海の上の仕事
港湾仕事の掲示所は、酒場と役所と傭兵詰所を一つの建物へ押し込んだような場所だった。一階の広間には船員や護衛、荷役人夫が集まり、壁一面へ貼られた依頼票を眺めている。仕事内容は沿岸警備、荷物の積み下ろし、商船護衛、海獣駆除、船底清掃まで幅広く、内陸の傭兵組合とは金の動き方も危険の種類も違っていた。カイはシアを横へ置き、依頼票を順番に見ていった。
「これ」
シアが一枚を指す。
「大型海獣討伐か。却下」
「肉」
「報酬より船代の方が高い」
「食べられる」
「討伐対象を食う前提で仕事を選ぶな」
別の依頼を見る。外洋貨客船《アルデア号》、港湾都市から中央諸島方面まで三日間。警備補助二名。食事・船室付き。カイは紙を剥がした。
「これだな」
「魚出る?」
「船なら出るだろ」
「やる」
「雇う側が決める」
受付へ持っていくと、日に焼けた中年の係員がカイの傭兵証を確認した。元軍人という経歴には特に反応しなかったが、シアの登録欄を見たところで眉が上がる。
「契約召喚戦力?」
「そうだ」
「本人は?」
カイがシアを指す。係員は少女姿のシアと書類を交互に見た。
「この子?」
「この子だ」
「獣系って書いてあるぞ」
「昨日まではもっと分かりやすかった」
係員は何か聞きたそうだったが、正式な登録が通っている以上、余計な詮索をしなかった。
「能力を使うなら船長へ申告してもらう。乗客へ言いふらす必要はないが、船内事故が起きた時に正体不明の魔力反応が出ると面倒だからな」
「分かった」
「戦闘経験は?」
カイは自分についてだけ簡単に答えた。シアについては列車襲撃で人間相手の戦闘を経験したこと、索敵能力があること、ただし人型での行動はまだ慣れていないことを説明する。係員は最後の部分で顔をしかめた。
「船で練習されるのは困るぞ」
「俺も困る」
契約はその場で決まった。出港は翌朝だった。その夜は港近くの宿へ部屋を取った。人型になったことで、シアを宿へ入れる際の揉め事は驚くほど減った。受付の老婆は二人を見ると、親子には年齢が近すぎると思ったのか兄妹だと勝手に判断したらしく、何も聞かず二人部屋の鍵を渡した。部屋へ入ったシアは寝台を見て首を傾げた。
「今日、ここ?」
「そうだ。床で寝たいなら好きにしろ」
しばらく迷った末、シアは寝台へ座った。
「柔らかい」
「だから寝台っていう」
夜、カイが明日の装備を確認している間、シアは買った服を何度も獣型へ切り替えて試していた。三回目でカイが止めた。
「遊ぶな。魔力を使うだろ」
「少し」
「明日仕事だ」
シアは不満そうだったが、人型へ戻って毛布へ潜り込んだ。翌朝、《アルデア号》は朝霧の残る埠頭で出港準備をしていた。全長百メートルを超える中型貨客船で、帆も備えているが主動力は魔導推進機関らしい。船体後部には青白い魔力光を放つ推進環があり、甲板下から一定の低い唸りが伝わってくる。シアは乗り込んだ瞬間、足元を見た。
「鳴ってる」
「機関だ」
「ずっと?」
「たぶんな」
彼女は目を閉じ、甲板を靴越しに踏んだ。
「いっぱい鳴ってる」
新しく獲得した振動感知には、船は情報の塊に感じられるのだろう。推進機関、波、貨物の固定具、歩く船員、回る軸、開閉する扉まで、すべてが船体を通して足裏へ伝わってくる。
「全部追おうとするな」
カイが言った。
「何で?」
「頭がおかしくなるぞ」
「平気」
「今はな」
列車襲撃の後、能力を使いすぎたシアが激しい飢餓へ襲われたのを忘れたわけではない。灰性による適応が何を代償としているのか、まだ誰にも分かっていなかった。船長は五十代の海棲人で、耳の後ろに青い鰓があった。シアの登録書を読み、本人を見ても大きく驚かない。
