盗まれたパン
翌朝、カイは怒鳴り声で目を覚ました。
「待て! そいつを捕まえろ!」
宿の二階にある狭い部屋で横になっていたカイは、薄い毛布の中で片目だけを開けると、しばらく天井を見つめた。昨夜は酒を飲んだわけでもないし、寝付きが悪かったわけでもない。それでも朝から騒がしい声を聞くと、それだけで起きる気が失せる。
できれば関わりたくない。
そう思いながら再び目を閉じようとしたところで、今度は中庭から何かが倒れる大きな音が響き、続けて子供の声が聞こえた。
「離せ!」
その声には聞き覚えがあった。
カイは数秒だけ黙った後、大きく息を吐いた。
「…面倒なのは、向こうから来るらしいな」
仕方なく身体を起こし、外套を羽織る。剣と銃を身につけ、階段を下りて中庭へ向かうと、すでにかなりの人数が集まっていた。
騒ぎの中心にいたのは、昨夜カイの保存食を見つめていた少年だった。
少年は地面に押さえつけられ、その腕には硬い黒パンが抱え込まれている。保存用に焼かれたもので、味は期待できないが日持ちはする。輸送隊が積んでいる食料の一つだった。
少年の首根っこを掴んでいるのは、昨日から同行している護衛の一人だった。
「離せって言ってるだろ!」
少年が暴れる。
「盗人が偉そうにするな!」
護衛が怒鳴る。
その周りでは御者や宿の使用人、他の護衛たちが様子を見ていた。誰も少年へ手を貸そうとはしていない。戦後の街道では食料泥棒など珍しくもないし、それをいちいち助けていたらきりがないというのも、理解できない話ではなかった。
少し遅れて、依頼主の商人もやってくる。
「何の騒ぎだ」
「こいつです」
護衛が少年の腕を持ち上げる。
「荷車から食料を盗んでました」
商人の顔色が変わった。
「何だと?」
すぐに荷車へ向かい、覆いをめくる。しばらく中を確認していた御者が、困ったような顔で振り向いた。
「パンが三つ足りません」
「三つ?」
商人が少年を見る。
少年の腕にあるのは一つだけ。
「残りはどうした」
少年は答えなかった。
「聞いている。あと二つはどこだ」
「知らない」
「知らないわけがあるか。お前が盗ったんだろう」
「知らない」
少年は同じ言葉を繰り返し、抱えているパンをさらに強く胸へ押しつけた。
商人は苛立ったように鼻を鳴らす。
「一人で三つも食うつもりだったとは思えん。仲間がいるのか?」
少年の顔がわずかに強張った。カイはその変化を見逃さなかった。
昨夜の少年は明らかに腹を空かせていた。しかし、三つも盗む理由が単純な空腹だけとは考えにくい。
「誰に渡した」
商人が続ける。
「言わない」
「だったら警備隊に突き出す」
その言葉を聞いた瞬間、少年の表情が変わった。
「嫌だ」
「嫌なら盗むな」
「嫌だ!」
さっきまで以上に激しく暴れ始める。
護衛が押さえる。
「暴れるな!」
「離せ!」
「大人しくしろ!」
「嫌だって言ってるだろ!」
少年の声が中庭へ響いた。
「妹が……!」
そこまで言って、少年は急に口を閉じた。商人の目が細くなる。
周囲の人間も、その言葉を聞いていた。カイも黙ったまま少年を見る。
「妹?」
商人が聞く。少年は答えない。
「誰かに渡したのか?」
沈黙。それが答えだった。商人は額を押さえた。
「どこにいる」
「言わない」
「盗品を返してもらうだけだ」
「もうない」
「何?」
「食べた」
「全部か?」
「……」
「答えろ」
少年は唇を噛んだ後、突然声を張り上げた。
「もう食べたから返せない!」
中庭が静かになった。
少年の目には涙が浮かんでいたが、泣こうとはしていなかった。むしろ泣いていると思われることすら嫌なのか、必死に商人を睨んでいる。
商人はその姿を見ても、表情を大きく変えることはなかった。
冷たいといえば冷たい。だが、商売をしている人間としては当然でもある。
この輸送隊の食料は商品であり、それを勝手に配って歩けば商売にはならない。
「事情があれば盗んでいいわけじゃない」
商人が言った。
その言葉に対して、カイは心の中で同意した。可哀想だから盗みを見逃す。
そんなものは優しさというより、その場限りの自己満足に近い。
今日見逃しても、明日また盗めば同じことになる。
そして明日の相手が、今日の商人と同じように警備隊へ引き渡してくれるとは限らない。
