値札の向こう側
シアの存在が共和国市場で知られるまで、それほど時間はかからなかった。もちろん王国西部の遺跡や灰性について正式に公表されたわけではない。それでも原界から直接現界した可能性のある未登録召喚生命が共和国へ入り、安全保障評議会が動いたという事実だけで、十分な噂になった。カイが宿の食堂で朝食を取っていると、隣の席に座っていた商人たちが
「王国で古代召喚装置が動いたらしい」
「竜を何十体も呼べるようになる」
「共和国が技術を買い取る」
という話をしていた。どれも話が大きくなっている。
「昨日まで一匹だったのに、もう竜が何十体になったな」
シアへ言うと、本人は皿の肉を食べ続けていた。宿を出たところでカリーナが待っていた。
「随分嫌な顔をしていますね」
「お前が来たからだ」
「失礼ですね」
「今日は何だ」
カリーナは競売目録を差し出した。
「共和国政府から、参考人として一件確認してほしいと依頼されています」
「断る」
「まだ内容を言っていません」
「政府から依頼の時点で嫌だ」
「報酬は出ます」
「内容を聞こう」
カリーナが呆れたように目を細めた。目録には翌日開催される古代遺物と特殊契約の競売品が並んでいた。その中の一つへ印が付いている。《古代施設由来と推定される原界直召喚個体。獣系。契約歴なし。高位戦闘適性あり》カイはもう一度読む。
「古代施設由来?」
「競売主はそう主張しています」
「本当なのか」
「分かりません。だから確認してほしい」
カリーナの表情はいつもより硬かった。
「外交照会の情報が市場へ直接流れたわけではありません。ただ、各国政府が古代召喚技術に関心を持っていることは業界の人間なら察します。その結果、『古代施設から召喚された生命』というだけで価格が急騰し始めています」
「まだ技術があるかどうかも分からないのに?」
「市場は事実が確定するまで待ってくれません」
共和国政府が恐れていたことの縮小版が、すでに民間市場で始まっていた。古代召喚技術に価値があると各国が考える。その噂を商人が聞く。希少な召喚生命の値段が上がる。高く売れるなら、誰かが無理にでも捕まえようとする。
「俺が見て分かるのか」
「あなたは実際に古代施設からシアが現界する場面を見ている唯一の国外民間人です。施設由来の痕跡が似ているか、それだけでも参考になります」
「断定はしないぞ」
「それで構いません」
「そういえばなんでお前が共和国政府の依頼を持ってくるんだ」
「便利だからでしょ。国付きの召喚契約仲介人であなたと面識がある。それだけです」
顔をしかめて、カリーナは答えた。
競売は共和国中央市場の地下施設で行われた。政府認可の競売場であるため、犯罪組織の隠れ家のような雰囲気はなく、客席には商会主、外国人研究者、貴族、魔導技術者まで座っている。取引される品物の大半も合法だった。古代文明の破損した魔導回路へ、カイが数年間働いても届かないような額が付く。
「何に使うんだ」
「分からないから買う人もいます」
カリーナが答えた。
「金持ちの考えることは理解できない」
「あなたもシアの食費にはかなり使っているでしょう」
「一緒にするな」
問題の召喚生命が壇上へ運ばれてきた時、会場の空気が変わった。黒褐色の毛を持つ大型の四足獣だった。身体には複数の封印具が装着され、首元の金属環から細い魔導線が伸びている。瞳は開いているものの反応が鈍く、明らかに正常な状態ではない。カイは椅子から少し前へ身体を傾けた。
「古代施設から出てきたように見えますか?」
カリーナが小声で聞く。
「分からない。ただ、シアとは違う」
「何がです」
「あいつは出てきた直後、怖がってたし飢えてた。でも自分で動いてた。こいつは何かで抑えられてる」競売人が説明を始めた。
