契約外
「何をしている」
声をかけてきたのは商人だった。
すでに輸送隊では避難民を荷車へ乗せる作業が始まっている。歩ける者には歩いてもらい、負傷者や老人、幼い子供を優先して荷台へ乗せているため、出発までにはもう少し時間がかかりそうだった。
カイは商人を見る。
「確認してる」
「何をだ」
「契約」
その一言だけで、商人の表情が変わった。
「……まさかとは思うが」
「何だ」
「丘の向こうへ行くつもりじゃないだろうな」
カイは答えなかった。答えなかったこと自体が、ほとんど答えになっていた。商人は大きく息を吐いた。
「やめておけ」
「まだ何も言ってない」
「なら契約書をしまえ」
「確認してるだけだ」
「お前は本当に面倒な男だな」
「よく言われる」
いつもの返事だったが、商人は笑わなかった。
その代わり、少し離れたところにいる避難民たちへ目を向ける。母親に抱かれて泣いている子供、頭に包帯を巻かれた老人、荷車の横で震えている少女。カイもつられてそちらを見る。少女は先ほどから何度も、丘の向こうを見ていた。兄が残っていると言っていた子だ。
「助けたいと思っているのは、お前だけじゃない」
商人が言った。その言葉に、カイは少しだけ意外そうな顔をした。
「何だ、その顔は」
「いや」
「私が金しか見ていないと思っていたか?」
「違うのか」
「お前は本当に喧嘩を売るのが上手いな」
商人は呆れたように言った後、もう一度避難民を見る。
「できるなら、私だって全員助けたい。だが、こちらにはこちらで守る人間がいる。御者も、護衛も、今乗せている避難民もだ。先ほど襲われたばかりで、怪我人までいる。この状況で全員連れて事故現場へ行くのは救助ではない。ただ危険な人間を増やすだけだ」
カイは黙って聞いていた。正しい。どこからどう考えても、商人の判断の方が組織としては正しい。
感情だけで全員を救助へ向かわせ、その結果さらに死人が増えれば意味がない。
「だから戻る」
商人は続ける。
「宿場へ行き、そこから軍か警備隊へ知らせる。時間はかかるが、それが一番確実だ」
「分かってる」
「なら」
「分かってるから困ってる」
商人が黙る。カイは契約書へ視線を落とした。もし、ここで何も知らなければ。遠くで煙が見えただけなら。昨日のように、青白い光が見えただけなら関係ないと言えた。だが今は違う。
助けを求めてきた男の顔を見た。逃げてきた人々を見た。母親の血を腕につけた子供も見た。兄がまだ向こうにいると泣く少女も見た。
「……昔からそうなのか?」
商人が突然聞いた。
「何が」
「面倒事を見つけると、自分から首を突っ込むのは」
「自分から見つけてるわけじゃない」
「なら向こうから寄ってくるのか」
「最近そう思い始めた」
商人は少し笑った。
「元将校というのは皆そうなのか?」
「知らん」
「部下を置いていけなかった?」
その言葉に、カイの目がわずかに細くなる。
商人はそれ以上踏み込まなかった。
聞いてはいけない場所があると察したらしい。
カイはしばらく黙った後、契約書を畳み直した。
「勘違いするな」
「何を」
「俺は全員を救えると思ってるわけじゃない」
商人は答えず、先を促すようにカイを見る。
「向こうに何人残ってるかも分からない。何が起きてるかも分からない。古代遺跡が原因なら、俺が行ったところで何もできない可能性だってある」
「なら行くな」
「それでも」
そこでカイは言葉を切った。
自分でも、次の言葉を口にするのが少し嫌だった。
何か立派なことを言おうとしているようで。
英雄の台詞みたいで。
「まだ生きてる奴がいるなら、何人かは助けられるかもしれない」
商人は黙った。
「全員は無理でも」
