選択
遺跡の奥から地上へ戻る途中、カイは何度か背後を振り返りたくなったが、結局一度もそうしなかった。硬い床を爪が叩く小さな音が一定の間隔で続いている以上、灰銀色の獣がまだ後ろを歩いていることは分かっていたし、自分でついてくると決めた相手を、いちいち確認する必要もないと思ったからだった。
もっとも、完全に信用したわけではない。背中を見せて歩くという行為そのものがかなり不用心なのは確かだった。獣が再び飢餓に呑まれれば、今度こそ背後から襲われる可能性もある。
それでも、不思議なことに獣は一定以上近づいてこなかった。カイが歩調を緩めると少し遅れて速度を落とし、瓦礫を越えるために足を止めれば、数歩離れた場所で同じように立ち止まる。こちらへ飛びかかる様子も、横道へ逃げようとする様子も見せず、ただ警戒を残したまま同じ方向へ歩いていた。
「警戒してるのは、お互い様ってことか」
カイが独り言のように呟くと、背後の爪音が一瞬だけ止まり、すぐに再び聞こえ始めた。言葉そのものを理解したとは思わなかったが、自分に向けられた声だということくらいは分かっているのかもしれない。
遺跡内部は、入ってきた時より明らかに不安定になっていた。青白く光っていた照明の一部は消え、壁面を流れていた古代文字も赤く明滅している。遠くから何度も崩落音が響き、そのたびに床から細かな振動が伝わってくるため、ここに長く留まる理由はなかった。
一方で、進む方向について迷うことはなかった。カイが通路へ近づくたびに照明が順番に点灯し、出口までの道を示しているからだった。
「ここまで露骨に案内されると、親切というより気味が悪いな」
カイはそう呟きながら歩き続けた。
第六話で最初に遺跡の装置へ触れた時から、この施設は明らかに自分へ反応している。なぜなのかは分からない。古代文明の装置が誰にでも同じ反応をするのかもしれないし、偶然何らかの条件を満たしただけかもしれない。
今の段階で、自分が特別だと考えるのは早すぎる。
それに、もし古代文明が何か大げさな運命を押しつけようとしているのであれば、カイとしてはなおさら関わりたくなかった。
やがて前方に、見覚えのある階段が現れた。その先からは人工の青白い光ではなく、夕暮れの自然光が差し込んでいる。
「やっと出られるな」
カイは少しだけ肩の力を抜き、階段を上り始めた。
ところが数段進んだところで、後ろから聞こえていた爪音が止まった。
カイも足を止めた。
数秒待っても音は戻らない。
仕方なく振り返ると、灰銀色の獣は階段の一番下に立ったまま、地上へ続く出口を見上げていた。
「どうした」
当然、返事はない。
それでも、金色の瞳に浮かんでいる感情は何となく分かった。
警戒している。
ただし、それまでカイや古代機械へ向けていた警戒とは少し違う。
未知のものへ踏み出すことをためらっているように見えた。
考えてみれば当然だった。
この獣は古代遺跡の召喚機構によって原界から突然引き出され、その直後には拘束され、古代機械から攻撃され、最後には見知らぬ人間と一緒に戦っている。この世界へ来ることを本人が望んでいたのかどうかすら分からない。
その状態で、さらに見たこともない地上へ出ろと言われたところで、ためらわない方がおかしい。
カイは階段を数段戻った。
その途端、獣が身を低くした。
「取って食ったりしないから安心しろ。むしろ噛まれたのは俺の方だ」
獣の耳がわずかに動く。
「外へ出たくないなら、ここに残ってもいい。ただし、このまま遺跡が崩れたら俺は助けに戻れないから、そのつもりで決めろ」
言葉がすべて通じているとは思わなかった。
それでも、選択肢があるということだけは伝えたかった。
カイは再び背を向け、階段を上り始める。
数秒後。
