王都からの便り
宿場町へ着いた頃には、空はすっかり暗くなっていた。集落から連れてきた避難民は町の治療院と臨時宿泊所へ振り分けられ、重傷者から順番に治療を受けることになった。商人が運んでいた薬品の一部もそのまま治療院へ回され、荷車の周りでは家族を探す声や、無事を確かめて泣く声がしばらく続いていた。カイは一通り荷下ろしを手伝ったところで、自分の役目は終わったと判断した。契約外の救助へ勝手に出ていった以上、護衛報酬が減らされても文句は言えないと思っていたが、商人は最初に決めた額をそのまま差し出した。
「受け取れ」
「途中で仕事を放り出した」
「戻ってきただろ。それに、荷物も人間も無事だった」
「俺がいなくても守れた」
「なら、私が払うかどうかも私が決める」
カイ自身が少年へ言ったのと似たような理屈を返され、カイはしばらく商人を見た後、諦めて硬貨を受け取った。
「商人は面倒だな」
「傭兵ほどじゃない」
商人が笑って立ち去ると、若い護衛がその後ろから顔を出した。
「それで、そいつはどうするんです?」
彼が指した先には、灰銀色の獣がいた。ここまで街道を歩いてきた間も、獣はずっとカイから数歩離れた位置を守り、人が近づけば警戒しながらも襲うことはなかった。ところが宿の主人にとって、その程度の実績は何の保証にもならなかったらしい。
「駄目だ」
主人は入口で腕を組み、獣を見ながら首を振った。
「人間ならともかく、正体の分からない召喚獣を部屋へ入れるわけにはいかん。夜中に客を食われたらどうする」
「俺に聞くな」
「お前についてきたんだろ」
「勝手についてきてるだけだ」
「なら外へ置いてこい」
カイが振り返ると、獣もこちらを見ていた。
「聞いたか。お前は入れないらしい」
獣は動かない。
「森へ行ってもいいぞ」
それでも動かない。若い護衛が笑いを堪えながら言った。
「もう諦めた方がいいんじゃないですか」
「何をだ」
「飼うことを」
「飼わない」
結局、宿の主人と交渉した結果、裏手にある荷馬用の小屋を使うことになった。壊された物があればカイが弁償し、人間へ危害を加えた場合もカイが責任を負うという条件付きだった。
「俺のものじゃないんだが」
そう文句を言いながらも、カイは治療師を呼び、獣の傷を見せた。治療師は最初こそ怯えていたが、獣が暴れないと分かると慎重に身体を調べ、左前脚の傷や全身の裂傷へ治癒魔法を施した。獣は知らない人間に触れられるたびに耳を伏せたものの、カイが近くにいる間は牙を剥かなかった。
「相当弱ってますね。治癒はできますが、栄養を取らせないと駄目です」
治療師が言った。
「どのくらい食わせればいい」
「身体の大きさだけなら、大型犬の数倍くらいでしょうけど……召喚獣ですからね。私にも分かりません」
カイは財布の中身を思い出した。パンを盗んだ少年に三日分の護衛賃を使い、治療費を払い、宿代を払い、今度は正体不明の召喚獣の食費まで増えた。
「旅には金が要るな」
若い護衛が横で笑った。
「飼うって大変でしょう?」
「飼ってない」
「じゃあ、その肉代は誰が払うんです?」
カイは答えなかった。その夜、宿の食堂で買った肉を持って小屋へ戻ると、獣は寝床として敷かれた藁の上ではなく、入口のそばに伏せていた。逃げようと思えばいつでも逃げられる位置だったが、それでもいなくなってはいなかった。カイが肉を置くと、獣はすぐに飛びつかず、まずカイを見た。遺跡の中で魔力核を食べようとした時とは違う。
「食っていい」
言葉を聞いてから、ようやく獣が肉へ口をつけた。偶然かもしれなかったが、少なくともカイには、こちらの意思を確認してから食べたように見えた。
「変なところだけ覚えるのが早いな」
獣は肉を食べながら耳だけを動かした。カイは入口の壁へ背を預けた。飼うつもりも、従わせるつもりもなかった。それでも食事を用意し、傷を治療し、眠る場所まで確保している時点で、自分の言い分に説得力がなくなりつつあることだけは認めざるを得なかった。
