ペルセウス座流星群の下で⑧
姫乃は父親がこんなふうに笑っているのを一度も見たことがなかった。むしろ笑わない人なのだとずっと思っていた。そんな人が今、ビデオ通話越しに大笑いしていることに姫乃は驚いていた。
「はーあ。なるほど、反抗期か」
やっと落ち着いてきた父親はふぅと息を吐くと、さっきまでとは違うスッキリとした顔で椅子に座り直した。
「お前の気持ちはわかった。黒岩と花野に引き続き任せる。元々その家はお前にやるつもりだった。好きにやりなさい」
父親はそれだけ言うと姫乃の返事も待たずに通話を終わらせた。父親は椅子に深く座り、ため息をついた。
「ちょっとどういうこと? あの家は私にくれるんじゃなかったの?」
不満を隠しもしない姫乃の母親が文句をぶつける。
「大体好きにしろなんて、あんな反抗するようになって何をしでかすかわかんないじゃない!」
「あの子は悪いことはしないよ。君にはもっといい家を買ってやる。そう機嫌を悪くするな」
もっといい家を買うという言葉にすぐに機嫌を直した母親は、「海のそばの家にしてちょうだい」と言って部屋から出て行った。
「……僕も反抗期をしてみたかったんだな。父さん。今やっと気づいたよ。子育てってのは難しい。素直に愛情表現ができないし、きっと姫乃は僕のことなんて嫌いだろう。でも、いい友人ができたみたいで良かった。あの子にパパと呼ばれたのも、敬語を使わずに話されたのも、いつぶりだろうな」
1人になった父親は、スーツの内ポケットにいつも入れている星座のストラップを取り出した。蠍座のマークが書かれている。姫乃と行ったイベントで、自分もこっそり買っていたのだ。ひとしきりそのストラップを眺めてから、ハンカチで目を拭い、ストラップをまた元の内ポケットにしまう。勢いよく立ち上がり、父親は次の商談へと向かった。
「な、なんだったんだ……?」
困惑する5人の中で、最初に優紀が言葉を発した。急転直下、姫乃が転校してしまうかもしれないという状況から、なんと好きにしろという許しを得た。意味がわからず、誰も優紀の疑問に答えられないでいた。するとドアがノックされ、黒岩が5人の居る部屋に入ってきた。バツが悪そうな、でも朗らかな顔で姫乃を見る。
「申し訳ありません。お話が聞こえたものですから。お嬢様たちの疑問に、わたくしならお答えできるかと」
5人はそれぞれがきちんと座り直し、静かな黒岩の声を聞いた。安心できる、優しいおじいちゃんの声だった。
黒岩の話ではこういうことだった。姫乃の父親である敬介は先代社長、つまり姫乃の祖父である敬一郎に幼い頃から厳しく躾けられてきた。経営、人心掌握、会話、語学、社交界のマナーはもちろん、一般的な座学でも手は抜かない。自分の子としてというよりも、会社を継ぐ者として敬介を育てた。会社を大きくした敬一郎には多くの社員がいる。その社員の生活や家族を守らなくてはならない。だからこそ敬一郎は、敬介へ愛情よりも責任感と義務感を注いだ。
「お嬢様の祖母である先代の奥様は、坊っちゃんを産んですぐに亡くなってしまいました。ですから身の回りのお世話の一切はわたくしが務め、先代は奥様が亡くなられた悲しみを忘れるように仕事にのめり込んでいきました。そして坊っちゃんはたしかに、優秀でした」
敬介は幼いうちから商才の頭角を現し、あっという間に敬一郎の望む後継者へと成長した。敬一郎は早くに息子に社長を継がせ、会社をさらに大きくしようと考えていた。無事に敬介へ社長の座を明け渡し、敬一郎の先導で海外展開を急速に進めた結果、思惑は外れ会社が倒産の危機に陥った。その頃はまだ海外では名が売れていなかったのと、ハイブランドイメージが先行した当時の販売戦略が裏目に出て、不景気となっていた国内での売上げが急速に悪化したのだ。海外展開を急いだ敬一郎や国内戦略に失敗した敬介への社内からの不満は強かった。
社員を路頭に迷わせたくなかった2人は、以前から持ち込まれていた三の丸商事からの融資の話に乗った。対価は会社ではなく、三の丸商事社長の娘、由貴子との結婚だった。こうして会社は社員をリストラすることなく倒産の危機を脱し、ブランドイメージや商品内容を見直し、今のT-コラボレーションとして経営の立て直しに成功。数年後に姫乃が生まれた。
三の丸商事としても由貴子としても、最初からこうなると読んでの縁談と融資の話だった。必ず儲かる。その読みで嫁いできた由貴子に愛があるわけでも情があるわけでもなかった。それは姫乃が生まれてからも変わらない由貴子の態度を見れば明白だ。敬一郎はそんな姫乃を不憫に思い、経営の一切を敬介に託し、ほとんど隠居状態で姫乃を可愛がった。敬介も自分の子どもとどう接したらいいのかわからなかったこともあり、仕事が忙しいことを理由に育児には関心を見せなかった。
敬一郎が亡くなった後、黒岩と花野に姫乃を任せ、敬介と由貴子は1年のほとんどを海外で暮らすようにした。敬介には、敬一郎から愛されたという記憶も無く、姫乃の小さな頃に関わらなかった罪悪感から逃げたいというのも本音としてあった。しかし1番は、敬一郎への形容のし難い感情と向き合いたくなかったからだった。幼い姫乃を見れば嫌でもその頃の自分と重なってしまう。自分も敬一郎と同じようにしかできない。離れて暮らすことが、敬介なりの姫乃を守るやり方だったのだ。
「坊っちゃんは不器用ながら、常にお嬢様にとっての最善を考えておりました。『僕は父親に、どうしてほしかったのか。もう思い出せないんだよ』とわたくしめに零したことも」
「そうだったんですね……」
黒岩の話を聞いてすっかり落ち着きを取り戻した姫乃が、静かに息を吐く。父親の話も、祖父の話も、初めて聞く話ばかりで、姫乃の脳でしっかりと理解するには少し時間が要りそうだった。他の4人は黙って話を聞き、姫乃と黒岩のどちらかが話し出すのを待っていた。
「これは内緒にせよと言われていたのですが」
黒岩がいたずらっ子のように少し口角を上げる。
「お嬢様と天文台へ行った日、実は坊っちゃんもストラップを買っていたんです」
「え!?」
全員で同じように驚きの声を上げる。黒岩はその反応に満足したようににっこりとして言った。
「『姫乃には内緒だ。僕はきっとあの子に嫌われているからね』と、そう坊っちゃんは仰っておりました」
「それは、本当ですか……?」
「はい。この黒岩、一言一句記憶しております」
姫乃はハラハラと目から涙を流していた。これまでと違う、温かな涙が頬を伝っていく。玲奈が姫乃にそっとハンカチを差し出した。姫乃は遠慮無く受け取って、そのハンカチで止まらない涙を受け止めた。涙が溢れるほどに、姫乃の心の中の大きな黒い渦は勢いを落とし、小さくなっていく。この渦は完全に消えることはないかもしれない。母親にはこれからも愛されないかもしれない。それでも、父親の中に娘としての自分の存在があることを知れて、姫乃は安心した。甘えたいと思っていいと、許してもらえた気持ちになったのだ。
パパも寂しかったんだねぇ……。(作者)