後ろから爪の音が聞こえた。
カイは振り返らず、そのまま進んだ。
階段を上り切り、半開きになった巨大な扉を抜けると、久しぶりに自然の風が顔へ当たった。遺跡内部の乾いた人工的な空気とは違い、土と草、それにわずかな煙の匂いが混じっている。
空はすでに夕方へ近づいており、傾いた陽光が崩れた集落を赤く染めていた。ところどころから細い煙が上がっているものの、大きな火災に発展している様子はない。
カイは一度深く息を吸った。
「やっぱり外の方がましだな」
背後で小さな物音がする。
灰銀色の獣も、遺跡の扉からゆっくりと姿を現した。
地上へ出た瞬間、獣はその場で立ち止まり、鼻を何度も動かして風の匂いを嗅いだ。それから耳を左右へ向け、鳥の声や遠くにいる人間たちの話し声を拾っているらしい。
数歩進んだところで草へ鼻先を近づけたため、カイは思わず声をかけた。
「草まで食うなよ」
獣が顔を上げる。
「いや、お前なら本当に食いそうだから言っただけだ」
しばらくカイを見た後、獣は草から鼻を離した。
カイは眉を上げた。
「……少しは分かってるのか?」
確認する方法はない。
カイは集落の西側へ向かって歩き始めた。逃げ遅れている者がいないか確認しながら、先に避難させた住民たちと合流するつもりだった。
獣も、数歩後ろからついてくる。
問題が起きたのは、集落の西端が見えてきた頃だった。
「カイ!」
遠くから聞き覚えのある声が飛んできた。
昨日から何度も話しかけてくる若い護衛が、こちらへ駆けてくる。
「生きて――」
そこまで叫んだところで、若者の声が止まった。
視線がカイを通り越し、その背後へ向いている。
「……カイ」
「何だ」
「動くな」
「何で」
「後ろ」
「知ってる」
「知ってる!?」
若い護衛は反射的に剣を抜いた。
その金属音へ反応し、灰銀色の獣が一瞬で身を低くする。
「待て」
カイが声をかける。
「待つのはあんただろ! 何で魔物を連れて帰ってきてるんだ!」
「連れてきてない」
「後ろについてきてるだろ!」
「勝手についてきた」
「もっと悪い気がするんだけど!」
若い護衛の声を聞きつけ、周囲にいた他の護衛や避難民たちも集まり始めた。
元兵士の男。
商人。
カイが遺跡から救出した住民たち。
そして子供たち。
最初は何事かと見ていただけだった人々も、カイの後ろにいる灰銀色の獣へ気づいた瞬間、表情を変えた。
「魔物だ……」
誰かが小さく呟く。
「いや、召喚獣じゃないのか?」
別の者が言う。
「遺跡から出てきたのか?」
「危険だろ!」
声が重なるほどに、人々の恐怖が広がっていく。
獣の耳が何度も動いた。
人間たちの声そのものだけではなく、恐怖や警戒を感じ取っているのかもしれない。
喉の奥から低い唸り声が漏れる。
それを聞いた護衛の一人が剣を抜いた。
「やっぱり危険だ!」
「剣を下げろ」
カイの声が変わった。
それまでの面倒そうな口調ではなく、戦場で部下へ命令を出していた頃の低く通る声だった。
護衛が思わず動きを止める。
「でも、あれは――」
「下げろ」
元兵士の護衛が先に剣を収めた。
「言う通りにしろ」
「でも、カイの腕を見ろ」
若い護衛が指差す。
包帯には血が滲んでいる。
「噛まれてるじゃないか!」
「ああ、噛まれた」
「襲われてるじゃねえか!」
「それは否定しない」
「何でそんなに落ち着いてるんだよ!」
若者が本気で理解できないという顔をしている。
カイは獣を見る。
人間たちに囲まれ、逃げ道を探すように周囲へ視線を動かしている。
追い詰めれば戦う。
それだけは分かる。
そして、もしここで人間を傷つけて血や魔力を取り込み始めれば、遺跡内で見たあの異常な適応能力が何を引き起こすのか分からない。
「こいつは、遺跡の中で召喚された」