翌朝、問題は別のところから出てきた。治療師が昨夜の処置記録を持ってきたものの、対象の名前を書く欄が空白のままだった。
「名前は?」
「ない」
「種類は?」
「獣系だとは思う」
「所有者は?」
「いない」
治療師が困った顔でカイを見る。
「では、契約者は?」
カイは少し黙った。古代遺跡を出た時に生じた微かなつながりは、一般的な召喚契約と同じものなのか分からない。それでも意識を向ければ、すぐそばに獣がいることだけは感覚として分かった。
「仮契約みたいなものはある。ただ、俺が正式に召喚したわけじゃない」
「余計に記録へ書きにくくなりましたね」
治療師がため息をつくと、近くで聞いていた若い護衛が灰銀色の獣へ顔を向けた。
「名前くらいつけたらどうです?」
「俺が決めることじゃない」
「でも呼ぶ時に困るでしょう」
それは確かだった。街道で立ち止まらせる時も、食事を与える時も、毎回「おい」や「お前」で済ませるには限界がある。若い護衛はいくつか思いついた名前を口にしたが、獣はほとんど反応しなかった。年嵩の護衛まで加わり、毛色や金色の瞳にちなんだ名前を挙げ始めると、カイは面倒そうに壁へ寄りかかった。
「お前たちは暇なのか」
「昨日死にかけたんだ。今日は暇なくらいでちょうどいい」
年嵩の護衛が答えた。いくつ目かの候補が出た時だった。
「シアは?」
若い護衛が何気なく口にすると、それまで横を向いていた獣の耳が動き、顔がこちらへ向いた。全員が黙る。若い護衛がもう一度言った。
「シア」
今度は獣が一歩近づいた。
「決まりですね」
「一回反応しただけだ」
カイは別の名前を二つほど呼んでみたが、獣は反応しなかった。最後にもう一度「シア」と呼ぶと、金色の瞳がまっすぐこちらを向いた。カイはしばらく獣を見た後、諦めたように言った。
「嫌なら無視しろ。とりあえず呼ぶ時はシアにする」
灰銀色の獣は逃げることも、嫌がることもなかった。治療師が記録へ文字を書き込む。
「シア。獣系召喚生命。契約者はカイ・レイヴァン、と」
「仮契約だ」
「そこまで細かく書く欄はありません」
カイは眉を寄せたが、シアは自分の名前が決まったことなど理解しているのかいないのか、治療師の持っている食料袋の方を見ていた。
「そっちはお前のじゃない」
カイが言うと、シアは袋へ向かおうとしていた前脚を止めた。若い護衛が笑う。
「もう普通に言うこと聞いてるじゃないですか」
「食べ物に関してだけだ」
「十分ですよ」
カイは反論しようとしたが、その前に腹の音が聞こえた。自分ではなく、シアの方だった。財布の中身を確認すると、昨日より明らかに軽くなっている。
「仕事を探す」
「昨日あれだけ働いたのに?」
「昨日働いたから金が減った」
若い護衛には意味が分からなかったらしいが、カイは説明せず立ち上がった。助けるだけなら一度で済む。しかし、生きている相手と一緒に旅をするのであれば、今日も明日も飯が必要だった。
宿場町では、戦争が終わったことで街道の通行量が戻り始める一方、周辺に魔獣が増えていた。軍が前線へ集中していた間に山や森から降りてきた個体もいれば、戦場跡の魔力に引き寄せられたものもいるらしく、町では小規模な討伐仕事がいくつも出ていた。カイが選んだのは、北側の林道で荷馬を襲っている小型魔獣の討伐だった。報酬は大した額ではなかったが、宿代と食費を数日分賄うには十分だった。
「お前は宿に残ってもいい」
町を出る前、カイがシアへ言った。シアは立ち上がった。
「そうか」
それ以上止める理由もなく、二人で林道へ向かった。魔獣は二頭だった。四足で地面を低く走り、正面から飛びかかる力は強いが、軍人だったカイから見れば対処の難しい相手ではない。一頭目の突進を横へ流し、剣で前脚を払って体勢を崩したところへ銃弾を撃ち込む。もう一頭が死角から飛び込んできた瞬間、灰銀色の影が横からぶつかった。シアだった。魔獣と地面を転がりながらも、シアはすぐに上へ回り込み、首筋へ牙を立てる。相手が振り払おうとしたところへカイが近づき、剣を一度振るって戦闘を終わらせた。
