百人と十人
列車の中央部は、爆破と脱線によって谷側へ大きく傾いていた。第八、第九客車の下を支える橋梁が崩れ始めており、そのまま落下すれば連結された前方車両まで巻き込まれる。鉄道主任が連結器を確認した。
「第七と第八の間を切れば前方は残せます」
「後ろには何人いる」
アシュレイが聞く。
「確認できているだけで十二人。怪我人が多いので避難が遅れています」
前方には百人を超える乗客がいる。橋脚から石が落ちた。時間がない。アシュレイが連結部を見る。
「切断準備を」
主任が動きを止める。
「ですが」
「今すぐ切れとは言っていない。切れる状態にはしておけ」
カイはアシュレイを見る。
「残ってても切るのか」
「限界が来れば」
「十二人いても?」
「前方の百人以上まで一緒に落とすわけにはいかない」
答えに迷いがない。だからといって、表情に何も感じていないわけでもなかった。
「何分待つ」
カイが聞く。
「三分」
「五分」
「支柱が持たない」
「四分」
アシュレイは橋脚を見る。
「四分だ。それ以上は待たない」
「分かった」
カイはシアを見る。
「行けるか」
シアは頷いた。人型の足取りはまだ不安定だが、狭い客車を走るには獣形態より圧倒的に向いている。二人で第八客車へ入る。車内には煙が充満し、荷物と座席が床へ散乱していた。
「歩ける奴は前へ! 荷物は置いていけ!」
カイが声を飛ばす。シアは床へ手をつき、振動を読む。
「奥、四人」
「案内しろ」
シアが走る。寝台区画に家族が三人、さらに座席へ脚を挟まれた老人が一人いた。カイが老人の座席を持ち上げている間、シアが家族を前方へ連れていく。少女の姿になったことで、乗客は彼女を召喚獣だとは思っていない。ただ裸足で外套を羽織った少女が異常な速度で車内を走る姿に驚いている。
「あと二分!」
連結部からアシュレイの声が聞こえる。
「うるさい!」
カイが返す。老人の脚が抜けた。背負って運ぶ。途中でシアが戻ってくる。
「カイ、もう一人」
「どこ」
「下」
座席の下へ少年が挟まれている。カイが老人をシアへ預ける。
「前まで連れていけるか」
「できる」
「落とすなよ」
「カイじゃない」
「それどういう意味だ」
答えを聞く暇はなかった。少年を救出する。残り三十秒ほど。車体が傾く。外で橋梁が崩れる音がした。
「切るぞ!」
アシュレイの声。
「待て!」
「二十秒!」
少年を抱え、前方へ走る。シアが老人を支えて先へ進んでいる。人間の歩き方など数十分前に覚えたばかりなのに、今は足を痛めた老人へ自分の肩を貸している。カイは一瞬だけその姿を見る。不思議な光景だった。
「十秒!」
「数えるな!」
「九!」
「本当に嫌な奴だな!」
「八!」
カイが少年を前方へ投げるように渡した。帝国兵が受け止める。シアが老人を押し込む。最後にカイが連結部を越えた瞬間、橋脚が崩れた。
「切れ!」
アシュレイが手動レバーを引く。動かない。金属が変形して噛んでいる。
「下がれ!」
カイが剣を抜く。風をまとわせ、連結器へ斬撃を入れる。一撃で切れない。二撃目で亀裂が広がる。三撃目を入れた瞬間、金属が弾けた。第八、第九客車が切り離される。崩れる橋とともに二両が谷側へ傾き、やがて見えなくなった。大きな衝撃音が谷底から響く。前方車両は残った。カイは床へ座り込む。
「時間超えたぞ」
「四十八秒だ」
アシュレイが答える。
「数えてたのか」
「当然だ」
カイは顔を上げる。
「本当に切ったか?」
アシュレイは谷を見る。
「あと数秒遅ければ」
「俺が向こうにいても?」
「ああ」
即答だった。シアがアシュレイを見る。金色の瞳に警戒が浮かぶ。カイはしばらく黙った後、立ち上がった。
「やっぱり気が合わないな」
「それでいい」
その日の夜、救援隊が到着した。乗客は近くの停車地へ移され、負傷者の治療が始まった。警備契約はまだ終点まで続いているが、列車はすぐには動けない。カイは仮設の食堂で遅い夕食を取ることにした。問題はシアだった。獣の姿なら床で食わせればよかった。今は十五歳ほどの少女の姿で、カイの外套だけを着て椅子へ座っている。しかも人型になった影響なのか、灰性を使った反動なのか、異常なほど腹を空かせている。
