(9) 幼稚園
母の頼江の他にも
藤井大樹の変化に気づいものがいた。
大友香織だった。
彼女は大樹が通う
幼稚園の担任保育士である。
幼稚園児の多くは
送迎バスに乗って登園する。
バスから元気良く降りてくる
園児達に向かって香織は必ず
「おはよう」
と子供たちに負けない様に元気に挨拶した。
その時、当然のことではあるが
必ず子供達の眼を見た。
そして大樹の変化はそこにあった。
今朝大樹の目を見たとき、
香織は一瞬大樹の目に
引き込まれる気がした。
もちろん大樹の姿は
いつもの幼児らしい姿であることは変わりないのだが
なぜか今朝は特別に
深く落ち着いた眼に思えた。
一瞬何かあったのかしらと思ったが
病気とも思えない。
多くの幼児を相手にしなければならない立場上
たちまち忘れ去った。
その次に大友香織が大樹に注目したのは
偶然の事故がきっかけだった。
季節は5月も半ば
梅雨前の日差しも明るく
暖かい日々が続いていた。
そんな気候の良い季節には
園児達を外に連れ出す事がよくあり
たいていは幼稚園から
300mほどの距離にある大きな公園が
園児達の遊び場所となった。
園児達の安全を考えれば
園の中で遊ばせたいのだが
街中にある大樹が通う幼稚園は
十分な広さの遊び場所を欠いていた。
だから天候が良い時は
園児達を幾つかのグループに分け
公園に連れ出した。
その日大友香織は
仲間の保母と3人程で
40人程の園児を引率し
公園に連れていく途中だった。
その行程自体は難しくはなかったが
事故が起きない様に気は使う。
もちろん安全だから連れていくのであるが
その日はたまたま運が悪かった。
道を探しながら
新米ドライバーの田所博は
納品の時間を気にして時計を見た。
せっかくありついた新しい仕事に
最初からの納期遅れは
何としても犯したくないミスだった。
小型トラックにカーナビは付いていたが
旧式なのか、それとも住所が違う為か
或いは田所の操作が悪い為か
どうしても目的地に着かない。
運転には自信があったし
スピードを出す事にも慣れていた。
これまで大きな事故を起こした事は一度もなかったし
危険を避ける術は心得ていた。
交通事故と言うものの殆どには
原因が一つではなく複数あるものである。
どんなにスピードを出しても
事故が必ず起きる訳ではない。
脇見運転をしても簡単には事故は起きない。
たまたまそこに飛び出しがあったりするから
事故になるのである。
要するに事故は原因が重なり起こる。
その事実に対する田所の認識は甘かった。
これまでの田所は
たまたま運良く
その「原因の重複」が
なかっただけだったのである。
しかし、今回は状況が異なり
人生の落とし穴として
用意周到にその舞台が整っていた。
まず幅7メートル程しかない道が
ゆるく右にカーブしながら続いた。
『あっ』と田所は思った。
この道路に田所は見覚えがあった。
そうだ、そう言えば
この先が納品場所の気がする。
その時、ゆるいカーブの陰から
白いセダンが急に表れた。
もちろん衝突の危険はない。
田所はブレーキを微かにかけながら
少し急ハンドルで左に避けた。
しかし、その場所には
事故を起こしたばかりの車が
つい30分程前まで
路上に駐車していたのである。
その車は、オイル漏れを起こしていた。
修理の段取りがついた為
何とか走り去っていたのである。
そしてその後の路上には
少しずつ漏れ続けた
2リットル程のエンジンオイルが残っていた。
その上で田所のトラックは
急ハンドルをきりながら
微かにブレーキをかけたのだった。
まず片側の前輪が滑り
その後を後輪が辿った。
その結果、田所の運転するトラックの左側前後の車輪が
完全にロックした状態となった。
その時トラックは時速60kmを越えるスピードで走っていた。
当然の様に左回りのスピンが始まり
制御不能となったトラックは
たまたま歩いていた幼稚園児の
列の真ん中に向かって突っ込んで行った。




