元将校
「子供もいる!」
泥と血にまみれた男がそう叫んだ瞬間、それまで街道を包んでいた空気が変わった。
つい先ほどまで、輸送隊の人間たちは今日の襲撃で壊れた荷車や予定より遅れた行程のことを気にしていたし、遠くで起こった異変についても、自分たちとは関係のない出来事として考えていた。しかし、丘陵地帯から逃げてきた男が目の前に現れ、そこで人が死にかけていると告げられたことで、遠くの青白い光はもう単なる奇妙な現象ではなくなった。
商人が最初に口を開いた。
「待て。落ち着け。何があったのか順番に話せ」
「だから、事故だ! 集落の近くにある古い遺跡が急に」
男はそこまで言うと、大きく咳き込んだ。膝が崩れ、そのまま街道へ倒れそうになった身体を、近くにいた護衛が慌てて支える。
カイはすぐに男の前へしゃがみ込んだ。
「座らせろ。無理に立たせるな」
「でも、まだ人が」
「分かってる。まずお前が喋れなくなったら場所すら分からない」
男は何か言い返そうとしたものの、息が続かず、そのまま地面へ座り込んだ。額から流れている血はすでに乾き始めており、右腕にもかなり大きな擦過傷がある。問題は傷そのものよりも、ここまでかなりの距離を走ってきたらしく、呼吸が明らかに乱れていることだった。
カイは水筒を取り出して渡した。
「少しずつ飲め。一気に飲むな」
男は言われるまま水を口へ含む。
その間にカイは周囲を見た。商人。御者。護衛。拘束している襲撃者。傷ついた馬。損傷した荷車。先ほどの戦闘で負傷した者が二人。ここへさらに救助者を連れてくれば、輸送隊そのものが動けなくなる可能性がある。だからといって何も考えずに全員で救助へ行くのはもっと馬鹿げている。
「カイ」
元兵士の護衛が隣へ来る。
「どう見る?」
「まだ何も分からない」
カイは男の呼吸が落ち着くのを待ちながら答えた。
「だから聞く」
しばらくして、男がようやく顔を上げた。
「話せるか?」
「ああ…」
「名前はいらない」
男が少し驚いた顔をする。近くにいた若い護衛が呆れたように、
「本当に名前に興味ないんだな」
と呟いた。カイは無視した。
「集落までどのくらいだ?」
男が丘陵の方向を指す。
「ここからなら…歩いて一時間もかからない。丘を越えて、古い街道を東へ行ったところだ」
「住民は?」
「六十…いや、避難民が来てるからもっといる。七十か八十くらい」
「事故が起きた時、全員いたのか?」
「分からない。畑に出てた奴もいる」
「遺跡は集落の中か?」
「外れだ。昔からある穴で、戦争中に軍が調べてた。でも途中で放棄されたって聞いてる」
カイの目がわずかに細くなる。
戦争中に軍が調べ、その後放棄された古代遺跡。それだけで嫌な話だった。
軍隊というものは、価値のない穴をわざわざ調査し続けたりしない。途中で放棄されたのであれば、何もなかった可能性もあるが、逆に何かあったから調査を止めた可能性もある。
「今日、何が起きた」
「分からない。最初に地面が光った」
男は震える声で続けた。
「昨日の夜くらいから、変な光が見えてたんだ。でも昔の設備が動いてるだけだろうって……みんな気にしてなかった。それが今日になって急に地面が揺れて、遺跡の方から青い光が上がったと思ったら、集落の端が崩れた」
カイは黙って聞く。
「崩れたっていうのは?」
「地面が落ちた。家が何軒も巻き込まれた。それから遺跡の入り口近くで、変な魔力が……近づくと身体がおかしくなる。気分が悪くなったり、立っていられなくなったり」
「魔力汚染か?」
元兵士の護衛が聞いた。
男は首を振った。
「分からない。俺たちにはそんなの判断できない」
専門家でもない一般人に、魔力異常の種類を聞いたところで正確な答えが返ってくるはずもない。
カイは質問を変えた。
「火は?」
「出てない」
「煙」
「少し」
「水場は生きてるか?」
「井戸はある。でも崩れた場所の近くだ」
「負傷者は何人」
「分からない!」
男の声が大きくなる。
「だから急いでくれ! 俺が出た時もまだ瓦礫の下から声がしてた。子供も、老人もいる。遺跡の近くにいた連中は戻ってこないし、このままじゃ」
「分かった」
カイが遮った。男が息を呑む。
