服と靴
店へ入って十五分もしないうちに、カイは服を買うだけのことがどうしてこれほど面倒になるのかと本気で考え始めていた。
「駄目」
試着室から出てきたシアが、肩の部分を引っ張りながら不満そうにする。
「何で?」
「動きにくい」
「普通に歩くだけなら十分だろ」
シアはその場で膝を曲げたかと思うと、何の前触れもなく一メートルほど垂直に跳んだ。店員が息を呑む。着地したシアは何事もなかったように両腕を上げた。
「ここ、引っ張る」
「店の中で跳ぶな」
「動ける服がいい」
「お前の『動ける』に合わせたら普通の服は全部駄目になる」
店員は最初こそ困惑していたものの、シアの金色の目や時折覗く獣耳を見て、何か合点がいったらしい。
「お客さん、もしかして変身系の獣人ですか?」
カイは返事をする前にシアを見た。嘘をつく必要はないが、召喚生命だと自分から説明する理由もない。
「似たようなものだ」
「でしたら最初に言ってくださいよ。普通服ではなく、こっちを見た方が早いです」
店員は店の奥へ入り、しばらくして丈夫そうな布製の上着と短い外套、それに革の腰帯を持って戻ってきた。見た目は普通の旅装だったが、縫い目に沿って細い銀色の糸が走り、襟元と腰の部分には爪の先ほどの魔導石が埋め込まれている。
「形態追従式です。獣人でも変身術師でも、身体の大きさが一定以上変わる方にはよく売れます」
「伸びるのか?」
「そこまで万能な布があれば私も苦労しません。大きな変化を検出すると、登録してある衣服部分だけ一時収納するんです」
店員が腰帯の魔導石へ指を当てると、外套の端が淡く光り、その一部が布ごと消えた。数秒後、もう一度触れると元へ戻る。シアが目を丸くする。
「食べた?」
「収納しただけです」
「どこに?」
「小型収納層ですよ。大した容量はありませんから、服以外は入れられませんけど」
カイは腰帯を手に取った。古代遺物のような大げさな技術ではなく、魔導工学が生活用品へ応用されたものらしい。人間だけが暮らす国なら需要は少ないだろうが、竜人や獣人、変身術師が珍しくない都市では、破れた服を毎回買い直すより合理的なのだろう。
「獣の姿へ戻った時、首輪みたいになるのか?」
「基本は腰帯か襟の登録核だけ残ります。身体形状に合わせて固定位置も変わりますから、締め付けることはありません。人の姿へ戻れば衣服も復元されます」
シアはすぐにカイを見た。
「これ」
「値段を聞いてからだ」
店員が金額を告げる。カイは黙った。シアが顔を覗き込む。
「高い?」
「お前が列車で食べた飯何回分か考えてる」
「いっぱい?」
「考えたくないくらいだ」
今後も旅を続けるなら必要経費だと自分へ言い聞かせた。上着は動きやすい短丈のものを選び、下は膝や腰へ余裕を持たせた細身の旅装にした。シアは色や装飾にはほとんど興味を示さず、腕を振れること、走れること、腰に食料袋を付けられることばかり確認する。
「こっちの方が可愛いですよ」
店員が飾り布の付いた服を見せる。シアは一度見ただけで首を振った。
「邪魔」
「即答か」
「こっちは肉入る」
選んだ上着には左右へ大きめの収納袋が付いていた。
「服を携帯食入れで選ぶ女は初めて見た」
「便利」
「否定はしない」
問題は靴だった。店員が何足か並べただけで、シアの表情が露骨に険しくなった。
「嫌」
「まだ履いてないだろ」
「足、隠れる」
「街を裸足で歩かせるわけにいかん」
「昨日、平気だった」
「昨日は列車の中だ」
カイが一足を差し出すと、シアは後ずさった。獣だった頃、肉球や爪から伝わる地面の感触は生きるための情報そのものだったのだろう。人の姿になってもその感覚は残っており、特に列車内で獲得した振動感知は足裏から伝わる細かな揺れと結びついている。無理に普通の靴を履かせれば、新しく手に入れた能力をわざわざ鈍らせることになる。事情を聞いた店員は少し考え、棚の下から別の靴を持ち出した。
「だったら水夫用の感応底がいいかもしれません」
底が驚くほど薄く、柔らかな革で作られていた。
「船乗りは甲板の振動や濡れ具合を足で感じる人が多いので、魔導革で感触をほとんど殺さないようにしてあります」
シアは警戒しながら片足を入れた。床を踏み、踵を上げ、爪先で何度か体重を移動させる。
