(8) 死か恐怖か
200年の命を得た人間はいない。
5歳の歳のまま、200年間を彷徨う
もし実際に生きたなら
そしてその人格が
200年が過ぎた頃
ある日突然5歳の幼児に戻る。
大樹は
全く一人ぼっちで
極寒の世界に放り出された気持ちだった。
心の旅が続いていたその
途轍もなく永い間
大樹の周囲を心地よく包んでいた白い綿が
突然取り払われ
氷の様に冷たい透明の世界に
放り出された気がしたのである。
それは200年以上にわたる人生経験に
いきなり5歳の幼児の心を
適合させる事だった。
その苦しみの強烈さは
女性の初産の苦しみにも似て
心をめりめり引き裂く様な強烈な苦痛だった。
その苦痛を確実に回避する
簡単な方法が唯一つだけあった。
それは「死」だった。
そこに逃げ込まない以上は
正面から立ち向かい結論を導いて悟るまでは
ただ、ただ苦しむしかない。
もちろん大樹にも死の選択は許されていた。
更に「サンダル」からの知識は
大樹が死へと逃げずに
自分の力だけで助かる見込みは
半分もない事を大樹自身に冷酷にも教えていた。
つまり、この苦しみの連続は
むしろ「死の選択から逃げる苦しみ」
以外の何物でもなかったのである。
そして大樹にとって非常に幸運だった事は
彼の最初の苦しみが
「自分の死への恐怖」から始まった事だった。
生体手術後の苦しみは
色々な形態で襲ってくる可能性があった。
その個人の性質によって
それは様々に異なるのである。
しかし、大樹の場合は
苦しみの逃げ道である「死」そのものへの恐怖が
最初の苦しみとして襲ってきたのである。
生体手術の間に記憶させられた死の記憶。
数え切れない程の生々しい
死の現実をリアルに理解する事は
5歳の幼児にとっては過酷過ぎる苦痛だった。
大樹はガタガタ震えながら必死に耐えた。
朝、母の頼江が目を覚ますと
隣に寝ていた大樹の様子がおかしい。
びっしょり汗を掻き苦しいそうである。
「どうしたの、大丈夫?」
頼江は心配して叫んだ。
大樹は、大丈夫と首を横に振るだけだった。
「病院に行こう。大樹ちゃん」
大樹は母が病院と言うのを聞いて
心から行きたくないと思った。
死を賭けて頑張っているこの今の苦しみは
自分で解決するしか方法がないのである。
訳の分からぬ医者と会話をしても何の解決にもならない。
しかし苦しいながらも大樹は冷静だった。
「病院には行かない。
お母さんは、仕事に行っていいよ。
僕は大丈夫だから。」
頼江はびっくりした。
こんなにすらすらと喋る大樹を頼江は観た事がない。
頼江が知っているこれまで大樹にはあり得ない
非常に長い言葉の表現だったのである。
それが却って、母を心配させた。
「だめよ、大樹ちゃん
病院に行って先生に診てもらわなければ」
大樹はうんざりした。
ただでさえ殆ど話す事ができない位苦しい状態だった。
「病院には今日は行かないよ。
お母さん。
それよりもそっとしておいて。
お母さんは仕事に行ってきて。
本当に悪くなったら電話もできるし。
でも心配して電話を鳴らさないでね。
これからしばらく眠るから。」
頼江はまたもや唖然とした。
確かに自分の息子の大樹だったが
いつの間にかこんなに喋る様になったのだろう。
言葉つきも毅然として
反論ができない。
論理も通っている。
逆に頭がおかしくなったのかも知れないと微かに思った。
しかし、それから何度言い合いをしても
大樹は頑として言う事を聴かなかった。
大樹も言い合いをしている間に気が紛れ
少し落ち着いてきた。
そしてそれを見た頼江も少し安心した。
結局最後には
幼稚園を休む事だけが決まっただけで、
頼江はパートタイマーの仕事に出かける事となった。
大樹は母の手前
無理に朝食を取った。
一人になると
また精神的な苦痛がぶり返してきたが
母と会話をした事が
意外にも大きな効果を持った様だった。
ごく普通な精神状態にある母の存在を
強く再認識する事によって
大樹に
非常に現実的な責任感が植えつけられたのである。
それは「母の命を守らなければならない」
と言う責任感であった。
そしてそれができる可能性のある者は
自分ただ一人なのである。
責任感は、心の核として常に有効だった。
その為か大樹は回復し始めた。
数時間に及ぶ苦しみの連鎖の後に
死と言う「永遠の無」に逃げ込む事こそが
逆に今の大樹にとっての
「最大の悪」であると言う結論にしがみ付く事により
まずその克服に成功したのである。
死への恐怖と言う最も基本的な危機を乗り切った大樹は
その他の様々の形態で襲う苦しみにも
果敢に挑戦していった。
午後の4時過ぎ
同僚に頼み込んで仕事を早退した頼江が戻ると
大樹はぐっすり眠っていた。
大樹は僅か1日で
生態手術後の自分の身体に
精神を適合させる事に成功したのである。
その強い苦しみの連続による疲れから
大樹は死んだ様に眠っていたのだった。
何も知らない頼江は
病気から回復したらしい大樹の眠っている姿を見て
上から覆いかぶさる様に抱きしめた。
限りなく愛おしい大樹の身体は
柔らかく、強く母性を刺激した。
母に気づいた大樹が
微かに目を覚ました状態で
母に弱くしがみ付いてきた。
大樹は、自分が生き残ったのは
誰よりも、この母を守る為である事を知っていた。




