旅のはじまり
カイがどれだけ
「逃げろ」
と言っても、灰銀色の獣は結局どこへも行かなかった。森へ向かうことも、丘を越えて姿を消すこともなく、少し距離を空けてカイの後ろへ座り込み、そのまま動こうとしない。周囲には武器を持った護衛がいて、避難民の中には今も明らかに怯えている者がいるのだから、危険を避けるのであれば人間から離れる方が合理的なはずだった。それでも獣は、そこにいた。
「……本当に残る気か」
カイが問いかけると、金色の瞳がこちらへ向く。言葉による返事はない。ただ、耳が微かに動き、自分へ話しかけられていることだけは理解しているようだった。若い護衛が少し離れた場所から二人の様子を見ている。
「なあ、カイ」
「何だ」
「やっぱり懐かれてると思う」
「どこを見たらそうなる」
「逃げろって言われたのに戻ってきて、あんたの後ろに座ってるところ」
カイは獣を見る。
「判断力が悪いだけかもしれない」
「自分で言うのかよ」
「少なくとも、俺についてくる利点は大してない」
カイ自身、それは本気でそう思っていた。安定した家があるわけではない。食料が豊富にあるわけでもない。国家や組織へ所属しているわけでもないため、召喚獣を安全に保護する設備も人脈もない。傭兵として各地を転々とする生活は、むしろ安定とは正反対だった。商人も似たことを考えていたらしく、獣とカイを交互に見た後で深くため息をついた。
「お前には、面倒事を拾う才能でもあるのか」
「拾ってない」
「昨日はパン泥棒の子供に金を払い、今日は盗賊と戦った後で集落の救助へ勝手に向かい、最後には古代遺跡から正体不明の召喚獣まで連れて帰ってきた。それで何も拾っていないと言うつもりか?」
「最後のは勝手についてきただけだ」
「その言葉はもう聞いた」
周囲にいた何人かが笑った。先ほどまで獣を警戒していた避難民たちの中にも、少しずつ緊張が薄れてきている者がいた。それでも、カイはすぐに釘を刺した。
「近づかない方がいい。特に子供は距離を取れ」
先ほど獣を危険視していた男が、少し意外そうにカイを見る。
「安全なんじゃないのか」
「そんなことは一言も言ってない。こいつが何をするのか、俺にも全部分かってるわけじゃないし、腹が減ったらどうなるかも分からない」
そう言いながら、カイは獣を見る。灰銀色の毛にはまだ血と泥が残り、左前脚も完全には治っていない。遺跡で古代機械を食べた時に現れた黒銀色の爪や硬質化した皮膚は、地上へ出てから少しずつ元へ戻っていた。一時的な適応だったらしい。問題は、能力を使えば使うほど飢餓が強くなることだった。獣の視線が荷車へ向く。そこには避難民へ配る食料が積まれている。
「見るな」
カイが声をかける。獣はまだ荷車を見ている。
「駄目だ。それはお前の飯じゃない」
耳が動き、ようやく視線がカイへ戻った。若い護衛が吹き出す。
「絶対分かってるだろ、それ」
「だったら助かる」
「何が?」
「言葉を覚えさせる手間が減る」
「もう飼う前提じゃないか」
「飼わない」
カイが即座に否定すると、獣がこちらを見た。
「お前も変な期待するな」
今度は商人まで笑った。
「もう普通に会話しているようにしか見えんぞ」
「俺が一方的に話してるだけだ」
「それを世間では話しかけると言う」
「細かいな」
そんなやり取りをしている間にも、太陽はかなり傾いていた。集落から救出した避難民をこれ以上ここへ留めておく理由はない。遺跡から聞こえていた地鳴りは弱まったものの、異常が完全に収まった保証もなく、再び崩落が起きる可能性も残っている。商人と元兵士の護衛は、避難民を荷車へ乗せて宿場へ戻る準備を進めていた。カイも作業を手伝おうとしたが、商人が止める。
「お前は休め」
「この程度なら動ける」
「遺跡へ入ってから何時間動き続けた」
「覚えてない」
「なら休め」
