善意の帳簿
午後の物資監査は、カイに関係ないはずだった。
少なくとも、セヴェルはそう言っていた。
ところが昼食を終えたカイが共同倉庫の前を通ると、入口に職員が何人も集まり、ヴァレナまで帳簿を抱えて難しい顔をしていた。シアは少し離れた場所で子供たちと遊び、ミナは袋詰めされた穀物を運んでいる。
「何かあったのか」
カイが尋ねると、ヴァレナが帳簿を差し出した。
「在庫が合いません」
「昨日も足りないって話してただろ」
「昨日の保存食とは別です。薬品です」
帳簿上では、先週届いた解熱薬と感染症向けの薬剤が一定量残っているはずだった。しかし倉庫にある箱を数えると、記録よりかなり少ない。
「数え間違いは?」
「3回確認しました」
「配った記録が抜けてる?」
「それを調べています」
倉庫の奥では、民間慈善法人の現場責任者がセヴェルと話していた。この施設は教会直属ではなく、信徒や商人からの寄付で運営される法人が管理している。病院や無料食堂とは協力関係にあるが、会計は別らしい。
現場責任者は50代ほどの女性で、疲れた顔をしていた。
「横流しはしていません」
セヴェルは責める口調ではなかった。
「そう断定するためにも、移動先を確認する必要があります」
「記録が残っていないんです」
「なぜ?」
女性は口を閉じた。
周囲の職員が互いに顔を見合わせる。
カイはその空気で、単純な盗難ではない気がした。
セヴェルも同じように感じているのか、急かさない。
「倉庫鍵を持つのは何人ですか」
「私を含めて4人です」
「薬品を外へ持ち出す場合は?」
「通常は医師か管理者の承認が必要です」
「通常は」
セヴェルがその言葉だけを繰り返す。
女性の指がわずかに動いた。
カイは横目でセヴェルを見る。
またやっている。
答えそのものを聞くより、どの言葉で相手が反応するかを見ている。
ヴァレナが帳簿をめくる。
「不足が始まったのは6日前です。その日だけ、診療所の患者数に大きな増加はありません」
ミナが荷袋を置いて近づいた。
「6日前なら、東の難民居住区で熱病が出た日です」
現場責任者がミナを見る。
セヴェルは何も言わない。
ミナが続ける。
「実習の連絡で聞きました。最初は数世帯だけだったけど、翌日には臨時診療所ができたはずです」
カイが責任者へ視線を戻す。
「薬、そっちへ回したのか」
女性はしばらく黙った後、ため息をついた。
「はい」
倉庫の空気が変わる。
「なぜ記録を残さなかった?」
セヴェルが尋ねる。
「承認を待てなかったからです」
「詳しくお願いします」
「夜でした。向こうの臨時診療所から、子供と高齢者を中心に高熱が続いていると連絡が来ました。市の備蓄は翌朝まで開けられない。教会の薬庫も担当者が不在でした。ここには薬があった」
「だから持ち出した」
「はい」
「何箱?」
女性は数量を答えた。
ヴァレナがすぐ帳簿と照合する。
「不足分と一致します」
「記録は?」
「正式承認のない支出を書けば、担当職員まで処分されると思いました。私が決めました。だから、私だけが責任を負えばいいと思って」
セヴェルが聞く。
「薬を渡さなければ、どうなったと考えますか」
女性の声は少し強くなった。
「亡くなった人が出たと思います」
「証明できますか」
「できません」
「では、同じ状況が起きたら?」
女性は迷わなかった。
「また渡します」
カイは口元を少し上げた。
セヴェルがそれに気づいたようにこちらを見る。
「何です?」
「別に」
「評価していますね」
「人の顔を見るなって言っただろ」
「見える位置にいるので」
「便利な言い訳だな」
セヴェルは現場責任者へ向き直った。
「規則違反は規則違反です。記録を消したことも含め、監査報告には残します」
周囲の職員の表情が硬くなる。
女性は頷いた。
「分かっています」
「ただし、緊急救命の必要性があり、持ち出した薬剤が実際に臨時診療所へ渡ったことも確認します。処分判断はその後です」
女性が顔を上げる。
「見逃すわけでは?」
「ありません」
セヴェルは穏やかに答えた。
「しかし、規則を守った結果として人が死ぬなら、その規則が何を守るためにあるのかも確認する必要があります」
カイが言う。
「もっと融通の利かない奴だと思ってた」
「失礼ですね」
「監察司祭って聞けばそう思うだろ」
「規則をなくせば、善人だけが得をするとは限りません」
「だからって規則のために死なせるのも違う」
「ええ。だから面倒なのです」
その返事に、カイは少しだけ笑った。
嫌いな考え方ではなかった。
