ペルセウス座流星群の下で⑲
杉本も様子を見ようと顔を出し、玄関に立っている3人を認識した瞬間に場の空気が変わった。わかりやすいほどの『怒り』だ。優紀は、まさか杉本がここにいる時に自分の家族が来るとは思っていなかった。杉本の性格を考えれば、父や汐見が杉本と居合わせるのはあまりよろしくはない。なぜなら優紀がここに居る理由を、杉本は知っているからだ。
玲奈と姫乃が教室で自分たちの話をした日の前日、優紀は杉本にメールを送っていた。朝、姫乃と玲奈に気づかれないよう教室の前で待機していてほしいこと。自分たちがこれからしようとしていること。なぜ自分たちがそれをするに至ったのか。優紀は杉本を味方につけ、姫乃と玲奈の話を信じてもらえるよう今の自分の状況も含めて隠さずに話した。当然汐見のことも奏汰のことも、父のことも話した。杉本は短く、「わかった。あとは任せなさい」とだけ返事を寄越した。こうなった杉本は心底怒っているということを優紀よく知っている。
優紀が中学生の時、家の事も妹たちの世話もすべて優紀に任せていると知った杉本が、優紀の父に対して酷く怒った時も同じようになったのだ。その後2人がどんなやり取りをしたのか優紀は知らない。しかしそれ以来優紀の父は家に早く帰ってくる日が増えたし、家の事や育児にも積極的に参加するようになった。優紀の話も聞くようになった。だから優紀は今回のことも杉本を頼ろうと素直に思えたのだ。その杉本から、ゴゴゴゴと聞こえてきそうなほどの怒気が発せられている。優紀が止めるより早く、杉本が玄関に向かった。
優紀は思っている以上に体が震えていることに気づき、咄嗟に動けなかった。その様子に気づいた姫乃は、「大丈夫だよ」と声を掛けた。美代と沙代も優紀の手を右と左の片方ずつ握って頷いた。玲奈が玄関からの視線を遮るように優紀を隠す。
「ですから、ここに優紀さんが来てるんですよね!? 早く会わせてください!」
「一旦伝言をお預かりすることはできます。しかしお嬢様方の許可無しにお通しするわけには行きません」
「私たちは家族です! 優紀を迎えに来たんです! さっきのパトカーはなんですか!?」
「お父様も落ち着いてください。まずはご用件を伺います」
花野のその毅然とした態度に、何かを言いかけた汐見も観念したように項垂れて、「では伝言をお願いします」と力無く言った。
「私は昔、病気で子供が授かれない体になってから、子供のことは諦めてました。でも遙人さんと出会って、貴女たちと出会って、本当に嬉しかった。みんなのお母さんになりたいって本気で思ったの。でも私はあなたたちの輪を壊していたのよね。本当にごめんなさい! 私は、優紀さんと奏汰さんが認めてくれるまで、遙人さんとは結婚しません。2度と家にも行きません。それが私の覚悟とケジメです」
「優紀、今までお前の気持ちを蔑ろにして悪かった。いつも苦労をかけて、本当にすまない!」
父親も汐見の隣で頭を下げた。その2人を玄関に来た杉本が仁王立ちで見下ろす。花野が、「まぁ先生。どうなさったの?」と聞いたことで優紀の父親と汐見は杉本に気づいたが、杉本の鬼のような顔を見て2人して情けない声を上げた。
「あんたら、それでも親か? 大人か? 特にあんた。前に優を苦しめた時に次は無いと言ってあったはずだが? まさか女に現を抜かして同じ事を繰り返すとは。あんたを信用した俺が馬鹿だった」
「いや、あの、待って。話を聞いて」
「あんたらの自分の都合ばかりの話をか? 子どもに聞かせる話じゃないだろう!」