「まだ食うのか」
シアが頷く。皿にはすでに三人前の肉が消えている。
「人型になったら食費が減ると思った俺が馬鹿だった」
「お腹すいた」
「喋れるようになって最初に定着する文章がそれか」
シアはフォークを手に持った。反対向きだった。
「違う」
カイが持ち方を直す。シアが肉を刺そうとし、皿を床へ落としかける。
「待て。まず押さえろ」
「面倒」
「獣に戻って食え」
「戻り方、分からない」
「それも困るな」
向かいの席が引かれた。アシュレイが酒瓶を持って座る。
「取り込み中だったか?」
「見れば分かるだろ」
「子育てに見える」
「こいつは召喚獣だ」
アシュレイがシアを見る。
「本当に?」
シアが自分を指す。
「シア」
「分かった」
アシュレイは本当に本人へ謝った。シアはしばらく見た後、再び食事へ戻る。
「随分順応が早いな」
「本人より周りが?」
「両方だ」
アシュレイがグラスを二つ置く。
「飲むか」
カイは酒瓶を見る。
「明日も警備だぞ」
「今夜の列車は動かない」
「軍人ってそういう理屈で酒飲むのか」
「元軍人なら分かるだろう」
断る理由もなかった。酒を注ぐ。少し飲んだところで、カイは昼間から気になっていたことを聞いた。
「お前、本当に切るつもりだったんだな」
アシュレイはすぐに意味を理解した。
「そう言った」
「十二人を残して?」
「ああ」
「百人のために」
「正確には、十二人を助けられない時に百人まで一緒に死なせないためだ」
「同じだろ」
「少し違う」
カイはグラスを置いた。
「なら聞く。百人を助けるために十人を犠牲にしなきゃならないなら、お前はできるのか」
「必要なら」
「即答か」
「迷わないとは言っていない」
アシュレイは酒へ口をつける。
「迷った上で、それでも決める。それが自分の立場だと思っている」
「十人の側は納得しないぞ」
「当然だ」
「それでも?」
「司令官が全員に好かれる判断だけを選べるなら、戦争はもっと簡単だった」
カイは黙った。大戦中に似た判断を何度も見ている。一つの部隊を残し、別の部隊を逃がす。橋を破壊し、向こう岸の兵を諦める。負傷者を全員運べないから、歩ける者を先に送る。数字だけを見れば正しい。だが数字の中には名前がある。
「俺は嫌だ」
「何が」
「その十人を、勝手に死んでいい側へ入れることが」
「なら決めなければいい?」
「分からん」
アシュレイが少し意外そうな顔をする。
「分からないのか」
「何でも答えがあると思うな。俺は英雄じゃない」
「英雄なら答えがあるのか?」
「周りが勝手に、あることにする」
アシュレイが笑った。
「なるほど」
「俺は十人を選ぶ立場になりたくない。だから軍を辞めた」
「今日、お前は十二人を救うために百人を危険へ晒した」
「分かってる」
「私も四十八秒待った」
カイは顔を上げる。アシュレイはシアを見る。少女は二人の会話に興味があるのかないのか、黙々と肉を食べている。
「結局、私も数字だけでは決められなかったらしい」
「軍団司令官失格だな」
「帝国へ報告するな」
「高く買うぞ」
「商業共和国に染まったな」
二人は笑った。考え方は合わない。おそらく今後も合わない。それでもカイは、この男が安全なところから十人を捨てろと言う人間ではないことを知った。自分も連結部へ残り、最後まで助けた上で、それでも必要になれば切る。それがアシュレイ・ヴェルガという人間らしい。好きかと聞かれれば困る。嫌いかと聞かれても、今は同じように困る。
「もう一回くらいなら飲んでもいいな」
カイが言う。
「今飲んでいるだろう」
「次があればだ」
「なら停戦が続くことを祈ろう」
「急に軍人らしくなったな」
酒を飲みながら、カイは横を見る。シアはフォークをどうにか使えるようになり、皿から肉を口へ運んでいた。獣だった時と食べ方は大して変わらない。ただ、同じ椅子へ座り、同じ机を囲んでいる。シア本人がどこまで意識しているかは分からない。それでも人の姿になった理由が、強い敵を倒すためではなく、狭い扉を通ってカイのところへ来るためだったことだけは、カイにも理解できた。その事実を口へ出す気はなかった。




