三人分の宿代
古代軍事遺跡を離れて半日ほど歩いた頃、山間の街道には夕方の冷たい風が吹き始めていた。海洋国家と都市国家同盟の境界地帯を抜けた先にある宿場町は、戦争中には補給拠点として使われていたらしく、石造りの倉庫と馬車宿が街道沿いに並び、古い監視塔には今も弾痕が残っている。停戦後は兵士の代わりに商人と旅人が行き交うようになったらしく、町へ入る門の前では荷車の列が検査を待っていた。
「飯」
門をくぐった直後、シアが言った。
「まず宿だ」
カイが答える。
「飯が先」
「宿が埋まってたら、その飯を食った後にもう一度歩くことになるぞ」
「食べたら歩ける」
「そういう問題じゃない」
少し後ろを歩いていたヴァレナが街並みを見回しながら口を開いた。
「宿泊場所を確保して荷物を置いてから食事を取る方が合理的です。荷物を持ったまま食堂へ入る必要もなくなります」
シアが振り返る。
「飯、冷める」
「まだ店も決めていないでしょう」
「匂いする」
「店があるなら、宿を取る数分で料理が消えることもありません」
シアは納得していない顔をしたが、二対一で押し切られると、今度は通り沿いの焼き魚屋を恨めしそうに振り返りながら歩いた。
カイはその様子を見て、三人旅になった実感を妙なところで覚えた。一人の頃は自分で決めればよかった。シアが加わってからも、食事の量と突発的な行動に目を配れば、旅程そのものはカイが判断すれば済んだ。しかしヴァレナには意見があり、その意見にはたいてい理由がある。しかも本人は命令されることを好まない代わりに、自分が納得した規則には驚くほど忠実だった。
通りの中ほどにある大きめの宿へ入り、カイが受付で二部屋空いているか尋ねると、白髪交じりの主人が三人を順番に見た。旅装姿の男、小柄な灰銀髪の少女、赤褐色の長髪を後頭部でまとめた長身の女。ヴァレナの首筋には薄い鱗が残っていたが、この辺りでは獣人や竜人系の旅人も珍しくないらしく、主人は特に気にした様子を見せなかった。
「一人部屋と二人部屋ならあるよ」
「それでいい」
カイが答えた直後、シアが袖を引いた。
「私、カイと寝る」
宿の主人がカイを見る。ヴァレナも見る。
「何だ」
「あなたは十五歳くらいに見える少女と同じ部屋に泊まるつもり?」
「今までそういうこともあった」
「それを受付で堂々と言うのはどうかと思います」
「野宿や安宿じゃ部屋なんて選べないんだよ」
シアがヴァレナへ言う。
「カイ、寝るだけ」
「知っています。だからこそ、部屋が二つあるなら分ければいいでしょう」
「何で?」
「社会的にです」
シアは少し考え、カイを見る。
「社会的って何?」
「俺に振るな」
主人がついに笑いをこぼした。カイは銅貨を机へ置き、自分が一人部屋、シアとヴァレナが二人部屋を使うことで話を終わらせた。
「嫌」
「決定だ」
「横暴」
ヴァレナが目を丸くする。
「その言葉は知っているのですね」
「覚えた」
「誰から?」
シアがカイを指した。
「誤解を招く覚え方をするな」
部屋へ荷物を置いた後、三人は一階の食堂へ下りた。シアは焼いた川魚、肉の煮込み、黒パンを頼み、最初の皿が届く前から二皿目を注文しようとした。ヴァレナは料理の価格表とカイの財布を交互に見ていたが、三皿目が卓上に並んだところで口を開いた。
「一つ質問があります」
「嫌な予感しかしない」
「現在の所持金はいくら?」
「旅を続けるには困らん程度」
「具体的には?」
「何で知りたがる」
ヴァレナはシアを見る。ちょうど肉の煮込みをパンで拭って食べているところだった。
「三人になりました。特に食費が想定より大きい」
シアが顔を上げる。
「私?」
「他に誰がいるの」
「カイも食べる」
「あなたの半分以下でしょう」
「ヴァレナも食べる」
「私は必要量だけです」
カイは食後に酒を頼むつもりだったが、財布を眺めるヴァレナの視線に負けて注文を諦めた。代わりに貨幣の種類、宿泊費、一般的な食事代、傭兵仕事の相場を簡単に教えると、ヴァレナは紙を借り、一度聞いただけの数字を整理し始めた。
「銅貨と銀貨の交換比率はこれ。宿代が二部屋でこれなら、一日の最低費用はこの程度。移動中の保存食を含めれば少し増える」
「覚えるの早いな」
「軍でも補給計算は必要でした」
「やっぱり軍人みたいだ」
「近いと言ったでしょう」
シアが紙を覗き込む。
「これ何?」
「食費」
「大きい」
「あなたの分です」
「強いから」
「戦闘力と食費は比例しません」
「する」
