103. 緊急事態(おまけSSつき)
■ 注意
トイレ問題や、ほんの少しですが流血表現があります。苦手な方は、今回のエピソード本文は読み飛ばして、一番最後のおまけSSだけお読みください。
もじもじ。もじもじ。
僕たちが、第二の宿泊地であるブランカスカード村を出発して数時間。もうそろそろおやつ時、という頃。
メロディアと遊んだり、元気に絵本を音読していたリュカが、やたらと両膝をこすり合わせていることに僕は気がついた。
「……リュカ、トイレに行きたいんじゃない?」
「ううんっ! だいじょーぶ!」
「でも、さっきたくさんお水を飲んだでしょ。漏らしてからじゃ遅いし、一度行っておこう?」
「だいじょーぶなの!」
僕が何度促しても、断固拒否するリュカ。
リュカがそう言うなら……なんて、あっさり納得するわけがない。
兄の勘とでも言うべきか、リュカのこの『だいじょーぶ』が大丈夫じゃないことくらい、全部まるっとお見通しなのだ。
(仕方ない。一度馬車を止めてもらうか……)
馬車を止めてと言っても、すぐに止まるわけではない。
間隔を空けているとはいえ、三台が直列で走っているのだ。停車には、どうしても時間がかかってしまう。なら、判断は早ければ早い方が良い。
僕は馬車の窓を叩いて、騎馬で並走している騎士の注意を引く。窓を開けて、大きな声で叫んだ。
「どうされましたか」
「馬車を止めて! トイレに行きたいんだ!」
「はっ」
騎士は頷くと、馬の速度を上げて先頭へと走っていく。あとは待っていれば、そのうち止まるだろう。
「むーっ。だいじょーぶって、いった!」
「にいにも、ちょうど行きたかったんだ。一緒に行こう、ね?」
僕が馬車を止めてと言ったことに、リュカはぷんぷんとむくれていた。
いつもは聞き分けが良いのだけど、きっといまはお腹が空いてきて、機嫌が悪いのだと思う。
しばらく待っていると、速度がゆっくりと落ちて、まずは先頭の馬車が止まる。
次に中央、最後尾と順に止まった頃には、リュカは股間を抑えてぎゅっと内股になっていた。
「……にいに〜。もれちゃう〜!」
「やっぱり!」
緊急事態だ。豪華な内装の車内で粗相するのだけは、なんとしても避けたい。
僕は大慌てで、自分で扉を開けて外に出た。
「リュカ、ほらおいで」
僕は手を伸ばしてきた半べそのリュカを、さっと抱き抱えて待機だ。五歳児の体重が一気に腕と腰にくるけれど、そんなことも言っていられない。
メロディアもなのか、僕の体をよじ登って頭の上に張り付いている。
馬車の進行方向左手は、視界を隠せるような場所がない。だからか、チボーとブノワは右手の森に入っていった。
安全に用を足せそうな場所を探すのと同時に、害獣・毒蛇・毒虫といった自然の脅威がないか、騎士団が事前に確認をする決まりなのだ。
(早く……!)
僕はその様子をヤキモキしながら見守る。腕の中のリュカはすでに限界寸前なのか、ぷるぷると震えていた。
「ルイ坊っちゃん! こっちっす!」
待ちに待ったチボーの案内で、枯葉で地面がふかふかとした森に分け入る。
大きな木を一本、二本通り過ぎて、やっと馬車から視界の届かない木陰で、僕はリュカを下ろした。
♢
リュカの名誉のために、少なくとも完全アウトではなかった、とだけ言っておく。
僕は収納からリュカの下着とズボンを取り出して、着替えさせた。
「すっきり!」
「もう! 次はもっと早くトイレに行くんだよ?」
「は〜い」
「クククー!」
一瞬、姿が見えなくなっていたメロディアも、戻ってくる。
僕が水生成で水を出してリュカに手を洗わせていると、背後から険しい表情のドニがやってきた。
「坊ちゃん、済みましたかい? さっさとここを離れやすぜ」
「? 何かあったの」
「へえ。どうにも、馬たちが落ち着かない様子なんでさあ。急ぎやしょう」
「うん。わかったよ」
ドニとブノワが森の奥を見張り、警戒してくれている。チボーを先導に、僕とリュカが手を繋いで、踵を返そうとした、その時。
──ザッザッザッ
振り返ると、小型犬のような動物が、森の奥からもの凄いスピードでこちらに走ってきたのだ!
