戦争が終わった日々
「帝国及び連邦両政府は、停戦協定の継続的履行を改めて確認し、焦土地帯周辺における大規模常設兵力の展開については、今後も相互監視のもとで・・・」
朝の広場に設置された魔導拡声器から、聞き慣れた女の声が流れていた。戦時中は空襲警報や避難指示を伝えていた装置も、今では復興計画や停戦協定、各国首脳の会談結果を毎日のように読み上げている。もっとも、そこを行き交う人々の大半は耳を傾けておらず、荷車を押す男は泥にはまった車輪だけを気にし、配給所に並ぶ女は手元の引換券を握りしめ、古びた軍服を着た帰還兵は朝から安酒の瓶を傾けていた。
カイ・レイヴァンは広場の端にある石壁へ背を預けながら、その光景をしばらく眺めていた。二十九歳。黒ずんだ外套の下には剣を吊り、腰には使い込まれた銃器を差している。装備だけ見れば、戦後の街道でいくらでも見かける傭兵の一人にしか見えないし、本人もできればその程度に思われている方が都合がよかった。
「恒久的平和の実現に向け、両国は・・・」
魔導拡声器が続ける。カイは鼻で笑った。
「便利な言葉だな」
目の前を、右脚を失った男が杖をつきながら通り過ぎていった。膝から下は金属製の義足に置き換えられており、そのすぐ後ろでは片腕のない別の男が、壁際に座り込んで酒瓶を抱えている。配給所には長い列ができ、その脇では痩せた子供の手を引いた母親らしき女が、係員に何度も頭を下げていた。
広場に面した建物の壁には何枚もの紙が貼られている。「戦没者確認名簿 第七次更新」「復興労働者募集」「旧戦線地域への立入注意」「不発魔導弾発見時は触れずに通報すること」。そして、それらの少し上には、まるで全てを覆い隠すように、「戦争は終わった。新しい時代へ」と大きく書かれた政府広報が掲げられていた。
戦争は終わった、と世間では言われている。
確かに、帝国と連邦の正規軍同士が大軍をぶつけ合い、昨日まで生きていた何千人もの兵士が翌朝には死体へ変わるような戦いは、ひとまず終わった。砲声が夜通し響くことも減り、徴兵された若者たちが、名前も知らない相手を敵国の兵士という理由だけで撃つ日々も少なくなった。
それでも、焼け落ちた家が元に戻るわけではない。失った腕や脚も、戦場で死んだ家族も、停戦協定に署名したからといって帰ってくることはない。
だからカイにしてみれば、戦争が終わったというよりは、偉い連中がひとまず「終わったことにした」という方が正しかった。
「おい! そこの傭兵!」
広場の向こうから怒鳴り声が飛んできた。
カイは面倒そうに顔を上げる。北門の前には荷車が六台並んでおり、その横で腹の出た中年の商人が腕を組んでいた。今回の依頼主である。
「遅いぞ!」
カイは広場の時計を確認し、それから空の明るさを見て、もう一度時計へ視線を戻した。
「時間通りだが」
「時間通りに来ればいいという話ではない。普通は出発の十分前には来るものだろう」
「それなら契約書に書いておけ」
「そういう問題ではない!」
商人の頬がぴくりと引きつり、近くにいた若い護衛が笑いを堪えるように顔を背けた。
「腕が立つと聞いて雇ったが、愛想が悪いとは聞いていなかったぞ」
「愛想がいいか、あんたが聞かなかったんだろ」
「...お前な」
「護衛が必要だから雇ったんじゃないのか」
「それはそうだが、雇い主に少しくらい気を遣え」
「愛想が必要なら、酒場から誰か連れてくればいい。俺より話し相手にはなる」
「もういい!」
周囲から小さな笑いが漏れるなか、商人は顔を赤くして先頭の荷車へ戻っていった。
すぐに若い護衛が近づいてくる。
「すごいな、あんた」
「何が」
「雇い主にあそこまで言う奴、初めて見た」
カイは答えず、一番近くにあった荷車の横へしゃがみ込んだ。車輪の留め具を確認し、車軸を軽く叩き、それから馬の脚へ視線を移す。
「何してるんだ?」
「見れば分かるだろ」
「車輪見てるのは分かるけど、護衛がそこまで確認するもんなのか?」
「途中で壊れれば止まる。止まれば狙われやすくなる」
「ああ、なるほど」
若い護衛は感心したように頷いた。
「やっぱり慣れてるんだな。俺はまだ三年くらいなんだ。俺はト・・・」
「名前はいい」
「え?」
「護衛が終わったら別れる。覚える必要がない」
若者はしばらく口を開けたまま固まり、それから信じられないものを見るような顔をした。