ヴァレナは不足分の行き先が分かったことで、今度は今後の在庫を計算し始めた。
「臨時診療所へ回した分を含めると、次回便まで薬が足りません」
現場責任者の顔がまた曇る。
ミナが言う。
「市の備蓄から補填できないか聞いてみます」
「昨日もそれやったな」
カイが言う。
「連絡網は使える時に使うものです」
「聖騎士より調達係の方が向いてないか?」
「実習の評価に書かないでください」
「俺に評価権ないぞ」
「なら安心しました」
ミナは笑って事務所へ向かった。
シアが子供たちを連れて戻ってきた。
「何してる?」
「薬が足りない」
カイが答える。
「買う?」
「簡単に買える量じゃない」
シアは少し考え、自分の小銭入れを出した。
「これ」
「足りない」
「全部でも?」
「全然」
シアが残念そうにしまう。
ヴァレナが言う。
「気持ちは評価します」
「昨日、肉買った」
「それはあなたが食べたでしょう」
「元気になった」
「薬ではありません」
子供たちが笑う。
緊張していた職員たちの表情も少し緩んだ。
その後、ミナの照会とセヴェルの権限で市の備蓄状況が確認され、不足分の一部を翌朝に回してもらえることになった。残りは近隣の病院から融通し、次回便が届いた後に返すことでまとまる。
問題がひとまず片づいた頃、カイは倉庫裏でセヴェルを見つけた。
男は報告書を書いていた。
「1つ聞いていいか」
「どうぞ」
「最初から、盗まれたんじゃないって思ってただろ」
セヴェルの筆が止まる。
「なぜそう思います?」
「鍵を持ってる奴の名前より先に、何で持ち出す必要があったか聞いてた」
「よく見ていますね」
「お前に言われたくない」
セヴェルは紙を閉じる。
「盗難の可能性は低いと思っていました」
「何で」
「不足していたのが換金しやすい高価な薬だけではなかったからです。安価ですが感染症対策に必要なものまで、同じ比率で減っていた」
「なら最初から言え」
「確証はありませんでした」
「それだけ?」
セヴェルがこちらを見る。
カイは待つ。
数秒後、セヴェルが小さく笑った。
「それと、私が答えを先に示せば、現場の方々が何を知っていて、誰が責任を引き受けるつもりなのか分からなくなる」
「やっぱり見てたんじゃないか」
「監察ですから」
「人を試すのが好きなのか?」
「いいえ」
返事は早かった。
「人命に関わる場面で試すつもりもありません。ただ、結論を急いで私の推測を正解にしてしまうのも危険です」
「もっともらしい」
「納得していません?」
「半分くらい」
「十分です」
カイは壁へ寄りかかる。
「責任者が嘘をつき続けたら?」
「臨時診療所の受領記録を確認して、こちらから事実を提示するつもりでした」
「そこまで調べてたのか」
「午前中に」
カイは眉を寄せた。
「じゃあ、ほとんど分かってたじゃないか」
「ほとんど、です」
「面倒な奴だな」
「昨日も言われました」
「明日も言うかもしれん」
セヴェルは笑った。
夕方、孤児院の庭ではシアとミナが子供たちにせがまれて鬼ごっこをしていた。ミナは明らかに手加減し、シアも人型のまま速度を抑えている。それでも2人が走ると子供たちは歓声を上げた。
ヴァレナは食料配給表を直しながら、その様子を時々見ている。
カイは少し離れた場所に座った。
施設の壁には、運営する民間慈善法人の小さな紋章が掲げられている。宗教的な意匠ではあるが、この国では似た印はいくらでもある。職員の大半も普通の善良な人間に見えた。
老人が隣の椅子へ座る。
「ここには世話になってるよ」
「長いのか」
「戦争で家を焼かれてからだから、もう2年になる。ここがなかったら最初の冬を越せなかった」
老人は無料食堂の方を見た。
「神様のおかげだと言う人もいる。寄付してくれた商人のおかげだと言う人もいる。儂は、パンを焼いてくれた人のおかげだと思ってる」
カイは少し笑った。
「それが最も腹に入るな」
「だろう?」
鐘が鳴り、夕方の祈りを知らせる。
庭にいた子供たちの何人かが立ち止まり、ミナも胸元へ手を当てた。シアは真似をせず、隣で静かに待っている。
祈りが終わると、すぐまた遊びが始まった。
カイはその光景を眺めながら、組織の規則や宗教の教えがどうであれ、ここで誰かが救われている事実まで疑う必要はないと思った。
同時に、セヴェルのような男が善意だけで人を見ているわけでもないことも分かり始めていた。
人を助けることと、人を測ることは両立するらしい。
それが少し気味悪く、同時に少し頼もしくもあった。




