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監査官、剣を抜く


 レベル72の男の剣が、フロストウルフのリーダーの前脚を襲った。


 ガーヴが二撃目を振る。横薙ぎ。リーダーが後退した。ガーヴの剣は冷気を受けても霜がつかない。上等な鋼材だ。元A級の装備はさすがに格が違う。


 リーダーが態勢を立て直して、ガーヴに冷気のブレスを吐いた。ガーヴは横に跳んで回避。着地と同時に踏み込んで、リーダーの脇腹を斬りつける。血が散る。浅いけど確実に効いている。


 その間に——体を動かせ。


 地面に手をついて、立ち上がった。指の感覚が戻ってきている。冷気で冷え切った体が、動くたびにぎしぎし軋む。でも動ける。戦える。


 小刀を握り直した。


 ガーヴがリーダーの正面を抑えている。リーダーの意識がガーヴに向いている今がチャンスだ。


 横に回り込んだ。リーダーの右後脚。ここなら毛皮が薄い。小刀でも届く。


 走り込んで、小刀を突き刺した。後脚の腱に向けて、深く。


 刃が肉に食い込む。リーダーが咆哮した。後脚が崩れて、巨体が傾く。


「——セリア!」


 叫んだ。


 峡谷の奥。セリアはまだ残りのフロストウルフと戦っていた。五体のうち三体は倒したらしい。二体が残っている。


 俺の声を聞いて、セリアが一瞬こっちを見た。リーダーが傾いている。右後脚が使えなくなっている。


 セリアが二体のフロストウルフの間を強引に抜けた。一体の爪がセリアの腕を掠める。血が出た。構わず走る。


 リーダーの左側面ががら空きだ。後脚を失って体勢が崩れたリーダーは、左に体重をかけて耐えている。その左脇腹に、セリアが全力で短剣を突き立てた。


 深い。


 根元まで。


 リーダーが絶叫した。体が跳ねて、セリアが振り落とされる。短剣は刺さったまま。


 ガーヴが正面から三撃目を振り下ろした。リーダーの頭部を捉える。重い一撃が頭蓋に亀裂を入れた。


 リーダーが前のめりに崩れた。


 四肢が痙攣して、冷気がぶわっと放出された。断末魔の冷気。峡谷の壁が一面に凍りつく。


 動かなくなった。


 リーダー、撃破。


 残りの二体は、リーダーの死を感じ取ったのか、踵を返して峡谷の出口に向かって逃げ始めた。出口の障壁を飛び越えようとする。猟師たちが上から石を落として妨害するが、一体は障壁を越えて山の方へ逃げた。もう一体は石に当たって転倒し、動かなくなった。


