神の国の門
聖典国ルミナリアとの国境が見えたのは、都市国家同盟を出てから3日目の昼前だった。街道の先には白い石で築かれた城門があり、その両脇には武装した兵士の詰所と、旅人が祈りを捧げるための小さな礼拝所が並んでいた。遠目には厳めしい国境施設に見えたが、近づいてみれば商人たちが荷車の順番を巡って口論し、屋台では焼いた豆と薄いパンが売られている。聖職者らしい服の男も値段交渉をしていたので、カイが想像していたほど浮世離れした場所ではなかった。
輸送隊が列の最後尾へ並ぶと、シアが街道脇へ顔を向けた。
「左、3。遠い。こっち来てない」
以前の街道護衛で荷車を危うくした出来事以降、彼女は何かを感じてもいきなり走り出さず、方角と数を先に伝えるようになっていた。言葉はまだ必要最低限だったが、カイには十分だった。
「ヴァレナ」
「見えています」
後方を歩いていたヴァレナが森の斜面へ視線を向ける。赤褐色の長髪をまとめた姿は、旅装に着替えてからさらに軍人めいて見えた。
「小型の草食獣です。こちらへ向かう気配はありません」
「なら放っておけ」
シアが少し不満そうに森を見る。
「食べられる」
「護衛中に狩りを始めるな」
「来てないから?」
「仕事だからだ」
「仕事、面倒」
ヴァレナが淡々と言う。
「報酬が出ます」
シアはそれだけで納得した。
カイは小さく息を吐いた。まだ完成には程遠いが、3人で情報を共有する形は少しずつできている。以前ならシアが森へ飛び込み、ヴァレナが止め、カイが怒鳴っていた。今は少なくとも、何かが起きる前に3人が同じものを見る時間がある。
やがて輸送隊の順番が来た。最初に商人と荷物の確認が行われ、医薬品、保存食、衣類、生活用品の数量が帳簿と照合された。宗教国家向けの救援物資が含まれているため検査は丁寧だったが、特別に厳しい印象はない。
次に護衛側の確認へ移った。
カイは傭兵証を出し、シアとヴァレナについても戦闘召喚契約を申告した。係官はシアの登録証を見た後、本人の顔を見比べる。
「獣系ですね」
「うん」
「戦闘業務以外での完全獣化は、城内の指定区域以外では控えてください」
「何で?」
係官は少し困った顔をしたが、真面目に答えた。
「馬が驚きます」
シアは納得した。
「分かった」
ヴァレナの登録では、係官が紙を1枚余計に確認した。
「竜系。完全竜化と高出力攻撃については、人口密集地域では事前申告が必要です。緊急時は例外ですが、その場合は事後報告をお願いします」
「飛行は?」
「市街地上空は許可制です。城外なら軍施設上空を除いて問題ありません」
「部分竜化は?」
「武器使用に準じます」
ヴァレナはさらに2つほど確認した後、ようやく書類を受け取った。
カイが横から言う。
「国境で制度を全部覚える気か」
「知らずに違反するよりいいでしょう」
「その辺は同意する」
最後にカイの傭兵証が端末へ通された。都市国家同盟で付けられた《古代遺跡特別接触者》の内部注記が表示されるのではないかと、ほんの少し身構えた。しかし係官は何も反応せず、所属と渡航目的を確認しただけで証を返した。
「護衛契約終了後の滞在予定はありますか」
「決めてない。仕事次第だ」
「了解しました。滞在が30日を超える場合は更新手続きが必要です」
それだけだった。
門を通過してから、ヴァレナが小声で尋ねる。
「例の登録は出なかったようですね」
「ああ。海洋国家と都市国家同盟の内輪情報らしい」
「安心した?」
「少しな。国を越えるたびに奥の部屋へ連れていかれたら旅にならん」
シアが聞く。
「ここではカイ、普通?」
「今のところは」
「私も普通」
「お前はさっき獣化するなって注意されたばかりだろ」
「普通の注意」
ヴァレナが笑った。
国境を越えてしばらく進むと、風景は目に見えて変わった。畑の端には小さな石祠があり、街道の分岐点には旅人向けの礼拝所が設けられている。昼を告げる鐘が遠くから聞こえると、道端で休んでいた老婆が胸元へ手を当て、短く祈った。その横では孫らしい子供が祈りを待ちきれずにパンをかじっている。
シアがその様子を見て言った。
「普通」
「何が」
「もっとずっと祈ると思った」
カイは笑う。
「神の国だって、腹は減るし税金も取られる」
ヴァレナが横から言った。
「あなたも似たような偏見を持っていたでしょう」
「多少はな」
「もっと面倒な国だと思っていた?」
「聖職者が道を歩くたび説教してくるくらいは覚悟してた」
「まだ入国して数時間です」
「嫌な予言をするな」
実際、最初の村へ入ってみれば、市場では普通に値切り交渉が行われ、酒場では昼間から酔った男が店主に追い出されていた。祈りの言葉は生活の中へ溶け込んでいたが、それ以外の部分まで信仰一色というわけではない。