「もう雇い主でもないのに偉そうだな」
商人が眉を上げる。
「契約書は誰が持っている」
カイは外套の内側へ手を入れた。そこには、確かに護衛契約書が残っている。
「切ったはずだが」
「私は受け取っていない」
「面倒なことするな」
「お前にだけは言われたくない」言い返せなかった。カイは仕方なく荷車の横へ腰を下ろし、噛まれた腕の包帯を巻き直した。牙の跡は思ったほど深くないが、完全に放置できる傷でもない。宿場へ戻ったら洗浄して薬を使った方がいいだろう。その様子を見ていた灰銀色の獣が、ゆっくり近づいてきた。カイが顔を上げると、獣も数歩手前で止まる。
「何だ」
返事はない。獣の視線が荷物袋へ向く。
「腹減ったのか」
耳が動く。
「本当に分かりやすいな」
カイは荷物袋を開け、残っていた保存食を一つ取り出した。獣の視線が即座に食料へ吸い寄せられる。「これで最後だからな」
実際には少し残してあるが、自分の食料まで全部渡してしまえば明日の朝が困る。保存食を二つに割り、半分を獣の前へ置いた。獣はすぐに近づきかけたが、途中で止まった。一度カイを見る。それから食料を見る。もう一度カイを見る。
「食っていいぞ」
声をかけると、獣はようやく近づいて保存食を食べ始めた。カイは少しだけ眉を上げた。最初に出会った頃は、食料を投げれば空腹に耐えきれずすぐに食いついていた。それが今は、一度こちらを確認してから口にしている。偶然かもしれない。しかし、少なくとも何かが変わり始めている。獣が食べ終えると、カイの手に残っている半分へ視線を向けた。
「これは俺のだ」
まだ見る。
「駄目だ」
それでも見る。カイは数秒耐えた後、小さくため息をついた。
「……半分の半分だけだぞ」
少しちぎって渡す。離れたところから見ていた若い護衛が、笑いを堪えている。
「何だ」
カイが睨む。
「いや、何でもない」
「言え」
「どう見ても飼い主だなと思っただけ」
「後で殴る」
「それだけ元気なら安心した」
若者は笑いながら離れていった。カイがため息をついた、その時だった。胸の奥に、これまで経験したことのない奇妙な感覚が生まれた。痛みではない。魔力を消耗した時の疲労とも違う。自分の中にある何かが、細い糸で外側へ引っ張られるような感覚だった。
「……?」
カイは胸元へ手を当てた。同時に、獣も顔を上げる。その身体へ、遺跡内で何度も見た白銀色の紋様が浮かび上がった。
「おい」
カイは立ち上がった。獣も身を低くしたが、捕食能力が暴走した時とは様子が違う。白銀の紋様は全身へ激しく広がらず、首筋から胸元へ向かってゆっくりと現れ、淡い光を放っている。さらに、カイ自身の右手にも光が浮かんだ。手の甲から細い線が伸びていく。見覚えがある。古代遺跡の召喚装置。床へ描かれていた術式。獣を囲んでいた光。その一部によく似ていた。
「……何だ、これ」
カイが手を動かしても、光は消えない。魔法を使った覚えはなく、自分の意思で出している感覚もなかった。獣も混乱しているらしく、自分の胸元へ浮かんだ紋様を見ようとして首を動かしている。その瞬間、カイの頭の奥へ何かが流れ込んできた。今まで遺跡内部で感じたほど強烈ではない。しかし、確かに自分以外の感情だった。空腹。疲労。警戒。そして、その奥にわずかな安心感が混じっている。カイは獣を見る。
「……お前か?」
金色の瞳と目が合った。言葉で考えている内容が読めるわけではない。それでも、獣の状態が以前よりはっきりと感じ取れる。
「まさか」
カイは自分の手へ浮かんだ光を見た。召喚契約。その言葉が頭に浮かぶ。召喚士と原界生命が接触し、双方が受け入れることで契約が成立することくらいは一般知識として知っている。正式な契約へ至る前に仮契約のような段階を経る場合があることも、軍時代に聞いたことがあった。しかし。自分は何もしていない。召喚術式を組んだ覚えもなければ、契約を求めたつもりもない。
