崩れる診療棟
翌朝、カイたちが慈善地区へ戻ると、シアは約束していた昼食の内容を最初に確認した。
「肉ある?」
入口で受付をしていた修道女が笑う。
「煮込みならありますよ」
「手伝う」
「お前の奉仕精神は胃袋と直結してるな」
カイが言うと、シアは気にせず古い診療棟へ向かった。
整理対象となっている建物は、慈善施設の中でも古い区画にあった。戦争中に砲撃を受けた後、外壁と屋根だけを応急修理し、現在は軽症患者の休憩室と物資置き場として使われている。新しい診療棟が完成すれば取り壊す予定だが、それまでは使える場所を使うしかないらしい。
ミナはすでに来ていた。
「本当に来たんですね」
「飯が出るって言っただろ」
カイが答える。
「あなたまで食事目当て?」
「俺はこいつの監督」
シアが言う。
「カイも食べる」
「当たり前だ」
ヴァレナは会話に加わらず、建物の外壁を見上げていた。
「補修跡が多いですね」
ミナが頷く。
「戦争中に3回くらい直してるそうです。本当は使わない方がいいんですけど、新しい棟がまだ満床で」
「構造検査は?」
「定期的にはやっています。危険区域は立入禁止です」
ヴァレナは納得しきれない顔をしたが、管理責任者へ確認すると、前週の検査では使用可能と判定されていた。
作業は単純だった。倉庫として使っている部屋から古い寝具と備品を運び出し、まだ使えるものと廃棄するものを分ける。カイは大きな棚を解体し、ヴァレナは金属部品を外し、シアとミナは箱を運んだ。
昼前までは何も起きなかった。
シアが急に足を止めたのは、2階から空箱を抱えて下りてきた時だった。
「変」
カイは手にしていた工具を置く。
「どこだ」
以前ならシアは答える前に走ったかもしれない。しかし彼女はその場へしゃがみ、床へ掌を当てた。
「左奥。下。いっぱい割れてる」
ヴァレナがすぐ反応する。
「床下?」
「もっと下も」
カイは周囲を見る。
「人は?」
シアの耳がわずかに動く。
「上に7。こっちに4。奥にもいる」
ミナが顔色を変えた。
「2階の休憩室に子供が3人と患者がいるはず」
ヴァレナは壁に露出している金属補強材へ手を触れる。
「荷重が偏っています。左側の梁が落ち始めている」
「持つか?」
「短時間なら支えられます。ただし建物全体は無理です」
カイは管理責任者へ向き直った。
「全員出せ。歩けない患者からだ」
ミナも動こうとしたが、カイが止める。
「お前は入口で人数を数えろ。戻る奴を出すな」
「でも中に――」
「誰が出たか分からなくなったら救助が増える」
ミナはほんの短い間だけ迷い、頷いた。
「分かりました」
その直後、床の下から鈍い音が響いた。
建物全体がわずかに傾く。
誰かが悲鳴を上げた。
「始まった」
シアが言う。
「ヴァレナ」
「左側を保持します」
赤金色の魔力がヴァレナの掌から金属梁へ走った。歪み始めていた補強材が軋みながら位置を変え、壁と床の力を別の支柱へ逃がす。
「長くは持ちません」
「十分だ。シア、上の安全な道を見ろ」
「右階段、途中まで平気。左は駄目」
「俺が患者を出す。お前は足元を見て案内しろ」
シアが頷く。
今回は誰も相手の返事を待たずに勝手な方向へ走らなかった。
2階へ上がると、廊下の床がすでに斜めになっていた。軽症患者が2人、壁へつかまりながら立っている。奥の休憩室から子供の泣き声が聞こえた。
シアが先に床へ足を置き、振動を確かめる。
「そこ踏まない」
カイが避けると、直後に床板が沈んだ。
「助かる」
「こっち」
2人で患者を階段まで誘導し、下に待機している職員へ引き渡す。再び奥へ向かう途中、天井から石片が落ちてきた。カイは風を横へ流して軌道を変える。
休憩室には子供が3人と、歩けない老人が1人残っていた。
「子供を先に」
老人が言った。
「全員出す」
カイは短く答え、1人を背負う。
シアは子供2人の手を取り、残る1人へ「ついてきて」と声をかけた。
廊下へ出た瞬間、下からヴァレナの声が響く。
「西側の支柱が限界です。2分も持ちません」
「聞こえた!」
シアが階段方向を見る。
「右階段、もう駄目」
「さっきまで平気だっただろ」
「今、割れた」
下から大きな衝撃音がした。
カイは窓を見る。地上まではそれほど高くないが、老人を背負ったまま飛び降りるのは危険だった。
「西側の外壁は?」
シアが床へ手を当てる。
「まだ強い」
カイは窓枠を蹴り外した。
「ヴァレナ! 西側を支えろ!」
すぐ返事が来る。
「すでに移しています!」
命令するより先に、ヴァレナも同じ判断をしていた。
カイは少しだけ笑った。
「分かってるじゃないか」
風を窓の外へ集め、落下を弱める流れを作る。シアが最初に子供を抱えて飛び、地上で待つ職員へ渡した。次に残る2人を降ろし、最後にカイが老人を背負ったまま降りる。
地面へ着いた直後、2階の床が大きく沈んだ。
「人数!」
ミナが避難者を確認する。
「患者6、子供3、職員4……待って、1人足りない」
「誰だ」
「女の子。エナがいない」