戦後の街道には、食料を一つ盗られただけで剣を抜く人間もいる。銃を撃つ人間もいる。
子供だから許してくれる人間ばかりではない。
少年はもう一度言った。
「返せない」
「なら金を払え」
「……持ってない」
「だろうな」
商人がため息をつく。
「だったら警備隊へ行け」
「嫌だ」
「それしかない」
「嫌だ!」
再び少年が暴れる。商人も苛立ち始めたのか、声を荒らげた。
「だったらどうしろというんだ!」
その時。
「いくらだ」
カイが言った。
周囲の視線が一斉に集まる。
商人が怪訝そうに見る。
「何が?」
「パン三つ」
「…お前が払うのか?」
「金額を聞いてる」
商人はしばらくカイを見つめた後、値段を告げた。
カイは小さく眉を動かした。
「高くないか」
「輸送費込みだ」
「商売上手だな」
「嫌なら払わなくていい」
「そういうところだけ愛想いいな」
「お前にだけは言われたくない」
周囲の何人かが笑った。
カイは腰の小袋を外し、中から硬貨を取り出す。数えてみると、今回の護衛報酬の中でも決して小さくない金額だった。それを見た若い護衛が驚いたように口を挟む。
「本当に払うのか?」
「うるさい」
カイは硬貨を商人へ放った。商人が両手で受け取る。
「これで足りるか」
商人は硬貨を数えた。
「…足りる」
「なら終わりだ」
「待て」
商人が言う。
カイは面倒そうに振り向いた。
「今度は何だ」
「なぜお前が払う」
「朝からうるさいから」
「そういう話ではないだろう」
「俺は寝起きが悪いんだ」
「それで報酬を減らすのか?」
「俺の金だ」
「…」
「俺がどう使おうが勝手だろ」
商人は何か言いたそうだったが、結局口を閉じた。
損はない。商品代は払われた。それ以上追及する理由もない。
「好きにしろ」
商人は護衛へ顎をしゃくった。
「放してやれ」
少年の腕が解放された。少年はすぐに逃げなかった。むしろカイを睨んでいる。
感謝しているようには見えない。警戒。困惑。そして少しだけ怒っている。
「何だ」
カイが聞く。
「頼んでない」
少年が言った。
「何を」
「助けてくれなんて」
「聞いてないからな」
「じゃあ、なんで払ったんだよ」
「朝から騒がれると飯がまずくなる」
「嘘だ」
即答だった。カイは少年を見る。
「子供に嘘を見抜かれるようじゃ、俺も終わりだな」
「本当のこと言えよ」
「何でお前に説明しなきゃならない」
少年は言葉に詰まる。
カイはその腕にあるパンへ目を向けた。
「それは?」
少年の身体が固まった。
「何が」
「まだ食べてないだろ」
少年は反射的にパンを抱え直した。
「返さない」
「金は払った」
「…」
「つまり、それは俺のパンだ」
少年の顔から血の気が引いた。
それを見たカイは少しだけ意地が悪かったかもしれないと思ったが、表情には出さない。
数秒黙った後、カイは続ける。
「だから、俺がどうしようが勝手だ」
少年はカイを見る。理解できていない。
「持っていけ」
「…え?」
「要らないなら返せ」
「いる!」
少年は反射的に答えた。
「なら持ってけ」
「いいのか」
「何回言わせるんだ」
少年はまだ動かない。
カイはため息をついた。
「妹がいるんだろ」
少年の表情が変わる。
「…何で知ってる」
「自分で言った」
「あ」
「忘れてたのか」
少年は顔を赤くした。
カイは少年を見ながら、なるべく余計な感情を込めずに言った。
「さっさと持っていけ。冷めるものでもないが、ここにいればまた面倒になる」
少年はパンを抱えたまま数歩下がった。それでもまだ去ろうとしない。
「何だ」
「名前」
「要らないだろ」
「あんたの名前」
「聞いてどうする」
「…知らない」
「なら聞かなくていい」
少年はむっとした顔をする。
カイは背を向けた。
「カイ」
数歩歩いたところで言う。
少年が顔を上げる。
「カイ・レイヴァン」
少年は小さな声で繰り返した。
「カイ…」
「もう忘れていいぞ」
「忘れない」
「勝手にしろ」
カイは宿へ戻った。背後で少年が走り去る音が聞こえたが、振り返らなかった。
遅い朝食を取り終えた後、輸送隊は再び出発した。
宿場を離れ、街道を北へ進む。
昨夜見えた青白い光については、朝になっても何の騒ぎにもなっていなかった。
商人も気にしていない。他の護衛たちも昨夜は酒を飲んでいた者が多く、そもそも見ていない者の方が多かった。なら、本当に大したものではなかったのかもしれない。