カイは続ける。
「一人も助けない理由にはならない」
商人は何も言わなかった。やがて、深いため息をつく。
「お前は傭兵に向いていないな」
「俺も最近そう思う」
「いや、前から気づけ」
「金は必要なんだ」
「なら稼げ」
「今から減る」
「……何?」
カイは契約書を商人へ差し出した。商人は受け取らない。
「何のつもりだ」
「契約を切る」
「待て」
「ここから先、俺は護衛を続けられない」
「一時的に離れるという話じゃないのか?」
「何時間かかるか分からない。戻ってこられる保証もない」
その言い方に、周囲にいた何人かが振り向いた。若い護衛も近くで話を聞いていたらしく、驚いた顔をしている。
「だから契約違反だ」
カイは紙を軽く振る。
「報酬はいらない」
商人の顔が露骨に歪んだ。
「馬鹿か、お前は」
「今日はそれもよく言われる」
「今日じゃない。多分ずっと言われているだろう」
「否定はしない」
「そういう話をしているんじゃない!」
商人の声が大きくなる。避難民たちがこちらを見る。それに気づいた商人は少し声を落とした。
「先ほど、お前がいなければ襲撃で死人が出ていたかもしれない。これから避難民まで連れて街道を戻るんだぞ。それで護衛を辞めると言うのか」
カイは少し黙った。痛いところだった。
「元兵士のあいつがいる」
カイは少し離れた場所を指した。昨日から何度も話している、経験のある護衛の男がそこにいた。
突然指を差され、男が嫌そうな顔をする。
「俺か?」
「お前だ」
「勝手に話に入れるな」
「さっきの襲撃では俺より先に敵を数えてた」
「たまたまだ」
「ここの護衛の中じゃ一番使える」
「褒め方が腹立つな」
カイは商人へ視線を戻す。
「街道を戻るだけなら、あいつで十分だ。襲撃者も散った。石橋を使えば守りやすい。避難民を乗せて、無理に急がず戻れ」
商人はまだ納得していない。
「それでも、お前がいた方が安全だ」
「ああ」
「なら」
「でも、向こうには誰もいない」
そこで。商人は言葉を失った。
「カイ」
若い護衛が近づいてくる。
「俺も行く」
即答だった。カイも即答した。
「駄目だ」
「何でだよ」
「お前が来る理由がない」
「あんたもないだろ!」
「俺は契約を切った」
「なら俺も―」
「お前は切るな」
若者の言葉を遮る。
「何だよ、それ」
「ここにいろ」
「だから何で!」
カイは少し考えた。理由はいくつもあった。
「さっき俺がいなければ死んでた」
若者が黙る。
「…あれは」
「事実だ」
「でも」
「次は自分で避けろって言っただろ」
「言った」
「なら、ここでやれ」
カイは避難民を見る。
「戦える奴が一人でも多い方がいい」
若者は悔しそうに口を閉じた。
「向こうで子供を一人助けるために、こっちの子供を危険にする意味はない」
しばらくして若者は小さく頷いた。
「…分かった」
「素直で助かる」
「でも」
若者が顔を上げる。
「死ぬなよ」
カイは少し眉をひそめた。
「縁起でもないこと言うな」
「今から古代遺跡の事故現場に一人で行こうとしてる奴が言う?」
「確かに」
「そこ納得するなよ」
若者が苦笑する。
元兵士の護衛も近づいてきた。
「本当に一人で行くのか」
「ああ」
「瓦礫撤去に剣と銃はいらんぞ」
「分かってる」
「古代遺跡なら魔力異常もある」
「聞いた」
「死ぬかもしれない」
「それも聞いた」
男はしばらくカイを見る。
「やっぱり馬鹿だな」
「今日は人気だな、その言葉」
「だが」
男は続ける。
「ここは任せろ」
カイは一瞬だけ黙った後、小さく頷いた。
「頼む」
「お前が人に頼むの、初めて聞いた気がする」
「気のせいだ」
「そういうことにしておく」