「遺跡が何かしたのか?」
丘の向こうにある古代遺跡へ視線を向ける。地上へ漏れていた青白い光は、以前よりかなり弱くなっている。それでも、わずかに感じる。カイ。獣。遺跡。その三つが、ごく細い魔力の流れでつながっている。
「仮契約か?」
元兵士の護衛が近づいてきた。
「どうした」
「こっちが聞きたい」
「手が光ってるぞ」
「見れば分かる」
男は獣の紋様も確認した。
「召喚契約じゃないのか」
「多分な」
「契約したのか?」
「してない」
元兵士の男が呆れる。
「またそれか」
「本当に何もしてない」
カイは獣へ向き直った。
「お前、これを望んだのか?」
もちろん言葉で返事はない。ただ、獣は逃げなかった。むしろ一歩だけ、カイとの距離を縮めた。その瞬間、手の甲の光が少し強くなり、頭の奥へ感じる安心感もわずかに増した。そこでカイは、少なくとも一つだけ理解した。古代遺跡が何らかのきっかけを作ったとしても、この関係の全てが機械によって強制されたわけではない。自分は獣へ明確に逃げる自由を与えた。森へ行ってもいい。遺跡へ戻ってもいい。自分についてくる必要もない。そう伝えた。それでも、獣は戻ってきた。そして今も、離れようとはしていない。
「……なるほどな」
カイは息を吐いた。
「お前も結構勝手だな」
獣の耳が動く。
「まあ、人のことは言えないけどな」
「仮契約なら、まだ解除できるはずだ」
元兵士の護衛が言う。カイは頷いた。その可能性は自分も考えていた。
「おい」
獣がこちらを見る。
「嫌なら切るぞ」
獣は動かない。カイは契約を解除することを意識してみた。するとつながりが少し緩む。
完全に切る方法までは分からない。それでも、できそうな感覚はある。強制された絶対的な拘束ではない。
「……切れそうだな」
カイは呟いた。そして、獣を正面から見る。
「最後に聞く」
言葉がどこまで伝わるのかは分からない。それでも、今度はきちんと選ばせたかった。
「俺と一緒に来るか?」
逃げろではない。従えでもない。ただ、一緒に来るかと聞いた。獣はしばらくカイを見ていた。次に森を見る。集落。人間たち。遠くの遺跡。それぞれへ順番に視線を向けた後、最後にカイへ戻る。そして一歩近づいた。さらに一歩。カイのすぐ前まで来ると、灰銀色の獣は鼻先を外套へ軽く押しつけた。カイは予想していなかった動きに、しばらく何も言えなかった。若い護衛が遠くで笑う。
「やっぱり懐かれてるじゃん」
「うるさい」
カイが言い返している間に、手の甲へ浮かんでいた光がゆっくりと収束していった。完全に消えたわけではない。皮膚の奥へ溶けるように消え、代わりに細い魔力のつながりだけが残る。獣の白銀色の紋様も同じように薄れていった。仮契約。おそらくそう呼ぶのが一番近い。命令権を得た感覚はない。獣の力を自由に使えるわけでもない。ただ、少し離れていても互いの存在を感じられる程度の、ごく弱いつながりが生まれている。
「……分かった」
カイは獣を見る。
「一緒に来るなら、勝手についてこい」
金色の瞳が少し細くなった。それが嬉しいのか、安心なのか、まだはっきりとは分からない。ただ、契約を通じて流れてくる感情は、先ほどより穏やかだった。
「ただし、人を勝手に食うな」
獣が首を傾げる。
「古代機械もなるべく食うな」
さらに首を傾げる。
「分かってない顔するな」
若い護衛が笑いながら近づく。
「名前は?」
「何が」
「その子の名前」
カイは獣を見る。
「知らん」
「じゃあ、名前を付ければいいんじゃないか?」
カイは少し嫌そうな顔をした。
「俺が?」
「普通そうじゃない?」
「俺は召喚士じゃないから知らん」