「「「!」」」
ぐんぐんと、そいつは近づいてくる。狙いは僕、いや一番小さなリュカだ!
「! リュカ!」
「危ないっす!」
「ちっ!」
ドニとブノワが壁になるように立ちはだかってくれたけれど、僕は反射的にリュカに飛びつく。
しっかりと自分の体でリュカを覆うように抱き抱えると、地面に伏せた。
それと同時に、「ピギャーーーッ!」と耳をつんざくような、恐ろしい叫び声が辺りに響く。
「はあ……はあ……」
誰のものかもわからない、荒い呼吸だけが聞こえる。すぐにドサッと何かが倒れる音がして、僕は恐る恐る顔を上げた。
(一体、なんだったんだ……)
血の滴る剣を下ろしたドニの足元には、豚……いや、おそらく猪が横たわっている。
ドニの体重をのせた一太刀が、ちょうど首の上側を抉ったのだろう。
猪は四肢を必死にばたつかせ、「フゴッフゴッ」と苦しそうに鳴いたあと、痙攣して動かなくなった。
「はっ! リュカは……リュカは大丈夫っ!? 怪我はっ……!」
僕は慌てて体を起こし、無我夢中で覆い被さっていたリュカの顔や体を触る。土で汚れてはいるけれど、目立った怪我はないようだ。
恐怖で引き攣ったリュカは僕の顔を見ると、過呼吸のように「ヒッヒッ」と何度か息を吸う。ひきつけか!? と僕の顔から血の気が引いた瞬間、リュカは大きな声で泣き出した。
「ひぃいいいいんっ! にいにいいい〜〜〜」
「ククク〜〜〜」
「リュカ! 怖かった。怖かったね。もう大丈夫だよ」
僕の首に、リュカがしがみついてくる。よっぽど怖かったのだろう。五歳とは思えない、強い力だ。
メロディアも無事だったようで、僕の頭に鋭い爪を立ててしがみついているのがわかる。
「……はあ、はあ。坊ちゃん方。残念ながら、まだ安心はできないですぜ」
「!」
「チボー! リュカ坊ちゃんを抱えて、先に行けっ! ブノワ、周囲の警戒だ!」
「はいっす!」
「(こくこく)」
ドニの命令で、チボーは僕からひったくるようにリュカを抱き上げると、真っ先に森の外へと駆け出す。
「やあー! にいにーーー!」
「クククー!」
「ルイ坊ちゃんもっ! 早く、立ってくだせえ!」
「わかってる!」
差し出されたドニの手にぐいっと助け起こされて、僕も頭にメロディアをのせたまま、何とか森の外へと走り始める。
足に力が入らず、腰が抜ける寸前のへろへろ状態だ。強引に力強く引っ張ってくれるドニがいなければ、すぐにへたり込んでいたかもしれない。
ブノワを殿に、僕たちが転がるように街道に飛び出すと、森のどこからか遠吠えが聞こえてきた。
──ァウォオオオン
「くそっ! 狼だ!」
馬車の馬たちが、頻繁に耳を動かしながら、少し興奮した様子でいなないている。足踏みをしたり、後ろ足で地面と蹴ったりと、落ち着かない様子だ。
「ルイ坊ちゃん! 早く馬車へ!」
僕は、ドニに押し込まれるように馬車に戻る。すると、すでに先に戻っていたリュカを、ラウフとグルマンドが二人がかりで取り押さえていた。
「〜〜〜にいに!!」
タックルするように、リュカが抱きついてくる。いつもはかわいいお顔が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。
「むっふん。ルイ様が戻ってこられて、ほんっとうに良かったですっ……!」
「『にいにのところにいく!』と、リュカ坊ちゃんが馬車を抜け出そうとして、大変でした……」
