけど」
柱の向こう側に戻って、装備の手入れを再開した。
手が震えてるのは水で冷えたからだ。他の理由はない。ない。
ドルゴが横で「お前、顔赤いぞ」と言った。黙れ。
※
全員の装備を乾かし終えて、休憩に入った。
「第三層は灼熱の洞窟と聞いている」
ヴァルドが言った。
「今度は水じゃなくて熱か。装備への影響は?」
「大きい。金属が膨張して刃が歪む。革は乾燥して脆くなる。放置すると使い物にならなくなる」
「……対策は?」
「手入れし続けるしかない。戦闘の合間に、全員分の装備を調整する」
ヴァルドが俺を見た。
「お前にしかできない仕事だな」
「ええ、だから俺がここにいるんです」
ヴァルドが少しだけ口の端を上げた。笑ったのか、呆れたのか。
「……レベル1の装備師。迷宮に来て初めて、推薦した理由が分かった気がする」
褒められたのかどうか微妙だけど、悪い気はしない。
第三層への階段が見えている。その先は灼熱の洞窟。装備にとって最も過酷な環境だ。
でもそのための準備はしてきた。この手が動く限り、装備は保つ。仲間の力は保たせる。
行こう。まだ先は長い。