獣は二人の会話を静かに聞いていた。カイはしばらく金色の瞳を見たが、今ここで無理に名前を決める必要もないと思った。名前については後でいい。まずやるべきことがある。避難民を宿場へ戻す。怪我人を治療する。王国軍か警備隊へ遺跡の異常を知らせる。そして、できれば何か温かいものを食べる。
「行くぞ」
カイが歩き始める。獣もその後を追った。前のように大きく距離を取ることはなく、今度は数歩後ろを自然についてくる。商人がその様子を見ながら呟いた。
「護衛が一人いなくなったと思ったら、獣が一匹増えたな」
「護衛じゃないぞ」
「本人に確認したのか?」
カイは一瞬言葉に詰まった。商人が笑う。
「なら、その辺りも後で話し合え」
「獣とどうやって話し合うんだ」
「そこは契約した人間が考えろ」
輸送隊は日が完全に落ちる前に集落を離れた。荷車には負傷者と避難民が乗り、歩ける者はその横を進む。護衛たちは周囲を警戒しながら隊列を整え、カイも自然と最後尾近くへ回った。そして、その少し後ろには灰銀色の獣がいる。今朝、同じ街道を歩き始めた時、カイは一人だった。契約している召喚獣もいなかった。それが一日の終わりには、正体も能力もほとんど分からない一匹の原界生命と仮契約を結び、しかもその獣が当たり前のように自分の後ろを歩いている。召喚獣を探していたわけではない。古代遺跡を探索する目的もなかった。英雄になろうなどとは、もちろん一度も考えていない。ただ護衛の仕事を受け、パンを盗んだ少年を見つけ、街道で襲撃者と戦い、助けを求められたから契約外の集落へ向かった。その先に古代遺跡があり、そこで腹を空かせた獣へ出会った。一つ一つは、その場で自分が選んだだけだった。それでも、選択を重ねた結果として、旅の形は確実に変わっていた。しばらく進んだところで、荷車に乗っていた少女がカイへ声をかけた。
「お兄さん!」
振り向くと、以前助けた少女が大きく手を振っている。
「ありがとう!」
その声をきっかけに、周囲の避難民たちからも感謝の言葉が上がった。カイは居心地が悪そうに顔をしかめる。その中で誰かが、冗談半分に言った。
「まるで英雄だな」
カイの表情がさらに険しくなる。
「その呼び方はやめろ」
若い護衛が笑う。
「何でだよ。集落の人を助けて、古代遺跡に入って、最後には召喚獣まで助けたんだろ?」
「仕事じゃない」
「だから余計に英雄っぽいんじゃないか」
「黙れ」
周囲に笑いが起こった。カイは本気で不機嫌だったが、反論しても逆効果だと判断したのか、それ以上は何も言わず前を向いた。自分は英雄ではない。世界を救いたいとも思わないし、誰かの期待を背負って生きるつもりもない。ただ、目の前に助けられそうな人間がいれば、自分の判断で助ける。死にかけている獣がいて、その獣にまだ生きる意思があるなら、危険だからという理由だけで見殺しにはしない。それだけのつもりだった。夕暮れから夜へ変わり始める街道を歩きながら、カイは背後から聞こえてくる足音に耳を傾けた。これまで一人で歩くことに慣れていたため、自分の歩調へ合わせるように続いてくる別の足音にはまだ違和感がある。しかし、不思議と煩わしいとは思わなかった。振り返れば、灰銀色の獣は少し疲れた様子を見せながらも、カイとの距離を保って歩いている。今朝まで一人だった旅に一匹分の足音が加わったという事実だけは、誰にも否定できなかった。カイはその変化を大げさに受け止めることもなく、ただ少しだけ歩調を緩めた。すると、後ろを歩いていた獣も自然に距離を縮める。そのまま一人と一匹は同じ街道を進み、夕闇の向こうに見え始めた宿場の灯りへ向かって歩いていった。こうして、誰かに命じられたわけでも、英雄として使命を与えられたわけでもないカイの旅には、自分自身の意思で彼のそばを選んだ最初の召喚獣が加わった。
その小さな変化こそが、この先いくつもの国と古代遺跡を巡る旅の、本当の始まりになっていくのだった。