カイとしても、その方がありがたかった。今回の仕事は護衛。それ以上でもそれ以下でもない。
余計な事件には関わらず、荷物を目的地まで運び、金を受け取り、そこで終わり。
それが一番いい。そう考えながら歩いていると、昨日からやたらと話しかけてくる若い護衛が隣に並んだ。
「なあ」
「何だ」
「今朝の話だけど」
カイは嫌そうに眉をひそめる。
「終わった話だろ」
「いや、でもさ」
若者は笑っている。
「意外だった」
「何が」
「子供に優しいんだな」
「優しくない」
「パン代払ったじゃん」
「騒がしかったからだ」
「それで三日分くらいの稼ぎ飛ばす?」
カイは横目で見る。
「人の懐を計算するな」
「だって気になるだろ」
「暇なのか」
「護衛って何も起きない時は暇だからな」
カイはため息をついた。
「なら周囲を見ろ」
「見てるよ」
「後ろは?」
「え?」
若者が慌てて振り返る。その反応を見て、カイは首を振った。
「見てないじゃないか」
「今のはずるいだろ!」
「襲う奴は待ってくれない」
「はいはい。元軍人は厳しいねえ」
若者が笑う。その言葉にカイは一瞬だけ反応したが、何も言わなかった。
しばらく歩いてから、若者がもう一度口を開いた。
「でも、警備隊に渡した方がよかったんじゃないか?」
「何が」
「あの子」
カイは前を向いたまま答える。
「かもしれないな」
「じゃあ何で助けた」
「助けてない」
「またそれか」
「金を払っただけだ」
「同じだろ」
「違う」
若者は不思議そうに見る。
「何が違うんだよ」
カイは少しだけ考えた。
「今日、あいつが捕まって警備隊へ行く」
「うん」
「数日で出る」
「まあ、パンくらいならな」
「その後、腹が減る」
若者が黙る。
「また盗む」
「…」
「次の相手が、今日の商人みたいに話を聞いてくれるとは限らない」
カイは街道脇にある壊れた石碑を見ながら続けた。
「戦後は武器を持ってる奴が多い。元兵士も多い。食料を盗られて銃を撃つ奴だっている」
若者の笑顔が消える。
「じゃあ、どうすればいいんだ」
「知らない」
「知らないって」
「俺は役人でも孤児院の人間でもない」
カイは淡々と言う。
「あいつらの人生まで面倒を見る気はない」
「でも助けた」
「だから助けてない」
「頑固だなあ」
「よく言われる」
若者は苦笑した。
カイはそれ以上話さなかった。実際、自分が何をしたのかカイ自身も明確に説明できるわけではなかった。正義感。慈善。同情。そういう立派な言葉を使うほどのことではない。
ただ。
あのまま警備隊へ連れていかれる少年を見て、放っておく気になれなかった。それだけだった。誰を助けるべきか。誰を見捨てるべきか。国が決めるわけではない。教会が決めるわけでもない。
ましてや英雄という名の誰かが、世界中の人間を救う義務を持つわけでもない。
自分が目の前にいる相手を見て。助けると決めたなら助ける。助けないと決めたなら助けない。
それだけの話だ。正しいかどうかなど、知らない。
少なくともカイは、そういう生き方しかできなかった。
昼過ぎ。
輸送隊は古い石橋の近くで休憩を取った。
川幅はそれほど広くないが、橋には大戦中についたと思われる傷が残り、一部は新しい石材で補修されている。
御者たちは馬に水を飲ませ、護衛たちは周囲へ散った。
カイは橋の端に腰を下ろし、水筒を口へ運ぶ。
その時。
視界の端で、草が動いた。風ではない。カイはそちらを見ないまま、水を飲む。
もう一度。草が動く。少し先。街道から外れた低木の陰。誰かいる。敵意は感じない。人数も、おそらく一人。足音。身体の軽さ。子供。カイは小さくため息をついた。
朝の少年だった。かなり離れたところから輸送隊を追ってきているらしい。
本人は隠れているつもりなのだろう。しかし下手だった。木の陰へ隠れたと思えば足が見えているし、草むらへ伏せれば頭が出ている。カイは気づいていないふりをした。
やがて休憩が終わる。輸送隊が再び進み始める。
少年もついてくる。丘を一つ越える。まだいる。二つ目を越える。まだいる。
さすがに若い護衛も気づきそうになったが、カイが先に声をかけた。
「前を見ろ」
「え?」
「道が狭くなる」
「あ、ああ」
若者の視線が前へ戻る。カイは振り返らない。少年が何のためについてきているのかは分からない。
