(2) 苦しみ
朝5時30分。7月の朝はもう既に明るくなっている。
大樹の住むマンションの3階に、大樹が突然姿を現した。
身体が空中から突然現れ
まるで30センチの高さの段から飛び降りたかの様に
ぽんと地上に降り立った。
目に見えない状態にある「サンダル」から
飛び降りたのである。
続いて大樹が建材屋の資材置き場に
脱ぎ捨てたスニーカーが
ころころと転がって落ちた。
大樹は、そのスニーカーを拾う
鍵の掛かっていないドアを開け
そのままマンションに入っていった。
最後に後ろ手で
「サンダル」が部屋の中に入るのを促した。
慣れた動作で落ち着いてはいたが
その顔は青褪め、笑顔が無かった。
大樹は
今自分が非常に危険な状態にある事を理解していた。
その理由は
「サンダル」から受けた生体手術だった。
実際のところ
それは受ける者にとって非常に危険なものであり
大樹の命を奪う可能性が十分にあったのである。
そして大樹自身も
既にその宿命の意味を良く理解していた。
選ばれた以上は避ける事もできない。
それは大樹の「心」の危険だった。
「サンダル」から降りて
密かに母の隣の寝床に戻った大樹を
既に生じ始めた
強烈な恐怖感が
何倍もの強さになって襲い始めた。
現実が生々しく
幼児の精神に入り込んできたのである。
通常であれば
序々に大人になっていく過程で
序々に理解し慣れていく概念だった。
それがいきなりリアルに
幼児の精神に飛び込んできた。
いや襲ってきたと言ってもおかしくない。
永い旅の途上にあった時
大樹はある意味で
夢を見ている様な状態にあった。
数限りない凄まじい経験をしたが
そのショックが
大樹を危険に晒す事はなかった。
しかし、今は違った。
大樹の本来の姿である
5歳の精神に
生体手術を受けた結果が
もろに襲い掛かったのである。
大樹は身体を丸めて震え始めた。
彼は自分の運命を
はっきりと呪っていた。
なぜ自分だけが
この様な目に遭わなければならないのか
納得できなかったのである。
「サンダル」が自分を選んだ理由を
大樹は理解していた。
まず幼児であり
父親がいない事。
父親の存在は
精神的な依存の脱却に障害になるからだった。
更に宗教の影響が少ない事。
特定の宗教の影響は
手術後の適応に
大きな障害になる可能性があった。
そして生物的に
頭脳の組成が
非常に適応力に富んでいる事等
いろいろあった。
しかし自分でなくても
その条件に適合する幼児は
他に幾らでも居たに違いないと大樹は思った。
要するに自分でなくとも良かった筈なのである。
大樹は「サンダル」による生体手術により
数百年間の経験にも匹敵する
記憶情報を持つ事となった。
そしてその内容は驚くべきものだった。