「原界由来獣系生命。取得者提出資料によれば、無政府領域周辺の古代施設から現界した希少個体です。契約適性は現在調整中ですが、専門的処置によって戦闘契約へ移行可能と評価されています」
「調整?」
カイが聞く。カリーナの声が冷たくなった。
「精神抵抗を抑えている可能性があります」
入札が始まる。金額は瞬く間に上がった。通常の召喚生命の何倍もの額になっても札が上がり続ける。買い手が欲しがっているのは目の前の一匹だけではない。《古代施設由来》という肩書だった。各国がまだ存在すら確かめ切れていない新しい戦略資産へ、市場が先に値段を付けている。
「止めないのか」
「安全保障局が証明書を照会しています」
「見れば怪しいだろ」
「怪しいだけでは国家は財産を没収できません」
「自由の国は面倒だな」
「私も時々そう思います」
競売額がさらに上がった時、会場後方の扉が開いた。共和国警備隊と安全保障局員が入り、その中央をオルフェンが歩いてくる。競売人が説明を止めた。
「取引を一時停止してください」
「評議員、こちらは政府認可の契約資産です」
「その認可の前提となった取得証明が虚偽です」
ざわめきが広がった。オルフェンは資料を掲げる。
「記載された古代施設は存在していません。提出された位置には戦前から鉱山集落があり、古代遺跡の記録も魔力異常もない。さらに、この個体の魔力構造から通常の違法召喚術式による拘束痕が確認されました」
「それだけで我々の責任とは――」
「輸入経路も偽装されています」
警備隊が壇上を囲む。その時、競売主側の男の一人が突然、檻の横にある制御具へ手を伸ばした。
「止めろ!」
カリーナが叫ぶ。金属環が赤く発光し、黒褐色の獣が激しく身体を震わせた。次の瞬間、封印具の一つが壊れ、獣が檻へ身体をぶつける。客席で悲鳴が上がった。
「客を外へ!」
カイは反射的に立ち上がった。警備隊員が避難誘導を始めるが、興奮した獣は二度、三度と檻へ体当たりし、扉の蝶番が歪んでいく。カリーナが結界を張る。
「精神制御が逆流しています。このままだと完全に暴走します」
「解除できるか」
「近づければ。ただし私を敵と認識する可能性があります」
カイは剣へ手を伸ばした。殺すためではない。檻の扉が壊れた。獣が飛び出し、最も近くにいた警備隊員へ突進する。カイは身体強化で間へ入り、剣の腹を使って爪を逸らした。まともに受ければ腕ごと持っていかれそうな力だったが、動きには戦う意思より混乱が強い。
「お前も好きでやってるわけじゃないんだろ」
当然返事はない。二度目の突進を風で横へ流し、床へ転がす。
「今だ」
カリーナが接近し、首元の制御環へ契約解除術式を流し込む。しかし制御具が抵抗し、黒い魔力が彼女の腕へ跳ね返った。カイは獣の正面へ立ち、注意を引く。
「こっち見ろ」
牙が向く。それでも剣先は下げたままにした。遺跡の中でシアと向き合った時と同じだった。危険だから殺すという判断は簡単だ。だが、危険になった原因を作ったのが人間なら、その前にできることがある。カリーナが二度目の術式を通す。金属環に亀裂が入り、最後に小さな音を立てて外れた。獣は数歩よろめき、その場に倒れた。静かになった会場で、カイは剣を鞘へ戻した。
「古代施設由来じゃなかったな」
カリーナが息を整えながら答える。
「ええ。ただ、買い手はそう信じただけで何倍もの金を出した」
オルフェンも倒れた獣を見る。
「これが、照会を急いだ理由の一つでもあります」
「こいつの事件は後からだろ」
「事件そのものではありません。期待が生まれれば、現実がそれに追いついていなくても人間は動くという意味です」
古代召喚技術が実用化されたかどうかは、まだ誰にも分からない。それでも国家は軍事計画を考え、市場は値段を付け、犯罪者は偽物まで作り始めた。カイはその広がり方を見て、ようやくエドムントがあれほど急いで情報を隠した理由を完全に理解した気がした。一匹の獣が出てきただけではない。