カイは周囲へ説明した。
「古代の召喚装置らしいものが動いて、原界から現れた」
ざわめきが大きくなる。
「お前が召喚したのか?」
元兵士の男が聞く。
「少なくとも、普通の意味では違う。俺は召喚術式を使ってないし、呼び出そうともしてない。遺跡が勝手に動いた」
商人が人垣を抜けてやってくると、獣とカイを交互に見た後で、ひどく疲れたような顔をした。
「お前、人を助けに行ったんじゃなかったのか」
「助けた」
「では、なぜ一匹増えている」
「俺も知りたい」
「拾ってきたのか?」
「拾ってない。勝手についてきた」
商人は額へ手を当てた。
「昨日から、お前はその言い訳ばかりしていないか」
「気のせいだ」
周囲の何人かから、小さな笑いが漏れた。
緊張が少しだけ緩んだ。
しかし、それで問題が解決したわけではなかった。
避難民の中から一人の男が前へ出る。
「危険なのは変わらない」
男は幼い子供を自分の背後へ庇っていた。
「そんなものを人の近くへ置くわけにはいかない。今のうちに殺した方がいい」
その言葉に反応し、獣の身体が再び低くなる。
カイは男を責める気にはならなかった。
家族を守る立場なら、当然の反応とも言える。
「やめろ」
カイは静かに言った。
「何がだ」
「殺そうとするな」
「危険なんだろう?」
「危険なのは否定しない」
カイは包帯を巻いた腕を軽く上げた。
「実際に俺は噛まれたし、何をするか全部分かってるわけでもない」
「だったら――」
「でも、今は誰も襲ってない」
男が言葉を止める。
「遺跡からここまで、こいつは俺の後ろを歩いてきただけだ」
「それでも危険だ」
「ああ。それはそうだ」
カイは素直に認めた。
男は少し戸惑ったようだった。
「なら、なぜ守る」
「守ってるつもりはない」
「同じだろ」
「違う。俺が言ってるのは、今ここで殺す理由がないってことだ」
カイは獣を見る。
「こいつは逃げられる。森もあるし、丘もある。放っておけば自分でどこかへ行くかもしれない」
「もし人を襲ったら?」
「その時は、その時に対処する」
「無責任だ」
「そうかもな」
カイは否定しなかった。
それから少し考え、男へ視線を戻した。
「ただ、危険だから殺すって理屈なら、ここで一番危険なのは多分俺だぞ」
男が眉をひそめる。
「何を言ってる」
「剣も銃も使える。魔法も使えるし、少なくともこいつより人間の殺し方を知ってる」
周囲が静かになる。
「俺も危険だから殺すか?」
「そういう話じゃない」
「そういう話だ。危険かどうかと、今殺す必要があるかは別だろ」
カイの判断は単純だった。
獣が安全だとは思っていない。
無害だとも思っていない。
だが、危険である可能性だけを理由に、逃げることすら許さず殺す必要はない。
その時、人混みの中から小さな少女が一歩前へ出た。
「リナ!」
父親が慌てて腕を掴む。
第六話で瓦礫から助けた少女だった。
「その子、怪我してる」
少女は灰銀色の獣を見ていた。
「危ないから下がれ」
父親が言う。
「でも、お兄さんの後ろにいるだけだよ」
獣も少女を見る。
カイは反射的に剣へ手を近づけた。
もし飢餓に反応して子供へ飛びかかれば、その時は止める。
しかし、獣は動かなかった。
むしろ一歩だけ後ろへ下がった。
少女との距離を広げたのである。
偶然かもしれない。
人間が多いから警戒しただけかもしれない。
それでもカイには十分だった。
「見ただろ」
誰に言うでもなく言った。
「少なくとも今は襲う気はない」
周囲の人間たちはまだ不安そうだったが、すぐに武器を向ける者はいなくなった。
元兵士の護衛がカイへ聞く。
「それで、どうするつもりだ」
「何が」
「あの獣だ」
「知らん」
「知らんって、お前」
「俺のものじゃない」
その言葉に何人かが不思議そうな顔をした。