「しません」
「する」
カイはそのやり取りを聞きながら、ヴァレナがこの世界へ来てまだ一日しか経っていないことを思い出した。言葉は通じても、金の価値も宿の仕組みも知らない。それでも知らないものを恥じる様子はなく、必要だと思えばすぐ聞き、聞いたら自分の判断材料へ変える。その点はシアと正反対だった。
食後、三人は旅用品店へ向かった。ヴァレナは遺跡で現界した際に形成された簡素な戦装束のままで、人間社会を旅するには目立ちすぎる。シアが港で買ったものと同じ形態追従式の旅装を扱う店を見つけると、ヴァレナは服の色より先に素材を確認した。
「耐熱はどの程度?」
「部分変化した場合、肩甲部の収納反応は?」
「金属装具も登録できますか?」
店員が一つずつ答える横で、シアは大きなポケット付きの上着を持ってきた。
「これ」
「なぜ?」
「肉入る」
「入れません」
「便利」
「食品用ではないでしょう」
最終的にヴァレナは赤褐色と黒を基調にした動きやすい旅装を選び、部分竜化した際に邪魔にならないよう武器帯も別登録にした。シアが服を選んだ時はポケットと食べ物が基準だったのに、同じ商品でも選び方がまるで違う。
旅用品店を出る前、ヴァレナは会計の金額を自分の帳簿へ書き込み、カイが支払った額と釣り銭まで確認した。店員が「旦那さん、しっかりした奥さんだね」と笑うと、カイとヴァレナが同時に否定し、シアだけが意味を分かっていない顔をした。そのまま宿へ戻る途中、シアが「奥さんって何」と聞き、ヴァレナが説明しようとしたため、カイは「知らなくていい」と強引に話を終わらせた。
宿では共同浴場も使うことになった。シアは以前から人型で風呂へ入ることに慣れ始めていたが、ヴァレナは湯船を見ると「これは水浴びではなく、温水へ浸かるのですか」と真面目に確認した。シアが「気持ちいい」と先に入ろうとし、ヴァレナが「身体を洗ってからでしょう」と止める。少しして女湯の方から言い争う声が聞こえた。
風呂上がりには、ヴァレナが旅装の収納機構をもう一度確認した。人型から部分的に翼だけを出した場合に肩周りの布がどう収納されるか、腕だけ竜化した際に袖が破れないかを宿の裏庭で試し、問題がないと分かるとようやく納得した。シアも対抗するように獣耳と尾だけを出して見せたが、何を競っているのか本人以外には分からなかった。
カイはその様子を見ながら、二人が同じ「召喚生命」という括りに入れられていても、中身はまるで違うのだと改めて思った。シアは便利か、楽しいか、食べられるかで物事を覚える。ヴァレナは仕組み、責任、再現性を確認してから受け入れる。その違いは生活では笑って済ませられるが、戦闘で同じように出れば、笑って済むとは限らなかった。
宿へ戻る頃には夜になっていた。カイは一人部屋へ入り、久しぶりに誰にも邪魔されず眠れると思った。しかし壁の向こうから声が聞こえてくる。
「明日は日の出から三十分後に出ます」
ヴァレナだった。
「遅い」
シアが答える。
「朝食と荷物確認の時間を含めています」
「日の出で出る」
「朝食は?」
「歩きながら食べる」
「行儀が悪いでしょう」
「速い」
「速ければ何でもいいわけではありません」
「早く着く」
「旅は競走ではありません」
「遅いよりいい」
カイは枕へ顔を埋めた。一人部屋にした意味がほとんどなかった。
それでも、壁越しに聞こえる二人の声には敵意がなかった。シアはヴァレナを嫌っているのではなく、遅いと思っている。ヴァレナもシアを嫌っているのではなく、無計画だと思っている。互いの能力は遺跡で見ているから、強いこと自体は認めていた。
問題は、強い者同士が一緒にいるだけでは旅が楽にならないことだった。
眠る前、カイは壁越しの声が静かになったことを確認し、ようやく目を閉じた。二人部屋へ押し込んだ判断が正しかったかは分からない。ただ、少なくともヴァレナがシアを子供扱いせず、シアもヴァレナを新入り扱いしていないことだけは分かった。面倒ではあるが、悪い始まりではなかった。
カイは明日の予定を頭の中で組み直した。日の出から十五分後に出れば、二人とも完全には納得しないだろうが、少なくとも朝から喧嘩にはならない。
翌朝、本当にその時間に宿を出ることになった時、シアは「どっちつかず」と言い、ヴァレナは「妥協ですね」と言った。
カイは二人の間を歩きながら、三人旅で最初に必要なのは戦術ではなく、たぶんこういう面倒な中間地点を見つけることなのだろうと思った。