パンの礼を言いたいのか。何かを頼みたいのか。単純に行くところがないのか。どれでも面倒だった。だから気づかないことにした。夕方前。森の手前で輸送隊が一度停止した。先行していた護衛が、街道に倒木があることを確認したためだ。大したものではない。少し片づければ通れる。カイはその間に荷物袋を開いた。乾燥肉。水。弾薬。包帯。保存食。その中から黒パンを一つ取り出す。近くにあった倒木の上へ置いた。それを見ていた若い護衛が首を傾げる。
「何してるんだ?」
「何が」
「それ」
「パンだ」
「それは見れば分かる」
「じゃあ聞くな」
「何で置くんだよ」
カイは少し考える。
「古くなった」
若者がパンを見る。
「今朝買ったやつだろ」
「気のせいだ」
「いや、絶対――」
カイが睨む。
若者は途中で言葉を止めた。
何かを察したらしい。
「……俺は何も見てない」
「賢いな」
「素直に渡せばいいのに」
「誰に」
「いや、別に」
若者は笑いながら前へ歩いていった。カイも何も言わず、その後についていく。数十歩。百歩。
まだ少年は出てこない。さらに進む。やがて後ろで草が擦れる音がした。小さな影が倒木へ駆け寄り、パンを取る。少年だった。周囲を何度も確認している。それから街道とは反対側へ走り去った。
カイは振り返らなかった。これでいい。ついてこられるより、ずっといい。そう思った。
日が沈み始めた頃。
街道の先に、次の宿場らしき建物が見えてきた。
あと一時間も歩けば着くだろう。
御者たちにも少し余裕が戻り、雑談する声が聞こえ始める。
その時だった。
「おい、あれ何だ?」
誰かが声を上げた。全員が同じ方向を見る。昨日と同じ。丘陵地の向こう。
青白い光。ただし、今回は一瞬ではなかった。
地面から空へ伸びるように、淡い光が何度か脈打っている。
「雷じゃないな」
護衛の一人が言う。
「魔法か?」
「こんな距離から見える魔法って何だよ」
「魔導設備じゃないか?」
商人も荷車を止めて眺めている。
「この辺りに施設なんてあったか?」
「知らないな」
会話が続く。カイだけは黙っていた。昨日より明らかに強い。しかも。近い。距離だけの問題ではない。風に混じる魔力の感触。昨日より濃くなっている。
カイは目を細める。風向き。丘。街道。明日の経路。頭の中で位置を組み合わせる。その光の発生地点は、輸送隊が進む街道から少し外れている。だが、完全に無関係な距離でもない。若い護衛が隣へ来た。
「なあ」
「何だ」
「あれ、何だと思う?」
「知らない」
「元軍人でも分からない?」
「軍人は何でも知ってる生き物じゃない」
「でも、嫌そうな顔してる」
カイは相手を見る。
「いつもこんな顔だ」
「いや、いつもより嫌そうだぞ」
「よく見てるな」
「暇だから」
カイはもう一度光を見る。
やがて青白い光は弱くなり、完全に消えた。
丘陵地帯には夕暮れだけが残る。
何もなかったように。
だが。
カイの胸の奥には、昨日より強い違和感が残った。
軍人だった頃。戦場へ向かう直前。偵察報告は異常なし。敵影もなし。上官も問題ないと言っている。
それでも何かがおかしい。そう感じた時に似ている。そして、そういう予感は大抵ろくでもない形で当たった。
「……今日は早く寝るか」
カイが呟く。若い護衛が笑う。
「何だよ、急に」
「明日、面倒になりそうだ」
「縁起でもないこと言うなよ」
「俺だって外れてほしい」
カイは歩き出す。輸送隊も再び動き始める。
商人はすでに、明日の到着予定と商談の話をしていた。
御者たちも光への興味を失い始めている。
誰もまだ、それを危険だとは思っていない。ただの魔力現象。遠くの魔法。何かの施設。その程度に考えている。
カイ自身も、それ以上確かなことを知っているわけではなかった。
だから、この時点では何もしなかった。まだ護衛契約の外で起きていることだ。まだ誰も助けを求めていない。まだ誰かが死にかけているわけでもない。そういうことになっている。
けれど翌日。その言い訳は使えなくなる。
街道の先で。契約書には一文字も書かれていない場所で。
カイは、自分とは何の関係もない人間たちから助けを求められることになる。
そして、そのさらに奥で。
今はまだ名前すら知らない一匹の獣と出会うことになる。




