荷物が息をしている
海を離れて七日目の朝、カイは街道脇の低い丘から後方を振り返り、すでに水平線すら見えなくなった方角へ目を細めた。
ネレイア海洋国家の沿岸部で起きた異常魔力反応は、結局カイたちが港を離れるまで収まらなかった。沖合の封鎖区域はさらに広がり、商船の航路変更が相次いだことで、内陸へ向かう荷車も普段より増えている。カイたちが護衛についた押収物護送隊も、その混乱の影響を受けて予定より数日遅れて港を出発していた。
十台の大型荷車が石を敷き詰めた旧軍用街道を連なって進み、その前後を海洋国家の兵士と民間護衛が囲んでいる。さらに今回は都市国家同盟との共同鑑定を前提とした輸送であるため、同盟から派遣された受領担当官と古代遺物を扱う技術者も同行していた。
カイに割り当てられた位置は最後尾寄りだった。
理由は簡単で、最後から二台目に厄介な荷物があるからだ。
「また見てるな」
カイが隣へ声をかけると、人の姿で歩いていたシアが前方から目を離さずに答えた。
「見てない」
「じゃあ何をしてる」
「聞いてる」
「足でか」
シアは頷いた。
港で買った薄底の靴が石畳を踏むたび、その下から伝わる振動を拾っているらしい。灰銀色の髪は風に揺れ、腰まで届かない短い外套の下には、同じ港で購入した形態追従式の旅装を身につけている。服を買った直後は何度も人型と獣型を行き来して遊んでいたが、今では変身のたびに衣服が収納されることにも慣れていた。
「何か変か?」
「いっぱいある」
「荷車が十台もあればそうだろ」
「違う」
シアが少し速度を落とした。
二人の前方を進んでいる十号車は、他の荷車と見た目からして違っていた。木製の幌ではなく、荷台そのものを覆うように黒い金属製の収容容器が固定され、側面には魔力遮断用の術式板と封印具が幾重にも取り付けられている。
密輸組織から押収された時の帳簿には、《戦略級召喚生命資産/竜系》と記載されていた。
海洋国家側はその呼称を正式なものとして扱わず、護送書類には《高危険度・古代召喚関連押収物》とだけ記している。それでも十号車だけ護衛が多いことを見れば、中身が普通でないことは誰にでも分かった。
「まだ鳴ってる」
シアが言った。
「昨日も聞いた」
「今日の方が強い」
「どんな音だ」
シアは言葉を探すように少し考え、それから自分の胸へ手を当てた。
「ドン、ドンってする。遅い。でも、ずっと同じ」
「車輪じゃないのか?」
「違う。馬でもない」
カイは黒い容器を見る。
出発前、シアはあれを指して「生きてる」と言った。
最初は本当に中へ何か巨大な生物が入れられているのだと思っていたが、今のところ吠え声も爪音も聞こえず、食事を与えている様子もない。容器を扱う兵士たちも、積荷という以上の反応を示さなかった。
シアが十号車へ寄ろうとする。
カイは外套の襟を掴んだ。
「行くな」
「聞くだけ」
「近づくなって契約だ」
「生きてる」
「だから何だ」
シアが不満そうに見る。
カイは手を離し、少しだけ声を落とした。
「閉じ込められてるから善人とは限らないし、危険だから悪人とも限らん。正体も分からないうちに檻を開けるのは、助けるんじゃなくて考えるのを放棄してるだけだ」
「でも苦しいかも」
「その可能性はある。だから調べる場所へ運んでる」
シアは納得しきれない様子だったが、十号車から距離を取った。
その日の昼、護送隊は街道脇の休憩地へ入った。
かつて軍の補給拠点として使われていた場所らしく、半分崩れた石造りの監視塔と、馬へ水を飲ませるための長い水槽が残っている。停戦からそれほど時間が経っていないため、壁には弾痕が残り、街道脇には撤去されていない簡易防壁もあった。
護送兵たちは馬を休ませ、御者たちは車輪や固定具を確認する。
シアは早々に食事の匂いを嗅ぎつけ、兵士が焼いていた干し肉の方へ歩いていった。
「見るだけだぞ」
カイが言った。
「もらう」
「勝手にもらう前提で話すな」
案の定、若い兵士から肉を一枚受け取り、シアは満足そうに戻ってきた。
「もらった」
「見れば分かる」
「いい人」
「肉一枚で人間性を決めるな」
兵士が遠くから笑った。
こうした関係ができたのは、護送隊へ加わってから数日が過ぎたおかげだった。最初はシアを警戒する者もいたが、彼女が登録済みの契約召喚生命だと知り、さらに夜営時の索敵や街道の異常確認で役に立つと分かると、扱いは少しずつ普通になった。
