船の底が鳴っている
異変に最初に気づいたのは、夜明け前だった。カイは船室の寝台で浅い眠りに入っていたが、肩を強く揺すられて目を覚ました。目の前にシアがいる。
「どうした」
「変」
「何が?」
「船」
カイは身体を起こした。船は一定の周期で揺れている。外から聞こえる波音も、機関の低い駆動音も昨日と変わらないように思えた。
「警報は鳴ってないぞ」
「でも変」
シアは靴を履かず、裸足で床へ立っていた。
「どこだ」
「下。後ろ」
カイは剣帯を締め、上着を羽織った。
甲板へ出ると空はまだ暗く、当直の船員が数名動いているだけだった。シアは歩きながら何度も足を止め、床へ手を当てる。
「こっち」
二人は後部貨物区画へ下りた。当直の船員が怪訝そうな顔をする。
「どうした?」
「船底を確認したい」
「何かあったのか?」
「この子が異常振動を感じてる」
船員はシアを見る。
「機関じゃないのか?」
シアが首を振る。
「昨日と違う」
カイはその言葉を信じた。
「責任者を呼べ。何もなければ俺が笑われれば済む」
船員は迷った末、伝声管へ向かった。数分後、機関担当の主任と数人の船員が集まった。シアは後部隔壁近くでしゃがみ、床板へ掌を押し当てた。
「ここ」
主任が耳を澄ます。
「俺には聞こえん」
「音じゃない」
シアは説明する言葉を探しながら、自分の胸を指した。
「ずれる」
「何がずれる?」
「いつもの、ドン、ドン、ドンの間に、細いのがある」
主任はようやく真剣な顔になった。床下の点検口が開けられ、二人の船員が灯りを持って降りていく。しばらくして下から声が上がった。
「浸水してる!」
空気が一変した。主任が即座に指示を飛ばす。
「隔壁閉鎖! 排水班を起こせ! 船長へ報告!」
カイも下へ降りた。船底近くの整備通路では、壁面の継ぎ目から細い水が噴き出していた。量自体はまだ多くないが、近くの補強材がわずかに歪んでいる。
「何かに当たったな」
主任が歯を食いしばった。
「昨夜は衝撃なんてなかったぞ」
「漂流物か?」
「古い機雷の破片でも流れてりゃ、船腹をこするだけでこうなる」
潜水点検班が準備される。海棲人の船員二名が装備を付け、そのまま船側から海へ入った。十分ほどして戻ってきた一人が、濡れた髪を払いながら報告する。
「外板に裂け目。三十センチくらいです。周囲が押し込まれてる」
「応急封止できるか」
「できます。ただ、内側の梁にも歪みが出てる」
船長が到着し、状況を確認した。
「最寄りの寄港地まで?」
主任が計算する。
「このままなら持つでしょうが、荒れたら危ない。速度を落として圧を減らします」
船長は頷き、そこで初めてシアを見た。
「お嬢ちゃんが見つけたのか」
シアはカイを見る。
「そうだ」
カイが代わりに答えた。船長は床へ目を落とした。
「よく気づいたな。普通なら浸水警報が出るまで分からん」
シアは少し考えてから言った。
「昨日と違った」
「船乗りに必要なのは、案外そういう感覚だ」
修理が始まると、カイたちは邪魔にならないよう上へ戻った。甲板には少しずつ夜明けの光が差し始めていた。シアは裸足のまま手すりへ寄りかかる。カイは船室から持ってきた靴を差し出した。
「履け」
「今は裸足の方が分かる」
「もう原因は見つかった」
「ほかもあるかも」
カイは返事をせず、シアの顔を見た。列車で振動感知を得た時、彼女は敵を探し出すためにその能力を使った。今回は誰から命令されたわけでもなく、危険が起きていることさえ知らないうちに船の異変を拾った。
「シア」
「何?」
「役に立った」
シアは目を瞬いた。
「それだけ?」
「褒めてる」
「下手」
「うるさい」
シアは少し笑った。それから靴を受け取り、素直に履いた。
午前中いっぱいを使って応急修理が行われた。船は予定より大幅に速度を落とし、安全確認のため海軍監視区画へ寄ることになった。乗客には機関点検とだけ説明され、騒ぎは起きなかった。昼頃、船長からカイとシアへ追加の食事が届けられた。魚の切り身が通常の倍ほど入っている。シアは目を輝かせる。
「報酬?」
「船長からだと」
「もっと壊れないかな」
「物騒なこと言うな」
シアはすぐに魚を食べ始めた。カイは自分の分を口へ運びながら考える。能力は使い方次第だった。敵の動きを察知することもできる。建物の崩落を見つけることも、船底の亀裂を探すこともできる。強くなることだけが進化ではないのだとすれば、灰性そのものに対する見方も少し変わる。ただし、食事を終えたシアがさらにパンを三つ要求しているのを見る限り、能力を使った後の異常な食欲だけは変わっていなかった。
午後、船は予定になかった海軍管理海域へ入った。遠くに灰色の軍艦が二隻見え、その周囲を小型の高速艇が走っている。甲板に出ていた乗客たちが珍しそうに見ていたが、船員の表情は少し硬かった。
「多くないか」
カイが近くの船員へ聞く。
「最近は海賊対策で増えてますから」
答えは自然だったが、視線がわずかに逸れた。カイはそれ以上聞かなかった。夕方には軍艦の数が四隻へ増えた。その頃から、シアが時々海の方を見るようになった。
「どうした」
「分からない」
「何か聞こえる?」
「船じゃない」
シアは眉を寄せた。
「遠い」
カイには波しか見えない。それでも彼女の感覚を軽視する気はなかった。
太陽が沈み始めた頃、船内へ低い警報音が鳴った。直後、甲板上の魔導拡声器から船長の声が響く。『全乗客は船室へ戻ってください。本船は海軍の指示により航路を変更します』乗客がざわめき始める。カイは海を見た。水平線近くの一角だけ、空気がわずかに歪んでいた。雷雲もないのに、青白い光が海面の下から瞬いた。シアがカイの袖を掴む。
「でかい」
「何が?」
「魔力」
その声に怯えはなかったが、いつもの好奇心とも違っていた。獣として生きてきたシアの本能が、近づいてはいけないものを感じ取っている。同時に、遠くの軍艦から信号弾が上がった。それを合図にするように海軍艦艇が一斉に動き始め、民間船へ海域退去を命じる通信が飛び交った。列車の時とは違う。事故でも盗賊でもない。何かが起きていることを軍はすでに知っていて、その何かを民間人から遠ざけようとしていた。カイはシアの肩へ手を置いた。
「船室へ戻るぞ」
「見る」
「今は仕事で乗ってる。乗客を守る方が先だ」
シアは海を気にしながらも頷いた。二人が船内へ戻る背後で、夕暮れの海へ何隻もの軍艦が向きを変えていく。その中心に何があるのかは見えなかった。ただ、つい先ほど船底の小さな亀裂を見つけたシアには、沖合から伝わる巨大な魔力の揺らぎだけが、遠く離れていてもはっきり分かっていた。