「そこまで言う?」
「言った」
「感じ悪いなあ」
「よく言われる」
「友達いないだろ、あんた」
「困ってない」
「否定しないのかよ」
若者が呆れた顔で離れていくのを見送りながら、カイは立ち上がって北門の外へ目を向けた。
街道は北へ向かって延びており、右手には低い丘陵、左には戦争で焼けた森が続いている。少し先で道が緩やかに曲がっているため、その向こうは見えない。
カイは無意識に、丘の高さ、森までの距離、街道の幅、荷車の速度、曲がり角までの距離を順番に確認していた。
待ち伏せをするなら右手の丘。人数が多いなら左の森。先頭を止めるなら街道の曲がり角。荷そのものを奪うなら、むしろ最後尾を潰して退路を塞いだ方がいい。
そこまで考えたところで、カイは小さく息を吐いた。
「癖だな」
軍を辞めてから何年も経つのに、こういうものだけは抜けない。道を見れば危険な場所を探し、建物へ入れば出口を確認し、人が集まっていれば武器を持っていそうな相手を無意識に選別してしまう。
便利ではあるが、平和な生活にはあまり向いていない。
「何を見てる?」
後ろから声をかけられ、振り返ると四十前後の男が立っていた。革鎧は使い込まれているものの手入れが行き届き、剣の柄にも無駄な装飾はない。歩き方を見る限り、ただの傭兵ではなさそうだった。
「何も」
カイが答えると、男は街道を見た。
「何もない場所をずっと見てたぞ」
「何もないか確認してた」
男は一瞬黙った後、カイの剣、銃、立ち位置、そして再び街道へ視線を動かした。
「軍にいたな?」
カイの手がほんの少し止まった。
それを見逃さなかった男が笑う。
「やっぱり」
「何がだ」
「普通の傭兵は街道を見る。元兵士は地形を見る」
男は右手の丘を示した。
「どこから撃たれるか」
次に左の森。
「どこに敵が隠れるか」
そして曲がり角。
「どこで足止めされるか」
最後に荷車へ視線を向ける。
「どこで味方が死ぬか」
カイは男を見た。
「詳しいな」
「俺も元兵隊だ」
「聞いてない」
「本当に愛想がないな」
「それもよく言われる」
男は声を上げて笑った。
「帝国か?」
「違う」
「連邦?」
「違う」
「なら王国軍だな」
カイは答えなかった。男はそれだけで納得したらしい。
「当たりか」
「勝手に決めるな」
「違うなら否定すればいい」
「面倒だ」
「それは肯定と同じだぞ」
カイは小さく舌打ちした。今日は妙に勘のいい人間が多い。
「階級は?」
「聞きすぎだ」
「じゃあ将校だった」
「なぜそうなる」
「動きがそう見える」
「適当だろ」
「適当だ」
男は笑いながらそれ以上聞かなかった。その程度の距離感なら、カイとしてもありがたかった。
「出発するぞ!」
商人の声が響き、御者たちが手綱を握った。馬が鳴き、車輪が軋みながら動き始める。
輸送隊は王国の旗が掲げられた北門を抜け、街道へ出た。カイは自然と最後尾近くへ回った。
先ほどの若い護衛が横へ並ぶ。
「最後が好きなのか?」
「別に」
「ずっと最後の荷車見てるだろ」
「荷を奪うなら、逃げ道を潰した方が早い」
「どういう意味だ?」
「先頭を襲えば、後ろは逃げる。最後尾を止めれば、全部詰まる」
若者は数秒考え、露骨に嫌そうな顔をした。
「怖いこと言うなよ」
「護衛なんだから考えろ」
「今回、そんな危険な道だって聞いてないぞ」
「俺も聞いてない」
「なら大丈夫だろ」
「安全ですって言われた場所ほど信用するな」
「何でだよ」
「本当に安全なら、わざわざ説明しない」
「性格悪いなあ」
「よく言われる」
「それ便利すぎるだろ」
カイは返事をせず、街道の先へ視線を戻した。
しばらく進むと、町の建物は少なくなり、代わりに戦争の傷跡が目につくようになった。
砲撃で抉れた大穴、倒壊した監視塔、半分土に埋まった装甲車両、赤い杭と縄で囲まれた土地。「立入禁止」「魔力汚染」「地雷危険」と書かれた看板が何度も現れる。
それでも、そのすぐ横では人々が普通に生活していた。
老人が畑を耕し、女が洗濯物を干し、子供たちは壊れた軍用箱を椅子代わりにして遊んでいる。一人の少年が錆びた鉄兜をかぶって走り回り、母親らしき女に慌てて取り上げられていた。
世界が壊れたところで、人間は生きることをやめない。
家が焼けても、腹は減る。国が勝とうが負けようが、眠くなれば眠る。親を失った子供でも、遊べる場所を見つければ遊ぶ。カイは、そういうものの方が信用できた。
