ペルセウス座流星群の下で⑦
脱衣所に用意された人数分のタオルはふかふかだし、脱衣所と浴室の間を仕切る引き戸は大きなガラスでできている。一般家庭ではまず見ないカーブを描いた湯船の縁は真っ白で、頭上からお湯が降ってくるタイプのシャワーと、玲奈たちもよく知っている壁に引っかけるタイプのシャワーとがある。浴室の壁の一角は窓になっていて、その向こうは背の高い竹囲いで広く仕切られた中庭があり、青々とカエデが茂り、日本庭園風に整えられている。外に出られるように縁側まで付いていた。姫乃以外の4人は湯船に入る前から興奮しきりだった。
たっぷりと会話と長湯を楽しんだというのに、脱衣所ではスキンケアやヘアケアの話でまた盛り上がり、全員が寝間着を着て紺色の部屋に戻ってくる時には午後11時に迫っていた。姫乃が慌てて携帯の電源を入れる。
「どうかしたの!?」
「すみません。この時間は父から電話が来るんです」
「毎日!?」
「はい。と言っても業務連絡みたいな電話ですけど……」
「なるほど。家を借りている以上、私たちは静かにしていような」
「はーい」
「しー」
4人が呼吸音すら聞こえないくらい静かにすると同時に、姫乃の携帯に着信が入った。4人は姫乃の前に寄り添い小さくなって座る。姫乃は深呼吸をして、震える手で応答ボタンを操作する。亡き祖父に、力を貸してと心の中で祈る。
「もしもし」
いつも通り、ビデオ通話が始まった。画面には姫乃の父親しか映っていない。母親は毎回多少の声が入るだけで、それも姫乃に向けたものではなかった。まだ終わらないのかとか、あれを買いたいとかそういう言葉だけで、一般的に想像される母親と娘の会話をした記憶は、姫乃の中に残っていない。幼い頃から、母親は自分に興味が無いのだと姫乃はわかっていた。前の学園で伊沢とトラブルになった時も、「私は買い物に行ってくるから」と言ってほとんど姿を見せずにどこかへ行ってしまったのだから、姫乃はもう母親には何も期待していないし、正直花野の方がよっぽど母親らしい。姫乃にとっての家族は、花野と黒岩と、姿の無い祖父だけだった。
「今日も時間があまり無い。勉強はきちんとしているな?」
「はい」
「問題は起こしてないな?」
「はい」
「夏休みだからと言って気を抜くな。わかってると思うが、公立じゃ学生も教師のレベルも高が知れている。低いレベルの付き合いは要らん。家庭教師の時間を増やすよう黒岩には言っておいたからしっかり勉強しておけ」
「……」
「わかったな?」
「……す」
「なに?」
「イヤです!」
姫乃は携帯の画面に向かって怒鳴った。急に大声を出した姫乃に、黙って聞いていた4人の肩が跳ねた。慌てて口を押さえて声を殺す。携帯を持つ姫乃の手が震えていることに玲奈は気づいていた。玲奈は姫乃を少しでも安心させたくて、画面に映り込まないようにそっと姫乃の手に触れる。姫乃の視線が一瞬画面外の玲奈の視線とぶつかった。
画面の中の父親は険しい顔を一層険しくして姫乃を睨みつけていた。腕を組み、姫乃が一瞬画面の外に視線を外すのも見逃さない。
「誰か居るのか」
「お、お友だちです。今の学校でできた」
「こんな時間に他人の家に居るなんて非常識じゃないのか」
父親の声が喋るごとに低さを増す。4人は自分の呼吸さえ忘れて、気配を消そうとしていた。
「私が招待したから非常識じゃありません! それに、みなさんレベルも低くない! 素晴らしい友だちです! だから、イヤです!」
「口答えか。誰のお陰ですべてのトラブルが解決したと思ってるんだ」
「たしかにそれについては……感謝してる。でも、私の友だちや新しい学校の先生を馬鹿にしていい理由にはならない!」
姫乃の口調が徐々に強くなっていく。敬語を使わずに怒る姫乃を初めて見た4人は、緊迫感漂う会話に呼吸音ですら入り込めない。