出発の準備はすぐに終わった。商人が、まだ納得していない顔で近づいてきた。
「契約書」
カイが差し出したが、商人は受け取らなかった。
「何だ」
「持っていけ」
「契約は切る」
「分かっている」
「なら」
「戻ってきたら続きを考える」
カイは商人を見る。
「戻らなかったら?」
「報酬を払わずに済む」
「商売人だな」
「お前に言われたくない」
二人は少しだけ笑った。商人はすぐ真顔に戻る。
「ただし、これは私が救助を依頼したという意味ではない」
「ああ」
「勝手に行け」
「そのつもりだ」
「死んでも追加報酬は出さん」
「死んだら使えないだろ」
「それもそうだ」
カイは契約書を外套へ戻した。形式的には護衛契約から外れる。少なくとも丘の向こうへ行っている間は。
「案内できるか?」
最初に助けを求めてきた男へ聞く。
「行ける」
「お前は残れ」
「でも道が」
「地図」
「え?」
「描けるだろ」
男は少し戸惑いながら地面へしゃがんだ。枝を使い、簡単な道順を描く。
「ここ」
男が印をつける。
「集落へ入る前に古い石柱が二本ある。その先を右。遺跡は東側の崖の下だ」
「分かった」
「本当に一人で?」
「今さらそれ聞くのか」
男は唇を噛んだ。そして深く頭を下げた。
「頼む」
カイは少しだけ嫌な顔をした。こういうのは苦手だった。背負わされる感じがする。
「勘違いするな」
男が顔を上げる。
「全員助けるなんて約束はしない」
「…」
「できることしかやらない」
男は一瞬黙った後、それでも頷いた。
「それでいい、一人でも多く連れて帰ってくれ」
カイは答えなかった。ただ小さく頷いた。
丘へ続く旧道は、街道から外れるとすぐに荒れ始めた。かつては荷車も通れたのだろうが、今では雑草と低木が道の半分を覆っている。戦争中に使われていたらしい標識も残っているものの、文字の多くは消え、矢印だけが虚しく別方向を指していた。カイは一人で歩く。
そして少しずつ強くなる妙な魔力の感触。
「……」
カイは歩きながら眉をひそめる。
これまでにも魔力汚染区域へ入ったことはある。
戦場には魔法が大量に使われた場所、魔導兵器が爆発した場所、古代遺物が暴走した場所、そういったものがいくらでもあった。だが、今回の感覚は少し違う。どこかから大量の魔力が何か一つの方向へ向かっている。
「集めてる?」
カイは足を止める。
周囲の空気の流れを読むために風魔法を使う。
やはり丘の向こう集落のさらに奥、そこへ向かっている。
「……ろくなことじゃなさそうだ」
再び歩く。しばらくして男が言っていた目印を越えた瞬間。景色が変わった。
地面が大きく陥没し、まるで何か巨大なものが下から地面を食い破ったようになっている。建物の一部は傾き、壁だけが残っている家もある。
そして崖の下にある古い構造物から光が漏れ出していた。
「…遺跡」
遠目でも分かる。現代の建築ではない岩盤へ埋め込まれた巨大な金属構造に見たことのない文様が走っている。その一部が青白く発光していた。そして光は規則的に脈打っている。まるで巨大な心臓のように。
「…」
カイの背中に嫌な汗が流れたその時。
「たす…けて…」
声。カイが振り向く。崩れた家の瓦礫の下に人間の手が見える。
「今行く!」
そしてこの時、遺跡のさらに奥では、カイが近づいたことに呼応するかのように長い眠りについていた古代機構の一部が、ゆっくりと再起動を始めていた。
誰もいない地下区画で消えていた光が一つまた一つと灯る。古代文明が残した原界接続機構、生命研究施設、そのさらに深部で現代の誰にも読めない表示が次々と浮かび上がり数千年もの間、閉じられていた扉が再び開こうとしていた。