「情報がないことは分かった。そこを怒鳴っても人数は増えない」
「でも!」
「助けたくないとは言ってない」
その言葉を口にした直後、カイは少し嫌な顔をした。若い護衛がそれを見ている。
「今、助けるって言ったよな?」
「言ってない」
「言っただろ」
「助けたくないとは言ってないと言っただけだ」
「同じじゃない?」
「違う」
「相変わらず面倒くさいな、あんた」
「よく言われる」
いつものやり取りだったが、今は誰も笑わなかった。商人が腕を組む。
「待ってくれ」
その声音で、カイは何を言われるのか大体分かった。
「我々の目的地は北だ。そいつの集落は東なんだろう?」
男が立ち上がろうとする。
「頼む! 金なら」
「そういう話ではない」
商人は男を見ながら、珍しく感情的にならずに言った。
「こちらも先ほど襲撃を受けたばかりだ。負傷者がいる。荷車も壊れている。襲撃者がまだ周辺に残っている可能性もある。それで七十人だか八十人だかの集落へ救助に行けば、今度はこちらが動けなくなる」
誰かが反論するかと思ったが、誰も何も言わなかった。正論だったからだ。カイも否定しなかった。
むしろ、判断だけなら商人の方が正しい。
この輸送隊には救助用の装備があるわけではない。医師もいない。魔力災害への専門知識を持つ者もいないし、古代遺跡の調査員など当然いない。さらに、先ほど戦闘を終えたばかりだ。襲撃者の残党が戻ってくる可能性もある。そんな状態で全員が進路を変えれば、二次被害が起きる。
「だから」
商人は続ける。
「次の宿場か検問所まで行って、王国軍か警備隊へ知らせる。それが一番いい」
男の顔が絶望へ変わる。
「間に合わない…」
「我々が行って何ができる?」
「でも!」
「瓦礫の撤去なら軍の方が装備を持っている。魔力異常があるなら、なおさら専門家を呼ぶべきだ」
男は言葉を失った。カイは商人を見る。昨日までなら、単に自分の荷物しか考えていない人間だと思っていた。だが今の判断は間違っていない。自分の責任範囲を理解している。無責任に「全員助けよう」と言って、輸送隊まで危険に晒すよりはずっとまともだった。
問題は時間だった。
「次の検問所までどれくらいだ」
カイが聞く。御者が答える。
「順調でも三時間くらいだ。今の荷車の状態なら、もう少しかかる」
「そこから救助隊が出るまで?」
「知らん」
「集落まで来るなら?」
誰も答えなかった。単純に考えても早くて半日。悪ければ翌日。
瓦礫の下にいる人間へ使える時間としては、長すぎる。
「…」
カイは丘を見る。商人もカイの考えていることを察したらしい。
「言っておくが、私は行かんぞ」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
「今日はよく言われるな」
「お前は分かりやすい」
不本意だった。もっと無表情な人間だと思っていた。
カイは地面へ視線を落とし、少し考えた後、輸送隊全体を見渡した。
「一度、ここから移動する」
カイが言った。商人が眉をひそめる。
「何?」
「街道の真ん中で止まってる方が危険だ。さっき襲われた場所から大して離れてない」
元兵士の護衛が頷いた。
「同感だ。北へ少し行けば開けた場所があったはずだ」
「いや」
カイは首を振った。
「戻る」
「戻る?」
若い護衛が聞き返す。
「あの石橋まで」
「何で?」
「川を背にできる。渡河できる場所も少ない。襲撃者が戻ってきても方向を絞れる」
元兵士の男が少し考え、
「橋の手前なら荷車も円形に置けるな」
と続けた。
「馬に水も飲ませられる」
「そういうことだ」
カイは商人を見る。
「壊れた荷車を中央。動ける荷車を外側に置く。負傷者も中央へ。拘束してる連中は一か所にまとめる」
商人が目を細める。
「お前が決めるのか?」
カイは一瞬黙った。
「嫌なら別の案を出せ」
「…」
「俺は従う」
商人は何も言わない。周囲の護衛たちもカイを見ている。先ほどの襲撃で、誰が最も状況を把握していたか。皆、分かっている。
数秒後、商人がため息をついた。
「分かった。お前の案でいく」
「決まりだ」
カイはすぐに動いた。
「動ける奴は荷車を回せ。負傷者を先に乗せろ。馬を無理に走らせるな。後方二人、左右一人ずつ警戒。林側を特に見ろ」