「召喚されたんだろ?」
「遺跡にな」
「なら契約してるんじゃないのか?」
「してない」
「じゃあ、なぜついてくる」
「だから俺に聞くな」
カイは獣へ向き直った。
人間たちと獣の間に立つように数歩進む。
「おい」
獣がカイを見る。
「ここにいると、お前もこいつらも落ち着かない」
金色の瞳がこちらを見つめる。
「こいつらはお前が怖いし、俺もお前が何なのか全部分かってるわけじゃない」
カイは森の方角を指した。
「だから、逃げろ」
周囲が少しざわめいた。
獣は動かない。
「森でも山でも好きなところへ行けばいい。元いた場所へ戻れる方法があるなら、それを探してもいい」
それでも獣はカイを見たままだった。
「俺についてくる必要もないし、契約する必要もない。お前を捕まえるつもりもない」
カイはしばらく獣を見た後、自分から背を向けた。
これ以上言うことはなかった。
助けたから所有する。
餌を与えたから従わせる。
召喚されたから召喚者へ服従する。
そんな関係を、カイは望んでいない。
自分が「誰を守るかは自分で決める」と考えるのであれば、相手にも同じ程度の自由があっていいはずだった。
誰といるのか。
どこへ行くのか。
誰を信用するのか。
それくらいは、獣自身が決めればいい。
カイは人間たちの方へ戻った。
商人が横から聞いてくる。
「本当に逃がすつもりなのか」
「ああ」
「危険な召喚獣かもしれないぞ」
「そうかもな」
「また人を襲えばどうする」
カイは少しだけ考えた後で答えた。
「その時に止める。今起きていないことまで理由にして殺すつもりはない」
商人はしばらくカイを見てから、深く息を吐いた。
「お前は傭兵というより、面倒な哲学者にでもなった方がいいんじゃないか」
「食えない仕事は嫌だ」
「傭兵も大して食えてないだろ」
「それは言うな」
若い護衛が会話へ割って入る。
「なあ、カイ」
「今度は何だ」
「逃げてないぞ」
カイはすぐには振り返らなかった。
「そうか」
「いや、そうかじゃなくて、こっち来てる」
そこでようやく振り返る。
灰銀色の獣は森へ向かっていなかった。
急いでいる様子もなく、一歩ずつこちらへ歩いてくる。
人間たちの集団へ近づいているというより、明らかにカイのいる場所へ向かっていた。
数歩手前で一度止まる。
カイを見る。
「逃げろって言っただろ」
獣はさらに一歩近づく。
「聞いてないのか」
もう一歩進み、カイのすぐ後ろまで来ると、そこで静かに腰を下ろした。
周囲が妙に静かになった。
若い護衛だけが、少し笑いを含んだ声で言う。
「どう見ても、あんたについていく気じゃないか」
「知らん」
「本人に聞いてみろよ」
「聞けるなら苦労しない」
商人が大きくため息をつき、元兵士の護衛は面白そうに笑っている。
避難民たちは依然として警戒していたものの、先ほどまでのように今すぐ殺さなければならないという空気ではなくなっていた。
カイは灰銀色の獣を見る。
「本当にここでいいのか」
獣は逃げなかった。
森へ向かうことも、遺跡へ戻ることもなく、ただカイのそばに座っている。
それが獣なりの答えなのかもしれなかった。
「……勝手にしろ」
カイはそれだけ言った。
守るとも、飼うとも、契約するとも約束しなかった。
獣もまた従うとは言わず、ただ逃げられる状況で逃げず、自分自身の意思でカイのそばに残った。
その事実だけで、今は十分だった。
カイはまだ知らなかったが、この小さな選択こそが、後に最初の共生契約へつながる最も重要な一歩になる。主従でも所有でもなく、どちらか一方に強制された関係でもない。まず相手へ逃げる自由を渡し、そのうえでなお同じ場所にいることを選んだという事実が、二人の関係の最初の形になった。