国家が掲げる大義よりも、宗教が語る救済よりも、英雄の伝説よりも。少なくとも、腹が減った人間が飯を欲しがる理由は分かりやすい。
昼前。
輸送隊は小さな検問所で止められた。王国軍の旗の下に簡易柵が置かれ、兵士が五人ほど立っている。そのうち二人は明らかに若く、戦争末期か、あるいは戦後に入隊した兵士だろう。
一人が前へ出た。
「停止してください。積荷を確認します」
声が硬い。案の定、商人が嫌そうな顔をする。
「またか! 南の検問でも全部確認されたぞ!」
若い兵士が少しだけ身体を強張らせた。
「規則です」
「こっちは急いでいるんだ」
「ですが――」
「戦争は終わっただろ!」
兵士が言葉に詰まる。商人は勢いづき、さらに何か言おうとしたが、その前にカイが口を挟んだ。
「確認させればいいだろ」
商人が振り向く。
「何だと?」
「聞こえなかったか」
「お前は私の護衛だろう!」
「そうだ」
「なら少しは融通を利かせろ!」
「賄賂でも渡すか?」
「誰がそんな話をした!」
周囲の護衛が笑いを堪え、商人の額に青筋が浮いた。
「戦争は終わったんだぞ!」
「だからだ」
「何?」
「戦争が終われば兵士が余る。武器も余る。仕事がなくなる奴も増えるし、昨日まで軍用だった物資が、今日は市場に流れる」
カイは街道の先へ視線を向けた。
「密輸も増える。盗賊も増える。検問を減らす理由にはならない」
商人はしばらく黙った。
「お前は軍の味方なのか?」
カイは少し考えてから首を振った。
「別に。ただ、仕事してる奴の邪魔をする理由もない」
それだけ言うと、商人も渋々引き下がった。
「さっさと済ませろ」
「はい!」
若い兵士が積荷を確認し始める。カイは荷車にもたれながら、その様子を眺めていた。
王国軍。かつて自分が所属していた場所。
軍服を見るだけで嫌悪するわけではないし、懐かしさを覚えるわけでもない。ただ、自分がいたという事実と、今そこへ戻りたいかどうかは全く別の話だった。
やがて確認を終えた兵士が、カイたちのところへ戻ってくる。
「問題ありません。ご協力ありがとうございました」
丁寧な敬礼。カイは軽く手を上げるだけで返した。兵士は少し迷った後、小さな声で聞く。
「軍にいらしたんですか?」
カイは眉をひそめた。
「今日はそればかり聞かれるな」
「すみません。ただ、立ち方が教官に似ていて」
カイは自分の足元を見る。
「そんなにひどいのか」
「ひどい?」
「何でもない。忘れろ」
「はあ…」
荷車が動き始める。
検問所を抜けて少しすると、先ほどの若い護衛がまた横へ来た。
「意外だった」
「何が」
「軍人嫌いかと思ってた」
「嫌ってない」
「でも王国軍には戻らないんだろ?」
カイは横目で若者を見る。
「国と、そこにいる人間は別だ」
「同じじゃないのか?」
「同じなら楽だっただろうな」
若者は意味が分からないという顔をした。
カイはそれ以上説明しなかった。
国家を信用しないからといって、国家に所属している人間全てを嫌うほど単純ではない。逆に、立派な国に所属しているから、その人間も立派だと考えるほど素直でもない。肩書より、何をするか。少なくとも今のカイは、その方を信用していた。
日が傾き始めた頃。
輸送隊は街道沿いの宿場へ到着した。
宿場と呼ぶには少々ひどい場所で、石造りの建物の半分は崩れ、残った部分へ木材を継ぎ足して何とか営業を続けている。戦前の石壁と戦後に組まれた新しい木材が同じ建物に混在しており、まるで世界そのものを無理やり繋ぎ合わせたようだった。
「今日はここまでだ!」
商人が声を上げる。
「明日は早い。飲みすぎるなよ!」
「自分に言ってるのか?」
誰かの声に笑いが起き、商人が怒鳴り返す。カイは荷物を置くと、一人で宿の外へ出た。
人が多い場所はあまり好きではない。
酒に酔った傭兵の自慢話を聞くくらいなら、外で風に当たっている方がましだった。
夕暮れの先には焼けた集落が見える。黒い柱だけが残った家々の周囲を草が覆い始めており、戦争の跡を自然が少しずつ飲み込もうとしていた。あと十年もすれば、この景色も変わるのだろう。
その頃には別の場所で、新しい戦争の跡が増えているかもしれないが。
宿の中から話し声が聞こえる。
「帝国はまた軍を増やしてるらしいぞ」
「連邦だって同じだ」