 ……終わった。



    ※



 峡谷の中に、二十二体のフロストウルフの死骸が転がっていた。一体だけ逃したが、リーダーを失った群れは二度と組織的な襲撃はできないだろう。


 俺は峡谷の壁にもたれて座り込んでいた。立っていられない。体中が冷えて、痛くて、重い。


 セリアが隣に座った。腕の傷から血が滲んでいるけど、命に別状はない。


「ラグ、腕見せて」


「俺は平気だ。お前の方が——」


「いいから、見せて」


 セリアが俺の両手を取った。冷気でかじかんだ手を、自分の手で包むように握る。


「……冷たい。凍ってるじゃん」


「小刀握ってたからな。冷気が柄から——」


「黙ってて。直ぐに温めるから」


 セリアが俺の手を両手で挟んで、息を吹きかけた。温かい息が指先に当たる。少しずつ感覚が戻ってきた。


「……ありがとう」


「お礼はいいから、もう無茶しないで。剣が折れた時、心臓止まるかと思った」


「止まってたのか」


「比喩だよ。——でも本当に怖かった。ラグが倒れた時、私……」


 セリアの声が詰まった。目が赤い。泣きそうだけど泣いてない。こいつは戦闘中は絶対に泣かない。終わった後もたぶん泣かない。そういう人間だ。


「死ぬかと思ったんだよ」


「死んでない」


「死んでないけど!」


「……ごめん」


「ごめんじゃなくて——もう、いい。生きてるから、いい」


 セリアが俺の手を離さなかった。俺も振りほどかなかった。



    ※



 しばらくして、体が動くようになった。


 最初にやったのは、折れた剣の破片を拾いに行くことだった。


 峡谷の地面に突き刺さっていた先端部分。凍結して青白く光っている。拾い上げると、手の中で氷が溶けて水になった。中の冷気が抜けて、ただの折れた鉄に戻っていく。


 柄と根元の刀身。二つの破片を並べてみた。断面は斜めに割れていて、もう接合はできない。三年分の蓄積値は、折れた瞬間に消えている。


 ただの鉄に戻った相棒の残骸を、手の中で握った。


 ……三年間、ありがとう。


 それだけ思って、破片を袋にしまった。捨てはしない。この鉄には、もう経験値は残っていないけど、俺の三年間が通った道だ。



    ※



 ガーヴが近づいてきた。剣を鞘に収めて、俺の前に立った。


「F級冒険者ラグ」


「……はい」


「お前の実力はF級ではない。それは認める」


「……ありがとうございます。助けていただいて」


「礼は不要だ。規定に基づく介入だ」


 規定。民間人の生命が危険にさらされている場合は介入が認められる。ガーヴは規定通りに動いた。規定通りだけど——「原則として助けない」とか言ってたのに。


「ガーヴさん。一つ聞いてもいいですか」


「何だ?」


「なぜ助けてくれたんですか。規定で認められてるのは分かります。でも、認められてるだけで義務じゃない。動かなくても監査官としての責任は問われなかったはずです」


 ガーヴは押し黙った。


「……お前の罠は合理的だった」


 唐突に聞こえたけど、たぶんガーヴの中では繋がっている。


「誘導笛の精度、地形の選定、波状攻撃への対応、民間人の退避計画。全て筋が通っていた。レベル1の人間が立てた作戦じゃない。いや——レベルとは関係のない、純粋な実力で組み上げた作戦だった」


「……」


「俺は四十年間、レベルが全てだと思ってきた。レベルが高ければ強い。低ければ弱い。それがこの世界の道理だと。だが、お前の作戦を見て、戦いを見て——レベルでは測れないものがあると、認めざるを得なかった」


 ガーヴの声にはいつもの冷たさがなかった。


「お前が倒れた時、俺はまだ迷っていた。介入するかどうか。監査官として記録だけして帰るべきか。それが職務だ。だが——」


 ガーヴは一度言葉を切った。


「あれだけのものを見せられて、黙って見殺しにするのは、正しくないと思った。規定とか制度とか——それ以前の問題として……ただし」


 ガーヴの声が元の硬さに戻った。


「制度は制度だ。お前がどれだけ強くても、レベルが1である限り、等級は変わらない。それがこの世界のルールだ。——俺にそのルールを変える権限はない」


「分かっています」


「分かっているなら、もう一つ分かるはずだ。俺がここで見たことは、全て報告書に書く」


「はい」


「監査報告にはこう記す。『F級冒険者ラグは等級を超えた活動を行ったが、結果として複数集落の被害拡大を防いだ。作戦立案・実行ともに高い能力を示した。処分の勧告は行わない』」


 処分の勧告は行わない。


 ガーヴは上層部の忠実な駒として送り込まれたはずだ。ラグに規定違反の証拠を掴ませて処分する——それが上の意図だったはず。その意図に反する報告を、ガーヴは出す。


「……いいんですか。上に逆らうことになりませんか」


「実査にあったことを書くだけだ。それを歪める方が、俺の信条に反する」


 ガーヴが背を向けた。


「帰還する。報告書は本部に直接提出する。——ラグ」


「はい」


「次に会う時は、もっとましな剣を持っていろ。見ていて危なっかしい」


 それだけ言って、ガーヴは峡谷を出ていった。



    ※



 ガーヴの背中が見えなくなってから、セリアが隣に来た。


「あの人、悪い人じゃなかったね」


「ああ。正しい人だった」


「正しいから制度が変わらないって、前に言ってたけど」


「うん」


「今日は——ちょっとだけ、変わったんじゃない? あの人の中で」


 そうかもしれない。ガーヴの中で何かが動いた。制度を変えるほどの大きな何かじゃないけど、四十年間信じてきたものにひびが入った。小さな亀裂。


 でも小さな亀裂から、壁は崩れ始める。


「……帰ろう。村の人たちに報告しないと」


「うん。——あ、ラグ」


「何?」


「もう手、離していい?」


 見下ろしたら、まだセリアの手を握ったままだった。さっきからずっと。


「——っ。悪い」


「別に……悪く、ないけど」


 手を離した。セリアが頬を赤くして、にやにやしている。


「何笑ってんだ」


「べっつにー」


 何がべつにだ。


 ……ガーヴの言う通り、次はもっとましな剣を手に入れないと。今の手持ちは小刀だけだ。心もとないなんてもんじゃない。


 でもまあ、隣にこいつがいて、手にはまだ小刀がある。


 ゼロじゃない。ゼロからのスタートだけど、ゼロじゃないんだ。

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