近くの職員が青ざめる。
「さっき薬庫へ手伝いに行ったはずです」
ミナが建物を見る。
「1階奥?」
「そうです」
「待て」
カイが声をかけた時には、ミナは入口へ走っていた。
「ミナ!」
彼女は振り返らない。
崩落した廊下を越えるため、身体強化の魔力が脚へ集まる。聖騎士候補生として不自然なほどではないが、迷いのない動きだった。
カイが追おうとすると、ヴァレナが声を張る。
「今あなたまで入ると、こちらの支えを調整できません!」
「分かってる!」
ヴァレナは金属梁を支えながら、建物全体の歪みを少しずつ逃がしている。彼女を1人にするわけにもいかない。
シアが入口へ向かおうとした。
「待て」
カイが止める。
「ミナの位置は分かるか」
シアが地面へ手を当てる。
「走ってる。奥。もう1人いる」
「なら出口を見ろ。崩れる場所だけ教えろ」
シアは頷き、入口へ向かって叫んだ。
「ミナ! 右の壁、落ちる!」
中から「分かった!」と返事が聞こえる。
30秒ほど後、低い衝撃音とともに窓から土煙が吹き出した。
シアが言う。
「戻ってくる。2人」
やがてミナが小さな少女を抱えて入口から飛び出した。背後で梁が落ちる。ミナは片腕を上げ、簡単な防御障壁で破片だけを防ぎ、そのまま地面へ転がり込んだ。
少女に怪我はない。
ミナの額には浅い切り傷ができていた。
カイが近づく。
「避難しろって言われたよな」
ミナは息を整えながら頷く。
「はい」
「分かってて戻った?」
「はい」
「面倒な奴だな」
ミナが苦笑した。
「初対面から2日目の人に言われたくありません」
「俺は命令無視してない」
ヴァレナが後ろから言う。
「軍人時代は?」
カイは黙った。
シアが笑った。
負傷者の確認が終わり、建物の使用停止が決まる頃には午後になっていた。幸い重傷者は出なかった。古い診療棟は建物の片側が完全に沈み、もう使えそうにない。
職員たちが避難した患者を別棟へ移しているところへ、灰色を基調とした祭服姿の集団がやってきた。
集団の先頭を歩いていたのは、30歳後半に見える長身の男だった。黒に近い灰褐色の髪を短く整え、額へ落ちたわずかな前髪にも構わず、崩れた建物ではなく最初に担架の数へ目を向けている。細長い顔立ちは整っていたが華やかさはなく、くすんだ灰緑色の瞳と薄く上がった口元のせいか、初対面でも話しかけにくい印象はなかった。灰色を基調とした祭服にも高位聖職者らしい派手な装飾はなく、胸元に小さな監察司祭章があるだけだった。
ただし、その男は施設責任者の報告を聞きながら、周囲にいる人間の位置を一度ずつ確かめていた。視線を忙しく動かしているわけではないのに、誰が怪我をし、誰が働き、誰が何もしていないのかまで見ているようにカイには感じられた。声を張ることもなく、現場へ着くと崩れた建物ではなく、まず担架の数を見た。
「負傷者は何人ですか」
施設責任者が答える。
「軽傷が5人です。重傷者はいません」
「全員の所在確認は?」
「終わっています」
「なら先に治療を。建物は封鎖してください。原因確認は人が落ち着いてからで結構です」
指示は短く、実務的だった。
男はミナの額の傷にも気づく。
「ラゼル候補生」
ミナの背筋が伸びた。
「はい」
「あとで報告書を」
「……はい」
「嫌そうですね」
「気のせいです」
男はわずかに笑い、それからカイたちへ視線を移した。
カイ、シア、ヴァレナを順番に確認している。視線は長くない。それでもカイには、顔を見たというより、それぞれの位置関係までまとめて記憶されたような妙な感じがした。
施設責任者が紹介する。
「こちらは監察司祭のセヴェル・アーデン様です。今日は物資監査でこの地区へ来られていて」
カイは眉を上げた。
「事故が起きてから来たわけじゃないのか」
セヴェルは穏やかに答えた。
「残念ながら、事故を予知する力はありません。午前から隣の会計棟にいました」
「随分都合のいい偶然だな」
「私としては、もう少し都合の悪い場所にいたかったですね」
返し方も自然だった。
しかしセヴェルはその後、崩落箇所より先に避難経路を確認し、誰が最初に異常へ気づいたのか、誰がどこを支えたのかを施設責任者から聞いていた。質問は事故調査として当然の範囲に見える。
それでもカイは、シアの名前とヴァレナの名前を聞いた時だけ、セヴェルの目がほんの少し細くなったように感じた。
気のせいかもしれない。
そう思った時、セヴェルがこちらを見る。
「レイヴァンさん」
「何だ」
「明日、少しお話を伺っても?」
「事故のことなら今でもいい」
「皆さん疲れています。急ぎません」
穏やかな言葉だった。
断る理由もない。
それなのにカイは、頼まれたというより、次にどんな答えをするかをすでに見られているような居心地の悪さを覚えた。
セヴェルはそれ以上何も言わず、負傷者のいる建物へ向かった。
カイはその背中を見ながら思う。
善人に見える。少なくとも、今のところはそう判断できる。
ただ、何も考えずに善人をやっている男には見えなかった。




