危険だからこそ
エルヴィラから干し肉を受け取るまで、シアはわずかに時間をかけた。相手が肉を差し出しているにもかかわらず、すぐには口をつけず、まずカイの方を見る。宿場町で食事を与えるようになってから身についた小さな習慣であり、カイが何も言わないでいると、シアはもう一度肉の匂いを嗅いだ。
「食っていい」
許可を聞いてから肉を受け取ると、エルヴィラは興味深そうにその様子を見ていた。
「よく躾けている」
「躾けてない。勝手に覚えた」
「同じことだろう」
「違う」
「相変わらず細かい男だな」
エルヴィラは方面軍総監という立場にありながら、中央官僚より前線へいる時間の方が長い人間だった。カイが軍にいた頃から現場の兵士と同じ食堂へ入り、装備が足りなければ補給担当者を直接怒鳴りつけ、作戦に無理があると思えば王族相手でも遠慮なく反対することで知られていた。そのため、カイにとっては非常に困った種類の軍人だった。国家や軍という組織そのものを嫌う理由はいくらでも挙げられるのに、その中に実際に兵士を守ろうとする人間がいると、簡単には全体を切り捨てられなくなる。
「前線から戻ったのか」
「停戦したからな。今は兵を戦わせる仕事より、帰す仕事の方が多い」
「そっちの方が難しそうだ」
「分かっているじゃないか。戦場では千人単位で動かしていた人間を、停戦した瞬間から一人ずつ家へ返さなければならん。帰る家がない奴、部隊しか居場所がない奴、怪我で以前の仕事へ戻れない奴もいる。それを軍服を脱がせれば終わりだと思っている官僚が多すぎる」
「俺に言うな」
「お前もその一人だっただろう」
「だから辞めた」
エルヴィラは何か言いかけたが、結局それ以上は続けなかった。中央庁舎でシアの処遇を決める会議が始まったのは、その日の夕方だった。カイとしては検査が終わった以上すぐに宿へ戻りたかったが、本人不在で所有権や隔離措置を決められてはたまらないため、仕方なく出席することになった。シアも会議室へ連れていこうとすると、一部の官僚は危険だと反対したものの、
セラフィナが「本人の処遇を決める場から本人を排除する方が問題です」と主張し、最終的にはカイの足元に伏せる条件で認められた。長い机の向こうには、第一王女エレノア・アルセイン、情報局長ミレイユ、エルヴィラ、国家保全庁のエドムント・ケラー、セラフィナ、トビアスのほか、軍務省や内務省の官僚が座っていた。エレノアと会うのも久しぶりだった。細身で端正な顔に、穏やかさと決断力を併せ持つ深い青の瞳をもち、髪は淡い金髪を胸元まで伸ばし、普段は低い位置で編み込んだハーフアップで第一王女という立場にありながら、過剰な装飾を好まないところは以前と変わらない。戦争が終わったばかりだからか表情には疲れが見えたが、カイが部屋へ入ると立ち上がるでもなく、かといって王族らしく礼を要求することもなかった。
「久しぶりですね、カイ」
「その挨拶を今日だけで何回聞いたか分からない」
「王都へ戻らないからでしょう」
「戻る理由がない」
「今回は作ってしまいましたね」
カイはため息をついて席へ座った。会議が始まると、最初にセラフィナから検査結果が説明された。シアは獣系の原界由来生命であり、灰性発現が強く、捕食した魔力や物質へ身体を適応させる可能性が高い一方、能力使用によって飢餓や身体変異が悪化する危険がある。カイとの間には弱い契約経路が確認できるものの、一般的な召喚士が用いる支配的な命令系統とは異なり、少なくとも現在は強制力が非常に低い。説明が終わると、軍務省側の官僚が口を開いた。
「つまり、制御不能な可能性があるということです」
「制御不能ではなく、強制命令が確認できないと言いました」
セラフィナが訂正する。
「同じことでは?」
「全く違います。人格を持つ存在が自分の判断で行動することを、制御不能とは呼びません」
「人間ならそうでしょう。しかしこれは原界生命です」
カイの足元でシアの耳が動いた。言葉の意味を理解したわけではないとしても、声の調子から自分が話題になっていることは分かるらしい。別の官僚が資料をめくった。
