港を歩く
列車が速度を落とし始めた時、窓の外を占めていたのは、昨日まで見慣れていた丘陵でも農地でもなかった。朝の光を反射する水面が地平近くまで広がり、その手前には石造りの倉庫群と巨大な荷役塔、何本ものクレーン、蒸気と魔力光を吐きながら走る港湾用牽引車が密集していた。線路は海へ向かって何本にも枝分かれし、貨物列車の間を港湾労働者が忙しく行き交っている。シアは窓へ額が触れそうなほど顔を近づけたまま、ほとんど瞬きもしていなかった。
「まだ見るのか」
向かいの席で荷物をまとめていたカイが尋ねると、シアは海から視線を離さないまま頷いた。
「でかい」
「昨日からそれしか言ってないぞ」
「昨日よりでかい」
「海は一晩で育たん」
シアは納得していない顔で振り返った。人の姿になってからまだ丸一日ほどしか経っておらず、灰銀色の髪も金色の目も獣だった頃の面影を強く残している。十五歳ほどに見える身体には鉄道職員から借りた上着と作業用のズボンが合っておらず、袖は一度折り返しても手の半分を隠し、腰は革紐で無理やり締めていた。靴だけは最後まで嫌がったため、今も柔らかい布を足へ巻いただけだった。
「降りるぞ」
カイが荷物を肩へ掛けると、シアは座席から立ち上がった。その動作だけなら昨日よりずっと自然になっていたが、歩き始めた途端、揺れる車内で人間の足をどう置けばいいのか一瞬迷い、隣の座席へ手をついた。
「四本の方が楽」
「だろうな」
「でも、こっちがいい」
その理由をカイは聞かなかった。昨夜の食堂車で、シアは同じ椅子へ座れることを嬉しそうに話していた。それ以上言葉にさせる必要はないと思った。
列車が完全に停止すると、ホーム側から一斉に人の声が押し寄せてきた。終着港はカイが想像していた以上に大きく、王国や商業共和国で見た都市とは違う活気に満ちていた。荷役用の魔導機械が唸り、魚を満載した荷車が走り、船員たちが複数の言葉を混ぜて怒鳴り合っている。その中には普通の人間だけでなく、首筋に薄い鱗を持つ者や、耳の後ろに小さな鰓を持つ海棲人も珍しくなかった。シアは列車を降りて三歩ほど進んだところで立ち止まった。
「多い」
「人がか」
「匂い」
カイには潮と魚と油の匂いくらいしか分からなかったが、シアには何十倍もの情報が流れ込んでいるらしい。魚市場から届く生臭さ、海水、魔導燃料、船の木材、金属、料理屋の煙、行き交う人間や海棲人の体臭まで同時に嗅ぎ取っているのだろう。金色の瞳が落ち着きなく左右へ動いた。
「腹減った」
「結局そこか」
「魚、いっぱい」
「まず服だ」
シアが自分の袖を見下ろした。
「これ、嫌?」
「お前が嫌じゃなければ構わんが、借り物だ」
「じゃあ返す」
「返したら裸になるだろ」
考えた末、シアは渋々袖を握った。
帝国使節団は同じ列車の前方から降車していた。制服姿の兵士や官僚たちに囲まれたアシュレイ・ヴェルガは、最後まで荷役状況を確認してからカイの方へやってきた。列車の中では一人の軍人として話していたが、港へ降りれば彼が帝国の軍団指揮官であることを嫌でも思い出させられる。周囲の兵士は自然に道を空け、港湾職員も彼を見れば背筋を伸ばした。
「ここで一度別れることになりそうだ」
アシュレイが言った。「使節団は?」
「南埠頭から帝国籍船へ乗り換える。私はその護衛だ。君は?」
「まだ決めてない。船の警備でもあれば受ける」
「観光ではないのか」
「観光で金を払って船に乗るくらいなら、警備で金をもらって乗る」
アシュレイが笑った。
「徹底しているな」
「傭兵だからな」
二人は簡単に握手を交わした。所属も考え方も違う。列車の中で百人と十人のどちらを選ぶかという話をした時も、結論は最後まで一致しなかった。それでも、相手が自分とは違う答えを持つからといって、二度と顔を見たくないわけではなかった。
「戦場以外で会いたいものだ」
アシュレイが何気ない調子で言った。
カイは鼻で笑ったものの、否定まではしなかった。帝国使節団が離れていくと、シアはしばらくアシュレイの背中を見送っていた。
「行くぞ」
「どこ?」
「服屋」
「飯は?」
「服が先だ」
「魚」
「逃げない」
「ほんと?」
「少なくとも港中の魚が今日中に全部逃げることはない」
ようやく納得したらしく、シアはカイの隣へ並んだ。港駅を出た先には大通りがあり、左右には船具店、食堂、宿屋、衣料品店、魚市場、魔導具店が隙間なく並んでいた。海棲人と人間が肩を並べて商売し、路地の水路では小型船が荷物を運んでいる。シアは視線を動かし続けながら歩いていたが、しばらくすると人間の歩調にも慣れ、カイとほぼ同じ速度で進めるようになった。ただし、屋台から魚を焼く匂いが流れてくるたびに身体ごとそちらへ向かうため、何度か肩を掴んで戻す必要があった。
「あとで食わせる」
「あとっていつ?」
「服を買ったらだ」
「早く買う」
目的が決まると急に歩く速度が上がった。市場の入口で、荷車を避けようとしたシアが大きく横へ跳んだ。人間なら一歩退けば十分な距離だったのに、獣だった頃の感覚で動いたせいか、二メートル近く飛んで露店の前へ着地する。店主が目を丸くした。
「元気な獣人のお嬢ちゃんだな」
シアの頭の上には、本人も気づかないうちに灰銀色の獣耳が出ていた。カイは一瞬だけ身構えたが、周囲で騒ぐ者はいない。通行人の一人がちらりと見ただけで、そのまま歩き去った。
「耳」
カイが自分の頭を指すと、シアが触れて初めて気づいた。
「出た」
「隠せるか?」
シアは眉間へ力を入れた。数秒後、耳は髪の中へ沈むように消えた。露店の店主は興味も示さず魚を並べ直している。カイはその様子を黙って見ていた。王国ではシアが召喚生命だと知られた瞬間から、役人も軍も扱いを決めるために動き始めた。商業共和国では逆に希少価値が付けられ、金になる存在として見られた。ところが、この港では人の姿で歩いているだけなら、少し変わった獣人の娘で済んでしまう。人の姿を取る召喚生命と、現世界で生まれた自然生命を、外見だけで見分けることはほとんどできない。それが便利なことなのか危険なことなのか、カイにはまだ判断がつかなかった。
「カイ」
シアが袖を引いた。
「何だ」
「魚」
「分かった。服を買ったらだ」
「今、耳消した」
「それは偉い」
「魚」
「取引だったのか」
シアは真顔で頷いた。カイは財布の重さを思い浮かべながらため息をついた。旅を始めた時、一人分しか考えなくてよかった食費はすでに倍どころではなくなっており、人の姿を手に入れたことで衣服まで必要になった。それでも、隣を歩くシアが魚市場を見て目を輝かせている姿を眺めていると、一人だった頃より面倒が増えたことを後悔する気にはならなかった。衣料品店の看板を見つけると、カイはそちらへ向きを変えた。シアもそれに気づき、今度は遅れずについてくる。四本だった足が二本になっても、旅そのものが変わったわけではない。ただ、同じ店の扉をくぐり、同じ道を並んで歩けるようになった。その変化がどこまで続くのか分からないまま、カイは新しい服の値段が高すぎないことだけを願って店へ入った。