輸送隊はその日の夕方、街道沿いの宿場へ入った。依頼人の商人が宿と馬房の手配をしている間、カイたちは荷車の見張りを続けた。荷物の一部は地方教会や病院、無料食堂へ届けられる予定で、翌日にはさらに大きな宗教都市へ入るという。
夕食前、宿場の広場で鐘が鳴った。何人かの住民が仕事の手を止め、短い祈りを捧げる。カイはその横を、水桶を抱えた少年が慌てて走り抜けるのを見た。祈りに参加しなくても誰も咎めない。
「思ってたより普通だな」
カイが呟くと、ヴァレナが聞き返した。
「残念?」
「安心した」
「宗教そのものが嫌いなのではない?」
カイは少し考える。
「祈るのは勝手だ。祈って安心できるなら悪いことでもない。ただ、祈ったから自分の仕事は終わりだって顔をする奴は嫌いだ」
「神へ責任を預けるのが嫌?」
「そんなところだ」
シアがパンを食べながら言う。
「神様、仕事する?」
「俺に聞くな」
「強い?」
「それも知らん」
「会ったことない?」
「ない」
「じゃあ分からない」
「その結論だけは正しい」
その日の宿場では、もう1つだけ宗教国家らしい出来事があった。食堂で夕食が運ばれる直前、店主が胸元へ手を当て、短い感謝の言葉を唱えたのである。客の半分ほどは同じように祈り、残りは黙って待っていた。カイたちの卓ではシアだけが料理へ手を伸ばしかけ、ヴァレナに手首を押さえられた。
「まだです」
「何で?」
「周りを見て」
シアは店内を見回し、数秒だけ待った。店主の祈りが終わると、すぐ肉へ手を伸ばす。
「短い」
「何が?」
「祈り」
カイが笑った。
「長かったら国を変えるって言ってたからな」
「これなら平気」
近くの老人が会話を聞いて笑い、「腹を空かせた子供を待たせるほど神も意地悪じゃないさ」と言った。シアは自分が子供扱いされたことには気づかず、「神様、分かってる」と真顔で頷いた。
食事の後、カイは宿の主人から翌日の道について聞いた。主人は地図を広げ、慈善地区へ向かう輸送隊なら東門から入る方が荷車を回しやすいと教えてくれた。話の途中で主人が何気なく「最近は戦争帰りの負傷者が多くて病院も大変らしい」と言ったため、カイは運んでいる医薬品の量が多い理由を初めて具体的に理解した。
「戦争は終わったんじゃないの?」
シアが聞く。
「終わっても怪我した奴が治るわけじゃない」
カイが答える。
「家がなくなった奴も、仕事をなくした奴も残る」
ヴァレナは卓上の輸送目録を見る。
「だから食料と衣類も多いのですね」
「たぶんな」
「宗教施設が全部配る?」
主人が答えた。
「全部じゃないよ。市の救済局も商人組合もやってる。ただ、教会系は建物と人手があるから、戦争の後は頼られることが多い」
カイはその説明を聞き、宗教国家だから慈善をしているというより、長い時間をかけて作られた組織が有事に機能しているのだと理解した。信仰を理由に働く者もいれば、仕事として働く者もいるのだろう。どちらにせよ、腹を空かせた人間へパンが届くなら、外から悪態をつく理由はなかった。
宿を出る前、シアは入口脇の寄付箱へ目を向けた。
「これ何?」
「困ってる人のために金を入れる箱だ」
「入れたら肉になる?」
「たぶん誰かの飯にはなる」
シアは自分の小銭入れを開き、しばらく中を見た後、銅貨を1枚だけ入れた。
カイが驚いて見る。
「珍しいな」
「昨日、兵士に肉もらった」
「それとこれがつながるのか?」
「分からない。でも飯、大事」
ヴァレナが少し笑った。
「十分でしょう」
カイは何も言わず、自分も銅貨を1枚入れた。信仰心からではない。ただ、目の前の箱が誰かの食事へ変わるなら、それでよかった。
翌朝、輸送隊は再び出発した。街道は緩やかな丘を越え、その先で広い盆地へ下っていく。昼過ぎになると、遠くに白い城壁を持つ大きな都市が見え始めた。中心部には尖塔をいくつも持つ大聖堂がそびえ、その背後の山腹には、さらに巨大な石造構造物が半ば岩へ埋まるように存在していた。
現代の聖堂とは明らかに形が違う。左右対称の巨大な壁面には装飾らしいものがほとんどなく、遠目にも不自然なほど滑らかな曲線と直線が組み合わされている。
カイは足を止めた。
「何だ、あれ」
輸送隊の商人が振り返る。
「ああ、あれですか。この辺りじゃ最も古い聖地ですよ。国ができる前からあったって話です」
「中に入れる?」
「一般人は外側の礼拝区画までですね。奥は聖職者と管理官だけです」
ヴァレナも山を見上げる。
「建築様式が違いますね」
「だろ」
シアはしばらく眺めていたが、特別な反応は示さなかった。
カイもそれ以上は聞かなかった。
今のところ、自分たちは荷物を運んできただけの傭兵だ。古い建物が見えたからといって近づく理由はない。
それでも、都市へ続く街道を進みながら、カイは山腹の巨大構造物を何度か振り返った。
見覚えがあるわけではない。
ただ、理由もなく嫌な予感がする時に限って、その予感は後から仕事より大きな面倒へ変わることが多かった。