「人型を取る召喚生命は初めてか?」
カイが聞くと、船長は肩をすくめた。
「珍しくはあるが、海じゃもっと変なのを見る。人間の顔で下半身が魚の連中もいるし、魚の顔で商会を三つ持ってる奴もいる」
「それは見た目の話か?」
「両方だ」
それ以上の説明はなかった。仕事は船内巡回と夜間警備が中心で、危険度は高くない。戦後は海賊や密輸船が増えているものの、この航路は海軍の監視範囲内だった。出港の汽笛が鳴る。シアは甲板の手すりへ張り付いた。埠頭がゆっくり離れ、人間が小さくなり、港湾塔や倉庫の向こうに市街地が広がる。
「動いてる」
「船だからな」
「地面も動いてる」
「船だからな」
「カイ、すごい」
「俺は何もしてない」
港を出ると波が高くなった。最初の一時間、シアは楽しそうだった。二時間後、顔色が変わった。三時間後には甲板の隅でしゃがみ込み、手すりを握っている。カイは少し離れた場所から見下ろした。
「どうした」
シアは返事をしない。
「船酔いか?」
睨まれた。
「違う」
「顔が緑だぞ」
「灰銀」
「髪の話じゃない」
しばらく耐えた後、シアは小さな声で聞いた。
「獣なら平気?」
「知らん」
「戻る」
「服の試験にはちょうどいいな」
睨み方が強くなった。
人目の少ない貨物甲板へ移動し、シアは獣型へ戻った。衣服が問題なく収納され、灰銀色の四足獣になると姿勢が安定したのか、先ほどより少し楽になったらしい。
「どうだ」
シアは低く唸った。
「まだ気持ち悪いか」
頷く。
「形の問題じゃなかったな」
前足で軽く叩かれた。その日の夕方には波も落ち着き、シアは再び人型へ戻った。船員たちの中には変身を見た者もいたが、正式に登録された契約戦力と説明されれば騒ぎにはならなかった。むしろ若い船員の一人は面白がり、
「狼になるのか」
と聞いてシアから「違う」と即答されていた。
「何が違うんだ?」
「私」
「そりゃそうだけど」
カイはそのやり取りを聞きながら、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。王国では危険物になり、商業共和国では商品になり、国際列車では契約戦力として扱われた。ここでは少なくとも船員たちにとって、シアは少し珍しい同僚でしかない。夕食では魚の煮込みが出た。船酔いで弱っていたはずのシアは、料理を前にした途端に回復し、三人分を平らげた。
「治ったのか?」
「治った」
「絶対嘘だろ」
「魚、薬」
「便利な身体だな」
食後、二人は甲板の夜間巡回へ出た。陸上の夜とは違い、海には遠くまで灯りがない。月明かりだけが波へ細い道を作り、その上を船が進んでいた。シアはしばらく手すり越しに水面を見ていたが、やがて足元へ視線を落とした。
「カイ」
「何だ」
「船、覚えた」
「覚えた?」
「普通の音」
カイは彼女の言葉の意味を考えた。一日中、船体から伝わる振動を聞いていたことで、機関、軸、波、貨物、船員の足音といった正常な状態を区別できるようになったのだろう。
「なら、変な音がしたら分かるのか」
「たぶん」
「使いすぎるな」
「分かってる」
本当に分かっているかは怪しかったが、昨日まで敵の居場所を探すためだけだった能力を、シアは自分なりに扱おうとしていた。カイは夜の海へ目を向けた。旅は仕事をしなければ続かない。仕事をすれば危険へ近づく。それでも、世界を見る方法は危険な戦場だけではなかった。静かな船の夜に、シアが足元から船そのものを知ろうとしている姿を見ながら、カイはこの三日間くらいは何も起こらないでくれればいいと思った。その願いがかなわないことを、この時の彼はまだ知らなかった。