二人には随分と迷惑を掛けたようだ。さらに、馬車の中は、僕とリュカの体についていた土や枯葉のせいで、薄汚れてしまっている。
……とそこに、ドニの大声が響いた。馬車の中にいても、びりびりと気迫が伝わってくる。
「騎士は総員、武器を持て! 盾に打ち付けて、威嚇だ! 御者はすぐに馬車を出せっ!」
すぐさま、「ガンガンガン!」という鈍い金属音がいくつも森にこだまする。
いつもは滑らかに走り出す馬車も、この時ばかりはがくっと重力を感じさせながら、急発進した。
──グルルル……ヴヴヴゥ……
姿は見えないけれど、獣の唸り声や吠える声が微かにして、追われていることがわかる。
馬車はいつもより、ずっと速く走った。時折り、凹凸した道で、簡単にお尻が持ち上がるくらいに。
リュカとメロディアの頭を抱えて衝撃から庇いながら、どれくらい時間が経っただろうか。
何度か「キャインッ」という、犬のような情けない声を聞いた気がするけれど、定かではない。
「……ルイ様、ルイ様。どうやら、もう大丈夫なようですよ」
僕がラウフに肩を叩かれて顔を上げる頃には、馬車はいつも通りのスピードに戻っていた。
(逃げ切れた……?)
窓の外を見ると、騎士たちは剣を納めて悠々と馬で走っている。僕の視線に気づいたチボーが、ぐっと親指を立ててくれた。
(よ、良かった……!)
きっと擦り傷やあざができているのだろう、体のあちこちが痛いけれど。
まさに命からがら、危機一髪で僕たちは逃げ切れたのだ。
♢
そのあと、予定より少し早く到着した第三の宿泊地で、僕はおじいちゃんに褒められ半分、心配半分の小言を言われ、おばあちゃんには泣かれてしまう。
みんなには、随分と心配を掛けた。
(前世とは違って、今世の森には危険な野生の動物がたくさんいることは知識として知っていたけれど、まさかあんなことになるなんて……)
今回の件は、どうやら誰も予想のつかない、不幸かつ不運な出来事だったらしい。
「猪はそもそも、臆病でおとなしい性格の動物なんでさあ。それが、あんなに初めから攻撃的だったのは、おそらく狼に追われて逃げ惑い、混乱状態だったからかと思いやす」
ドニが部屋まで僕たちの怪我の確認に来て、済まなそうにそう教えてくれた。
騎士団に落ち度があったとは思わない。事前の安全確認だって、いつも通りだったのだ。むしろ猪を倒してくれたし、狼から逃げ切れたのも騎士団のおかげだと思う。
(滅多に起こることではないはず……とはいえ、この後の旅路をどうしようか)
「もうぼく、おそとでといれ、しない!」
「クククー!」
「う〜〜ん。にいにもすごく怖かったから、気持ちはわかるけど……。トイレに行かないのは体に悪いから、ちゃんと行って欲しいなあ」
「やっ!」
トラウマ級の怖い思いをして、ひっつき虫と化したリュカをあやしながら、僕は頭を悩ませる。
馬車の旅にトイレ問題はつきものだ。大人なら水分を控えたり、我慢することもできるけれど、まだ五歳のリュカには無理な話だろう。
(前回の旅は、まだおむつを履けば良かったからなあ)
当面は、警戒にあたる騎士の人数や、休憩の回数を増やしてもらうしかないだろう。
最悪、道中でまた緊急事態になってしまったら、『馬車のすぐ外に、布で目隠しをしてする』という選択肢も、五歳なら許されると思う。
旅の恥はかき捨て。命の方が大事だ。
(せめて、前世みたいな簡易トイレがあれば……。いや、テントで似たようなものが作れる、かも?)