護衛たちが動き始める。
「おい、お前」
カイは若い護衛を指す。
「俺?」
「他に誰がいる」
「何すればいい?」
「あの男と一緒に行け」
「どこへ?」
「さっきの橋」
「何で?」
「先に見てこい。人がいないか、襲撃の痕跡がないか確認して戻れ」
若者の表情が引き締まる。
「分かった」
「戦うなよ」
「え?」
「敵がいたら戻れ。勝つのが仕事じゃない」
若者は小さく笑った。
「ああ。目的を達成するのと勝つのは違う、だろ?」
「覚えてるじゃないか」
「俺だって成長する」
「二日で?」
「そこは褒めろよ」
若者は元兵士の護衛とともに先行した。
その背中を見送りながら、カイは輸送隊の配置を変えていく。自分では、それほど特別なことをしているつもりはなかった。負傷者を守る。視界を確保する。敵が来る方向を限定する。水を確保する。動ける者と動けない者を分ける。情報を取りに行く人間を出す。ただそれだけ軍にいた頃なら。
「お前」
商人が近くで呟いた。
「何だ」
「やっぱり、ただの兵士じゃなかっただろ」
カイの手が一瞬止まる。
「何の話だ」
「とぼけるな。護衛たちがあれだけ素直に動くと思わなかった」
「さっき襲われたから、みんな慎重になってるだけだ」
「違うな」
商人はカイを見る。
「人に指示するのに慣れている」
カイは答えなかった。
「将校か?」
またそれか。今日だけで何度目だろう。
カイは嫌そうに顔をしかめた。
「元だ」
商人の眉が上がる。
「本当に?」
「聞いたのはあんただろ」
「いや、そうだが……」
「何だ」
「もっと偉そうなものだと思っていた」
「喧嘩売ってるのか」
「むしろ逆だ。お前、雇い主にも偉そうだからな」
「なら将校らしいだろ」
商人が一瞬黙り、吹き出した。カイは眉をひそめる。
「何だ」
「いや、お前でも冗談を言うんだと思ってな」
「冗談じゃない」
「それはそれで問題だろう」
しばらくして、商人の表情が真面目になる。
「軍へ戻ろうとは思わんのか?」
カイの目がわずかに細くなる。
「思わない」
即答だった。商人は少し驚いたらしい。
「そこまで即答するか」
「戻る理由がない」
「戦後だぞ。経験のある将校なら必要とされるだろう」
「必要とされることと、やりたいことは別だ」
「国に仕える気はない?」
「ない」
「王国が嫌いなのか?」
カイは少しだけ考えた。
「その質問、最近よくされるな」
「で?」
「嫌いだから離れたわけじゃない」
商人が答えを待っている。
カイは荷車の縄を締めながら続けた。
「好きだから残るわけでもない。それだけだ」
「分からんな」
「分からなくていい」
「それもよく言うな」
「説明するのが面倒だからな」
本当のところ、カイ自身にも、全部をきれいに説明できるわけではなかった。
国家が嫌い。軍が嫌い。そんな単純な話なら楽だった。軍にいた人間の中には、今でも尊敬している者もいる。命を預けてもいいと思った相手もいたし、逆に二度と顔を見たくない相手もいた。
昔は命令書を見ればよかった。全部、上から決められていた。そして命令に従った結果、誰かが死んでも、それは命令だったと言えた。
カイは、そういう言い訳を使える自分が嫌になった。
そこまで考えて、思考を止める。昔の話だ。今さら掘り返しても仕方がない。
「戻ったぞ!」
若い護衛の声がした。先行した二人が戻ってくる。
「どうだった」
カイが聞く。
「橋は大丈夫。人もいない。変な痕跡もない」
元兵士の護衛が補足する。
「北側も見たが、追ってくる奴はいなさそうだ」
「分かった。移動する」
輸送隊がゆっくりと来た道を戻り始めた。その時丘陵地帯の方角から、微かな音が聞こえた。
「待て」
カイが手を上げる。
今度は複数。
しばらくして、丘の向こうから人影が現れた。
集落から逃げてきた人間たちだった。
「おい…」
若い護衛が呟く。数は二十人近い。その後ろからさらに人が来る。カイは一瞬で状況を変えた。
「荷車を止めろ!」
御者が手綱を引く。
「動ける奴は前へ! 武器は下げろ、避難民を驚かせるな! 負傷者を重い順に分けろ!」
「重い順ってどうやって!」