「このままじゃ、また戦争になる」
「王国はどうするんだ?」
「英雄でも出てくればな」
その言葉を聞いて、カイの眉がわずかに動いた。
英雄。
人間は本当にその言葉が好きだ。困ったら英雄。敵が強ければ英雄。戦争が始まっても英雄。
自分たちでどうにもできなくなれば、強い誰か、賢い誰か、特別な誰かを探し出して、その一人に全てを押しつける。そして失敗すれば、「英雄なのに」と責める。カイは、それが嫌いだった。
英雄だって人間だ。腹も減れば眠くもなるし、怖くもなる。失敗もするし、全員を救えるわけでもない。
それでも周囲は勝手に期待する。英雄だから。選ばれたから。特別だから。だから世界を救え、と。
馬鹿馬鹿しい。
世界は一人の人間が剣を振った程度で変わるほど単純ではない。国家も戦争も宗教も、何百万という人間の利害と恐怖と欲望で動いている。どれだけ強い人間でも、一人で全部を背負えるわけがない。
カイはそれを知っていた。
昔は、もう少し単純に考えていた気もする。正しい命令があり、守るべき国があり、倒すべき敵がいる。
そう信じようとすることはできた。今では、それも遠い話だった。
「兄ちゃん」
小さな声がした。カイが顔を上げると、少し離れたところに少年が立っていた。
十歳前後。痩せていて、服は身体に合っていない。大人用の古着を切って使っているのだろう。靴もかなり傷んでいる。
少年はカイを見ていなかった。
視線はその横。荷物袋。正確には、袋の口から少し見えている保存食だった。
「…」
カイは少年を見る。少年もようやくカイを見る。目が合った瞬間、少年の肩が跳ねた。
「何だ」
カイが声をかける。少年は答えない。もう一度、保存食へ視線を向ける。
「腹減ってるのか」
その瞬間、少年は逃げた。驚くほど速かった。
少なくとも、あの痩せた身体から考えれば。
カイはしばらく、建物の影へ消えていく少年の背中を見送っていた。
それから荷物袋を見る。保存食。乾燥肉。水。弾薬。包帯。何も盗られていない。
「……何なんだ」
小さく呟く。
盗るつもりなら盗ればいい、と思わなくもなかったが、実際に手を伸ばされたら止めるだろう。
それはそれで面倒だ。
宿の中から夕食を知らせる鐘が鳴った。カイが立ち上がる。
その時だった。
遠く。丘陵地帯の向こう。青白い光が走った。
「……?」
足を止める。雷ではない。空に雲はない。夕日の反射とも違う。
魔力光。青白い光はほんの一瞬だけ地平を照らし、すぐに消えた。
カイは目を細める。方角としては街道の先。ただし、明日の予定経路からは少し外れている。
今回の依頼とは関係ない。護衛契約は輸送隊を目的地まで運ぶこと。周辺調査も。異常魔力の確認も。遺跡探索も。何もかも契約外だ。
「…関係ないな」
カイはそう呟いた。誰かに言ったわけではない。むしろ、自分へ言い聞かせるための言葉だった。
宿へ戻ろうとする。
一歩。二歩。しかし、そこでまた振り返った。
光はもう消えている。丘と夕暮れだけが残っている。何も起きていない。
少なくとも今は。それなのに妙に胸に引っかかった。軍人だった頃から何度も味わってきた感覚。
まだ誰も危険だと認識していない。報告書にも上がらない。
けれど、何かがおかしい。
空気。音。魔力。人の動き。そういう小さな違和感が積み重なった後には、大抵ろくでもないことが起きる。
風が吹いた。
その風に、ごくわずかだが普通とは違う魔力の感触が混じっている。
「…嫌な感じだな」
結局、カイは何もせず宿へ戻った。
今はそれでいい。仕事とは関係ない。助けを求められたわけでもない。誰かが危険に晒されていると決まったわけでもない。
だったら、首を突っ込む理由はない。少なくとも、この時のカイはそう考えていた。
その夜、輸送隊の人間たちは酒を飲み、食事を取り、明日の行程について話し、いつも通り眠った。
誰もまだ知らない。街道の先にあるものが、ただの戦争の残骸ではないことを。
そしてカイ自身もまだ知らなかった。今は一人で歩いているこの旅が、遠くないうちに一人旅ではなくなることを。
その最初の相手が、英雄でも、騎士でも、王でもなく。
腹を空かせ、傷つき、誰の命令にも従うつもりのない。
ひどく面倒な一匹になることを。
ただ一つ。カイに分かっていたことがあるとすれば。
あの青白い光について。嫌な予感がする。その程度だった。