「分かる」
「何が?」
「カイ」
「俺?」
シアが床を指した。
「歩いた」
カイは数歩離れたところにいた。試しにもう一歩踏む。シアの耳がわずかに動いた。
「右」
正解だった。店員の顔が引きつった。
「ずいぶん感覚の鋭い子ですね」
「昨日からだ」
「昨日?」
「気にするな」
両足へ靴を履かせると、シアは店内を何度か歩き、最後には走り出しそうになったためカイが肩を掴んだ。
「ここで全力を出すな」
「使える」
「なら決まりだ」
会計を済ませる頃には財布が目に見えて軽くなっていた。店を出る前、店員が形態追従の登録を行う。シアの魔力と身体変化へ簡単な反応式を合わせ、腰帯の魔導石へ登録するだけだった。本人の意思で強制収納もできるため、緊急時には服を脱ぐ手間もない。
「一度試してみます?」
店員に聞かれると、シアはすぐ頷いた。カイが止める間もなく、シアの身体から淡い灰色の魔力が立ち上る。人間の輪郭が崩れる直前、上着とズボン、靴が光へ溶けるように腰帯の魔導石へ吸い込まれ、その直後には店の床へ灰銀色の四足獣が立っていた。本来なら人間数人分ほどの場所を取る身体が商品棚の間へ現れ、店員が後ろへ飛び退く。
「大きい!」
「獣形態に戻れたのか!」
「できた」
シアは自分の前足を見てから身体を振った。衣服はどこにも絡んでおらず、首元近くに形を変えた細い魔導帯だけが残っている。数秒後、再び灰色の魔力が揺れ、獣の輪郭が縮んでいった。少女へ戻った時には服も靴も元通りになっていた。シアが腹や脚を触って確認する。
「ある」
「そりゃそういう道具だからな」
「便利」
「高いだけはある」
店員はまだ驚いた顔をしていたが、商売人としての興味が勝ったらしく腰帯を確認した。
「収納反応は問題ありません。変身幅がかなり大きいので、もし不調が出たら港の魔導具店へ持っていってください」
外へ出ると、昼近くの市場はさらに人が増えていた。シアは新しい靴で石畳を踏みながら、その感触を確かめるように歩いた。数歩進むたびに少し力を変え、地面から返ってくる振動を探っている。
「どうだ」
「魚、向こう」
「靴の感想を聞いた」
「魚売ってる人、歩いた」
「そこまで分かるなら問題なさそうだな」
約束していた魚市場へ入ると、シアは途端に服のことを忘れた。銀色の魚、赤い甲殻類、巨大な貝、カイでも名前を知らない青い触手を持つ海生物まで並んでいる。店員が試食として焼いた魚を差し出すと、シアは一口で食べ、すぐ隣の種類を指した。
「これも」
「買わんぞ」
「味見るだけ」
「その顔で言っても説得力がない」
結局、昼食代も予定より高くついた。市場の外れにある海沿いの広場へ座り、二人で焼き魚とパンを食べた。シアは新しい服の収納袋へ干し魚を入れ、満足そうに何度も手で触っている。
「それで服を選んだのか」
「正解」
「まあ、本人が気に入ってるならいい」
海から湿った風が吹いた。遠くでは大小の帆船と魔導船が出入りし、そのさらに向こうを灰色の軍艦が進んでいる。シアは魚を食べながら海を見た。
「ここ、好き」
「来たばかりだろ」
「魚多い」
「そこしか見てないな」
しばらくすると、彼女は自分の服へ視線を落とした。
「これ、カイ買った」
「ああ」
「私の?」
「お前が着るんだからお前のだ」
「返さなくていい?」
カイは少しだけ答えるまでに間を置いた。鉄道職員から借りた服を着た時、シアにとって衣服はまだ誰かから一時的に与えられるものだった。今度の服は違う。
「壊すまでお前のだ。ただし、わざと壊したら次は自分で稼げ」
「どうやって?」
「そのうち考えろ」
シアは満足したように頷いた。服一着と靴一足で何かが劇的に変わるわけではない。それでも、彼女が自分の物を持ち、自分で選び、自分の足で街を歩くことは、獣の姿でカイの後を追っていた頃にはできなかった。食事を終えると、カイは港湾仕事の掲示所へ向かった。海洋国家へ来た目的は観光ではなく、この先の旅費を稼ぎながら移動することだった。その後ろを、新しい靴で石畳の振動を確かめながらシアが歩いてくる。今度は袖も長すぎず、靴も嫌がらず、屋台の魚へ飛びつきそうになる以外は、どこから見ても普通の旅人の少女に見えた。それがどれほど珍しいことなのか、周囲の人々は誰も知らなかった。