ただし十号車だけは誰も近づこうとしない。
都市国家同盟から同行している古代遺物技術者も、外側から術式を確認するだけで封印には触れなかった。
カイはその男へ声をかけた。
「一つ聞いていいか」
「答えられる範囲なら」
「本当にあの中へ竜が入ってるのか?」
技術者は困った顔をした。
「それを確認するための輸送でもあります」
「押収した連中は?」
「《封印された戦略級召喚生命》だと主張していました。ただ、連中が古代技術を正しく理解していた保証がありません」
「生体反応は?」
「封印を解除しなければ精密測定できません。外部からは、周期的な魔力変動だけ確認されています」
シアが口を挟む。
「生きてる」
技術者が少女を見る。
「どうしてそう思う?」
「ドンってする」
「振動?」
「うん」
技術者は十号車へ目を向けた。
「興味深いですね」
「面白がるな」
カイが言うと、男は苦笑した。
「失礼。ただ、もし本当に物理的な振動が出ているなら、都市側の施設で調べる価値があります」
「だから運んでるんだろ」
「ええ」
休憩を終えると、護送隊は再び街道へ出た。
午後になるにつれて道は緩やかな上り坂となり、海沿いの平野から内陸の山岳地帯へ景色が変わっていく。戦争中に使われた旧軍用街道だけあって道幅は十分だったが、周囲は次第に人家がなくなり、森が近づいてきた。
夕暮れ前に野営地へ入った。
かつて関所だった場所を利用した簡易宿営地で、高い石壁が三方を囲み、残る一方も木柵で塞がれている。
カイは夕食を済ませた後、剣と銃の手入れを行った。
シアは近くで獣型へ変わり、壁の上へ上がって周囲を見回っている。
旅装は変身直前に淡い光となって収納され、獣型の首元には細い魔導帯だけが残っていた。
一周したシアは人型へ戻り、服が復元されるのを確認すると、カイの隣へ座った。
「何もいない」
「助かる」
「肉は?」
「さっき食っただろ」
「見張りした」
「報酬制なのか」
「仕事だから」
カイは思わず笑った。
シアが少しずつ、人間たちの言う「仕事」という概念を覚えている。食べ物がもらえる行動全般を仕事と理解している節はあるが、それでも以前よりは進歩していた。
夜も更け、宿営地の火が一つずつ消えていった。
カイも外套を丸めて枕にし、壁際で横になった。
眠りに落ちてどれほど経ったのか分からない。
肩を強く揺すられて目を開けると、シアが屈み込んでいた。
「カイ」
「……何だ」
「起きてる」
「俺は今起きた」
「違う。あれ」
シアが十号車を指す。
夜の宿営地では荷車の影が黒く沈み、十号車の金属容器は月明かりをほとんど反射していない。
カイは身体を起こした。
「また振動か?」
「強い」
シアが地面へ掌を置いた。
金色の目が細くなる。
「こっちだけじゃない」
「何?」
「向こう」
彼女が山の方を指した。
カイには何も見えなかった。
「どのくらい遠い」
「分からない。でも同じ」
「同じって?」
シアは自分の掌を二度軽く地面へ打ちつけた。
「こっちがドンってすると、向こうもドンってする」
カイは十号車と山を交互に見た。
遠い山影は月の下で静かに並んでいる。
風も弱く、動物の鳴き声さえ聞こえない。
それでもシアだけは、地面を通して何かを感じ続けていた。
「呼んでる」
彼女が言った。
「誰を?」
シアは答えなかった。
代わりに黒い容器を見つめ、少しだけ眉を寄せた。
「分からない。でも、あれも向こう見てる」
カイはしばらく黙った。
港で海底から巨大な魔力を感じた時と同じだった。
シアの感覚は、理由が分からなくても無視しない方がいい。
カイは剣帯を手に取った。
「見張りを一人起こす。責任者にも言っておく」
「開ける?」
「開けない」
「けち」
「命に関わるところで気前の良さを求めるな」
シアは不満そうだったが、それ以上反論しなかった。
黒い容器の内部で、また一度だけ低い振動が起きた。
そして数秒遅れて、遠い山の奥から同じ周期の揺れが返ってきた。
まだ誰も知らなかったが、護送隊が運んでいたものは檻ではなかった。
正確には、檻だけではなかった。
それは遠い場所へつながる鍵であり、向こう側で生きている何かが、この世界へ触れるための細い糸でもあった。