「お前は筑比地家の人間で、一般人とは違う。それだけで十分だ」
「筑比地家に生まれたってだけで、私にはなんの力も無い! みんなの方がよっぽどたくさんのものを持ってるよ!」
「……一時的にならと思って今の学校に入学させたが、間違いだったようだな」
「え?」
一時的という言葉に強く違和感を覚えた姫乃は、勢いを無くして固まった。全身から血の気が引いていく。その言葉の意味を姫乃が理解するより早く、父親が話を続ける。
「元々長く通わせるつもりは無かったからな。予定より少し早いが、こちらの学校で転校手続きを進める。長く1人にしていたせいでそんな態度を取るようになったのかもしれんしな」
わなわなと姫乃の体が小刻みに震え出す。優紀と美代と沙代の目には姫乃が怯えているように映っていたが、今度のそれは玲奈の目には違うように見えていた。玲奈は知っていた。姫乃の今の目に宿っているのは親に対する恐怖でも不安でもない、純粋な怒りだということを。理不尽に力を振りかざし、子どもはそれに従うしかないと思っている大人への嫌悪であることを。だから姫乃が次に何を言うのか、玲奈にだけは予想ができていた。そしてその言葉を言えば姫乃は筑比地家の人間として暮らせなくなるかもしれないと、そこまで予想した。
玲奈は割って入ろうとして口を開いた。その言葉を姫乃に言わせてはいけない。自分たちの都合に巻き込んでしまったことで、この生活を姫乃が手放すのは間違っている。しかし姫乃がそれに気づいて、玲奈に鋭い視線を投げた。玲奈は普段の姫乃から想像もできないほど強く冷たい感情をその視線から感じて、押し黙るしかなかった。
「いやだ」
「なんだと?」
玲奈の予想通り、姫乃は父親に反発した。それが今まで子どもを思い通りにしてきた親にとってどれだけ屈辱的で、どれだけ神経を逆なですることになるのか。普通の親ならその反発も受け入れることもあるかもしれない。でも姫乃の住んでいる世界は違う。このままでは姫乃が目の前から居なくなってしまうかもしれない。他の3人もそれに気づいたが、不安を抱えながらもやり取りを見守るしかなかった。何かあったときには全力で姫乃を守ろう。そう全員が心の中で覚悟を決めていた。
「私は!」
姫乃の声が震える。
「私は! パパとママが望むような子どもじゃないかもしれない! でも!」
姫乃の父親は静かに言葉を待っている。母親は珍しく画面に映り込んできたと思ったら、綺麗にしたばかりの自分の爪を見ているだけで姫乃とは目も合わせない。ただ、面白そうなことになっているという興味だけでそばに来たのだということがわかる不快な笑みは浮かべていた。姫乃は母親を無視して話を続ける。
「私は自分で友だちを見つけるし、自分でやりたいことを見つける! もう言いなりにはならない!」
「……それがどういうことかわかっているのか?」
姫乃の父親が冷たく言い返す。4人の緊張は最高潮に達していた。
「わかってる! 私が反抗期になったってこと!」
4人が前のめりになって崩れた。それを見て姫乃は、「あれ、違った?」と慌て始める。
「エアリーってちょっと抜けてるよね」
「流石にびっくりー」
「心臓止まりそうだったのにー」
「エアリー。たぶんお父様は、筑比地家の人間じゃなくなるぞって言いたかったんだと思うぞ」
「え!? 嘘、そうなの!?」
会話は全部姫乃の両親に筒抜けになっているのも忘れて、緊張感の解けてしまった5人は喋り続ける。姫乃も敬語をすっかり忘れて会話に混ざっていた。
すると画面の向こうでキョトンとしているだけだった姫乃の父親が、突然大声で笑い出した。母親はさらに困惑した顔をする。右手で顔を押さえて、左手は今にも倒れそうな体を支えるように机に突っ張らせている。母親が自分の磨かれた爪も忘れて、「ちょっと、貴方どうしたの!?」と笑い震える父親の肩を揺する。
「パ、パパ……?」