いつも気怠そうに話す杉本が怒鳴った。その怒鳴り声は食堂から様子を窺い続ける5人の耳にもはっきりと届いたほどだった。
「あんたら! 優がどんな気持ちで今回家出したと思ってんだ! どんな気持ちで今奏汰ちゃんがここに居ると思ってんだ! それなのに自分のお気持ち表明で気持ちよくなりやがって。子どもたちの話を聞いたことはあんのか! え!? 遙人さん、あんた奏汰ちゃんが痴漢に遭って悩んでたこと知ってんのか!?」
「え!?」
優紀の父親は絶句して固まった。それがすべてを物語る。奏汰は1年前、電車の中で連日痴漢に遭っていた。中学に入学と同時にそれは始まり、数本電車の時間をずらしても執拗に痴漢は奏汰を狙い続けた。しかし奏汰はその状態にあることを父親に相談できなかった。恋人ができて浮かれている父親に、痴漢の相談などできるはずもない。
ある休日、少し遠くの本屋に行こうと電車に乗った奏汰はまた痴漢に遭っていた。まさか休日にまで痴漢に遭うと思っていなかった奏汰は、耐えきれずに電車から転げるように下車した。すると後ろから「逃げるな痴漢野郎!」という叫び声と共に「ぐわっ」という低い声と人が勢いよく転がる音が聞こえてきた。涙目になりながら奏汰が振り返ると、高校生と思われる女子たちが倒れたスーツ姿の中年男性を踏んで押さえつけているところだった。それを見て奏汰は体から力が抜けて、膝から崩れ落ちる。別の誰かが駅員を呼んだらしく、スーツの男は駅員に連れられて行った。男を押さえつけていた女子たちが奏汰を立たせ、そのまま駅舎まで付き添い、奏汰が今までのことを泣きながら駅員に話している時には証言もしてくれた。警官も来て、もう一度同じ話をした。いつの間にやら女子たちは居なくなってしまった。呆然としていた奏汰は自分を助けてくれた人たちの顔すら満足に見ていなかったことに気づき、お礼も言えていないことにショックを受けた。
痴漢男はその場で痴漢を認めたが、奏汰は父親のことを考えると大事にしたくないという気持ちが勝ってしまい、被害届を出さないと警官に言った。親に連絡してほしくないとあまりに奏汰が懇願したため、警官も「本来保護者に連絡するのが原則ですが、そこまで言うのであれば今回はこの場での示談という形にしましょう。ただし、次は問答無用で逮捕するからそのつもりで」と男に釘を刺すに留めた。どうやら初犯だったらしい。
スーツの痴漢男は去り際に「ホントは喜んでたくせに」と奏汰の耳元で気色悪く囁いた。奏汰はその場で吐いた。その日から奏汰は男物の服を着て、一人称を『あたし』から『ボク』に変え、伸ばしていた髪の毛もバッサリと切った。奏汰の中学校はジャージ登校と制服登校を選べる学校だったので、ジャージを着れば男子生徒に見えなくもない。電車に乗る時は目つきも常に周りを睨むようなジト目で居るように気をつけた。それ以来、奏汰は痴漢に遭わなくなった。
奏汰は優紀にだけ、このことを話した。そして優紀も奏汰と同じく、父親には言わないという結論を下した。『面倒くさい』、それが2人の父親に対する共通認識だった。
杉本に、奏汰が痴漢に遭っていたと言われた優紀の父親は、やっと振り返って奏汰の顔を見た。奏汰は怒りと失望の顔で父親を睨む。父親は絞り出すように奏汰に聞いた。
「痴漢って、本当か?」
「ホントだよ。あんたらがちちくりあってる時にな。気持ち悪い! ボクの家族は姉ちゃんと妹たちと、死んだ母さんだけだ! お前らなんかさっさとどっかに行っちまえ!」
奏汰は叫んだ。泣きながら叫んでいた。奏汰の心の傷も深くえぐれ、かさぶたもできずに放置されていた。今また、傷口から血が勢いよく噴き出してしまった。