「現地報告では、古代機械の装甲を摂取し身体を変化させた後、魔力核へ強い執着を示し、制止したレイヴァン氏へ噛みついています。市街地で同じ状態になった場合、被害が出てからでは遅い」
その指摘自体は間違っていなかったため、カイは反論しなかった。
「したがって、安全性が確認されるまでは王立魔術院または軍の管理施設へ隔離し、研究対象として――」
「待て」
低い声で遮ったのはエルヴィラだった。官僚が言葉を止める。
「今、研究対象と言ったか」
「安全性評価の意味です」
「なら安全性評価と言え。言葉を変えただけで扱いまで変わる」
「しかし、未知の能力を持つ原界生命です」
「未知だから調べることには反対していない」
エルヴィラは机の上に両手を置いた。
「危険性があることも否定しない。だが、現時点でこいつが実際に襲った人間はいるのか」
官僚は資料を見る。
「ありません」
「なら、危険かどうかを調べるのは構わんが、何もしていない相手を先に敵と決めるな」
会議室が静かになった。エルヴィラは続ける。
「戦争中、我々は何度も同じことをやった。敵国の人間だから危険だ、魔族だから危険だ、外来系だから信用できないと、所属や生まれを先に見て人間を決めた。その結果がどうなったかを、停戦から一月も経たずに忘れたのか」
「しかし、国家として最悪を想定する義務があります」
今度はミレイユが言った。
「私は隔離案そのものを否定しません。シアが暴走した場合、王都の人口密集地域では被害規模を予測できない。本人の権利と市民の安全を同時に考える必要があります」
「それならレイヴァンも一緒に隔離しておけ」
エルヴィラが平然と言った。
「なぜ俺まで入る」
「こいつがお前のそばで最も安定しているなら、その方が合理的だろう」
「合理的に人を牢へ入れるな」
エレノアが思わず小さく笑い、すぐに表情を戻した。それまで黙っていたエドムント・ケラーが資料から顔を上げた。
「問題はもう一つあります」
柔らかな声だった。エドムントは栗色の髪を几帳面に整えて大きめの顔と穏やかな目元の持ち主で一見すると軍人にも情報機関員にも見えず、王国の中級官僚と言われても違和感のない落ち着いた男で善良そうに見えるが視線には圧があり、カイは以前から、この種の人間の方が正面から武器を持つ者より厄介な場合があることを知っていた。
「シアの能力だけではありません。古代施設そのものです」
トビアスが反応した。エドムントは続ける。
「王国西部の放棄遺跡が、カイの接触によって未確認区画を開放し、原界への接続を成立させた。その情報が国外へ流れれば、研究者だけでなく軍事組織、企業、違法召喚業者まで動くでしょう」
「もう流れてる可能性は?」
カイが聞く。
「あります。だから、すでに現地記録の一部を国家保全指定へ切り替えました」
「勝手に?」
「あなたの許可が必要な情報ではありません」
「そういうところが嫌いなんだよ」
「知っています」
エドムントは全く気にした様子を見せなかった。エレノアが議論を整理する。
「シアを強制隔離すれば、本人の意思を無視することになります。一方で、何の条件もなく王都を自由に歩かせるには情報が足りない。暫定措置として、王都滞在中はカイと同行し、セラフィナによる定期的な確認を受ける。戦闘目的の捕食や魔力核の摂取は禁止する。ただし、シア本人が拒否する検査を強制しない。この条件ではどうでしょう」
軍務省側には不満が残ったものの、エルヴィラとセラフィナが同意し、ミレイユも現実的な妥協案として反対しなかった。カイは足元を見る。シアは長い会議に飽きたらしく眠りかけている。
「俺に聞かれても、こいつが納得するかは分からないぞ」
「では、あなたから説明してください」
エレノアが言った。
「無理を言うな」
それでも、強制的に檻へ入れられるよりはましだった。会議が終わった後、エルヴィラは残っていた干し肉をもう一つシアへ投げた。シアは今度はカイを見ずに受け取り、そのまま食べ始める。
「おい」
カイが言うと、エルヴィラが笑った。
「私なら食わせてもいいと覚えたらしい」
「覚えるところが偏ってる」
「十分だ。次に会った時も覚えているか試してみよう」
何気ない一言だった。カイもその時は深く考えず、
「肉を持っていればな」
と答えただけだった。