「歩けない奴を先にしろ! 出血してる奴、その次に意識がおかしい奴だ!」
カイは走ってきた女を受け止めた。
「水…」
「後でいい。怪我は?」
「私は……大丈夫。でも、夫が……」
後ろで二人の男が担いでいる人物を指す。
「そこへ寝かせろ!」
次、子供。腕に血がついている。
「自分の血か?」
「違う……お母さんの……」
「母親は?」
子供が振り返る。女性が歩いてくる。肩から血を流している。意識はある。
「大丈夫だ。あそこへ行け」
カイは次々に人間を振り分ける。
気づけば周囲の全員がカイの指示で動いていた。商人まで。
「水を出せ」
「商品だぞ」
「後で払う」
「さっきパンでも同じこと言ってたな!」
「今回は経費で落とせ」
「誰の経費だ!」
文句を言いながらも、商人は荷車から水を出させた。
「布!」
「ある!」
「包帯が足りない。清潔なら何でもいい」
「商品を切るのか!?」
「嫌なら死人に請求しろ」
「……分かった! 切れ!」
御者が布を取り出す。若い護衛が負傷者のところへ走る。元兵士の男は周囲の警戒を続けている。
十分ほど経って混乱が少しずつ収まる。逃げてきたのは三十人を超えていた。
だが最初に助けを求めに来た男が言っていた人数とは合わない。
七十か八十。ここにいるのは半分以下のことにカイは気づいていた。しかし聞く前に一人の女がカイの外套を掴んだ。
「お願い」
三十代くらいだろうか。額に傷がある。
「まだ中にいるの」
カイは女を見る。
「何人だ」
「分からない。崩れた家の下にもいる。それと、遺跡の方へ助けに行った人たちが戻ってない」
「子供は?」
女の顔が歪む。
「いる」
カイの表情は変わらない。
「どこ」
「集落の東側。学校代わりに使ってた建物が崩れたの。何人か外に出したけど、まだ…」
そこまで言ったところで女は泣き始めた。カイは目を閉じたい気分になった。最悪だった。
どうしてこういう時に限って最も聞きたくない言葉が出てくるのか。
「カイ」
商人が呼ぶ。振り向く。商人の顔は硬い。
「これで十分だ」
何がとは聞かなかった。
「ここにいる人間を乗せて戻る。負傷者を宿場か検問所まで運び、救助隊を呼ぶ」
正しい。今でも正しい判断だ。むしろ避難民が三十人増えたことで、輸送隊の余力はさらに減っている。
「これ以上は無理だ」
商人は続ける。
「お前も分かってるはずだ」
カイは答えない。
「こちらにも守る人間がいる」
カイは商人を見る。この男は自分の荷物だけを気にしているわけではない。
「…ああ」
カイは短く答えた。商人が少し安心した顔をする。
「なら戻るぞ」
「ああ」
カイはそう答えた。そして丘陵地帯を見る。遠く集落があると思われる方向。
元兵士の護衛だけが見ていた。男は何も言わない。しばらくして。
「行くのか?」
小さく聞いた。カイは答えなかった。答える必要もなかったのかもしれない。男はカイの顔を見て、小さくため息をつく。
「置いていけない病気だ」
カイは男を睨む。
「そんな立派なものじゃない」
「じゃあ何だ」
カイは丘を見る。遠くから。また音がした。地鳴り。その直後、避難民の中で、一人の少女が泣き声を上げた。
「お兄ちゃんがまだいるの……」
母親らしい女が少女を抱きしめる。
「大丈夫。兵隊さんが来てくれるから」
「いつ?」
女は答えられない。
「いつ来るの?」
少女がもう一度聞く。誰も答えられなかった。三時間先の検問所。そこから連絡。部隊編成。移動。早くて半日。遅ければ明日。瓦礫の下にいる人間へ。明日まで待てと言うのか。
カイは空を見上げた。
「……本当に」
小さく息を吐く。
「面倒なことばかりだな」
それから輸送隊へ視線を戻した。商人は出発準備を始めている。荷車へ負傷者が乗せられている。避難民も移動を始めている。ここにいる人間は、少なくともカイがいなくても、もう大丈夫だ。
逆に丘の向こうには、まだ誰も来ていない。自分が何をすべきか。契約書を見れば簡単だった。
丘の向こうの集落に行く必要はない。行かなくても誰にも責められない。
「…」
カイは外套の内側へ手を入れた。護衛契約の書面を一度だけ見る。
そして商人のところへ歩き始めた。
もう答えが決まっていることくらいは分かっていた。