今回のことで肝を冷やした僕は、何か良いアイデアはないかと必死に考えを巡らせながら、改めて世知辛い今世の旅事情にため息をついたのだ。
■ 補足
今回のエピソードはストレスフルな内容だったことと、前回の更新から少し空いてしまったので、お詫びSSです。お口直しにどうぞ。
リュカが四歳の頃のお話です。
===
葡萄畑で、白く可憐な花が咲く季節。ヴァレー家の庭でも、真っ白なエルダーフラワーの花が咲き誇る。
いまは朝食前のまだ少し早い時間だけど、僕たち兄弟は良いお天気だと知るや否や、かごを片手にうきうきと庭に繰り出した。
目的は、エルダーフラワーの花を摘むこと。
庭にエルダーフラワーがあると聞いてから、セージビルの図書館で見たあるものを、僕は作りたくてしょうがなかったのだ。
「くんくん。あっま〜い、におい!」
「クンクン!」
「本当だ。なんだろう? マスカットみたいな、果物の甘い匂い?」
リュカとメロディアが花に顔を突っ込んで、子犬のように匂いを嗅ぐ。
エルダーフラワーは、白い小さな花がいくつも集まって、丸い房の形をなした木花だ。前世の白い紫陽花に、どことなく似ている。
「きれ〜ね〜」
「クク〜ク〜」
幼心と動物でも、花の見事さがわかるのだろう。
昨日の雨で、まだしっとりと露に濡れたエルダーフラワーは、太陽の光で輝いているようだった。
さらに、その湿度と太陽の温かい日差しのおかげで、今朝はこれまでにないほど、芳しい花の香りが強く周囲に漂っている。
(うん。今日まで採取を待って良かった! シロップ作りには、最高の状態だ!)
「にいに〜。おはにゃ、ぱっちん?」
「ククク〜?」
「そうだよ。満開……たくさん綺麗なお花が咲いている房を、ぱっちんしようね」
僕がそういうと、リュカとメロディアは少し肩を落としてしょぼんとした。
「おはにゃ、かわいしょ……」
「ククク……」
(くっ……! 天使か……!)
まさかそんな反応をするとは思っていなかった僕は、あまりの可愛さに身悶えてしまう。
なんとか気を取り直して、一人と一匹と視線を合わせた僕は、理由を話した。
「このお花はね、はちみつに漬けると、甘くて美味しくて、体にと〜っても良いお薬ができるんだ」
「あまい……おいちい……」
「ククク……」
今泣いた烏がなんとやら。うっとりと甘い夢を見るように、リュカとメロディアが復唱する。
「そうだよ。風邪をひいて、こんこんって咳が出る時にとっても良いんだ。だから、少しだけお花を分けてもらおう?」
「あい!」
「クク!」
一人と一匹は右手を挙げて、良い子のお返事。やる気も戻ってきたみたいで、ふんすと張り切っている。
そうとなれば、たくさんある花のうち、傷んでない満開の花を僕がいくつか見繕った。
「……これは良さそう。はい、リュカ。ここをぱっちんしてー」
「ぱっちーーーん!」
「メロディアは……そうそれ! 手で折って落とせる? 茎や青い未熟な花は弱い毒があるから、歯は使っちゃだめだよ!」
「クク!」
房の根本を、リュカがハサミで切り落とした。
木の上の方にある大ぶりで見事な房は、メロディアが枝に登るとむしって落としてくれる。
まさに二人三脚。力を合わせれば、あっという間にかごの中は花でいっぱいになった。
「おわり〜」
「ククク〜」
ふうと一丁前に汗を拭うポーズをしたリュカの顔を見て、僕は吹き出してしまった。
だって、その鼻には、いつの間にか真っ赤なてんとう虫がついていたのだ!
「くちゅんっ」
むず痒さにくしゃみをしたリュカに驚いて、てんとう虫は羽を広げて青空を飛び去っていく。
ヴァレーの言い伝えでは、てんとう虫が止まったら病気が一緒に飛んでいく、と言われているらしい。庭師から聞いたことがある。
(もしかしたら、リュカには本当の意味でシロップが必要な日は、来ないかも?)
そんなことを思いながら、ぐーぐーと雄弁に空腹を訴えるリュカと手を繋いで、僕は家へと帰っていった。
===
できたシロップをリュカに食べ尽くされるところまでが、安定でお約束の流れですね。