「勝手に飛び込むな」
シアが顔を上げる。
「俺が避けられないと思ったのか」
返事はない。
「まあいい。怪我は?」
シアは平然としていた。カイが討伐証明に必要な部位を確認していると、シアの視線が倒れた魔獣の胸元へ向いた。体内には薄く魔力を放つ核が残っている。その瞬間、遺跡での光景が頭へ戻った。
「シア」
一歩進みかけていた脚が止まる。カイは魔力核を取り出したが、シアの目の前へは置かなかった。
「これは食うな」
シアの身体が低くなる。金色の瞳が核へ固定され、首筋には薄い白銀色の紋様が浮かび始めていた。昨日まで普通の肉を食べていた時とは違い、明らかに身体そのものが魔力核を求めている。
「駄目だ」
シアは一歩踏み出した。カイも動かない。しばらく睨み合いが続いた後、シアは小さく喉を鳴らし、ようやく顔を逸らした。カイは魔力核を袋へしまった。
「分かってるなら助かる」
討伐した魔獣の一部を処理し、食べても問題のない肉だけを切り分けてシアへ渡す。シアはそれを食べたが、魔力核へ向けていたほどの執着は見せなかった。カイはその様子を黙って観察した。遺跡では古代機械の一部を食べた直後、シアの爪は硬質化し、明らかに強くなった。その後、さらに魔力核を求め飢餓が悪化した。今回も核を前にしただけで灰性の紋様が現れている。食べれば強くなる。しかし、強くなれば満たされるわけではない。むしろ身体が次の強さを求めて、さらに飢える。
「便利な能力じゃないな」
シアが肉を食べながらこちらを見る。
「強くなるたびに腹が減るなら、最後には何を食っても足りなくなるかもしれない」
言葉の意味まで理解しているかは分からなかったが、シアは食べるのを止めた。カイは少し考え、残っていた肉をもう一つ差し出す。
「これは食っていい」
シアはすぐには取らず、カイを見る。
「いいと言っただろ」
そこで初めて肉を受け取った。その小さなやり取りを見ながら、カイは少なくとも一つだけ決めた。シアを強くするために、何でも食わせるつもりはない。どこまでが安全なのか分からない以上、力を得ることより、今のシアがシアのままでいることを優先した方がいい。討伐を終えて宿場町へ戻ると、昨日助けた避難民たちはすでにそれぞれの次の生活へ動き始めていた。怪我の軽い者は壊れた集落へ戻る準備をし、住む場所を失った家族は親類のいる町へ向かう馬車を探し、商人は残った荷物の届け先について役所と話していた。助けたからといって、その人間の人生を最後まで背負うわけではない。救われた人間には、その後の生活がある。カイにできたのは、昨日その生活が途切れないように少し手を貸しただけだった。
「カイ!」
若い護衛が宿の前から呼んだ。
「今度は何だ」
「王都からです」
差し出された封筒には、アルセリア王国中央政府の正式な封印が押されていた。嫌な予感しかしなかった。カイが封を切ると、第一章の集落で発生した古代遺跡の異常起動、未登録の原界生命の出現、その生命とカイの間に成立したとみられる契約について、本人から直接事情を聴取する必要があると書かれていた。最後には、王都への出頭日時まで指定されている。若い護衛が横から聞いた。
「何て?」
「仕事だ」
「王都から?」
「俺にとっては仕事より面倒なものだ」
カイが紙を畳むと、足元でシアがこちらを見上げた。
「お前のせいでもあるぞ」
シアは意味が分からないというように首を傾げた。カイはため息をつき、もう一度封筒の王国印を見る。軍を辞めてから、できるだけ近づかないようにしていた場所だった。
「王都か」
昨日までは、次の仕事と宿代のことだけを考えていればよかった。一匹増えただけで、旅は思っていた以上に面倒な方向へ進み始めていた。




