【第8話】血塗れの戴冠式
王都に、灰が降っていた。
昨夜の暴動で焼け落ちた大聖堂の一部から、まだ黒煙が立ち上っている。
石畳には割れたステンドグラスの破片が散らばり、冷たい朝日を鈍く反射していた。
王宮の回廊を、エリーゼは静かに歩いていた。
純白の法衣の裾が、焼け焦げた灰をわずかに掠める。
昨夜、何万の民衆の前で王家の権威は死んだ。
そして同時に、多くの人間が傷つき、血を流した。
《……本当に、これで良かったのでしょうか》
彼女の瞳には、まだ消えない光景が焼き付いている。
泣き叫ぶ病人。
踏み倒される人々。
怒号と絶望。
自分が沈黙を選んだからこそ起きた地獄だった。
(ええ。必要な破壊でしたわ)
脳内に響くヴィクトリアの声は、以前よりわずかに掠れていた。
だが、その気高さだけは微塵も揺らいでいない。
(あの腐った王家は、いずれ必ず民を食い潰していました)
(崩壊は、先延ばしにされていただけ。あなたはそれを、最小限の犠牲で終わらせたのです)
《でも……私は奇跡を使えたかもしれない》
(違いますわ)
ヴィクトリアの声が、静かに遮った。
(あの場で奇跡を使えば、王家は再び『神に選ばれた支配者』として延命した)
(そして彼らは、今後も何十年も、民を搾取し続けたでしょう)
(あなたは、偽りの神託を拒絶したのです)
エリーゼは胸元を押さえた。
服の下に隠された呪具は、昨夜から異様な静けさを保っている。
まるで術者そのものが、機能停止したかのように。
その時だった。
長い回廊の先から、慌ただしい足音が響いてくる。
王宮侍従たちだ。
彼らはエリーゼの姿を見つけた瞬間、青ざめた顔で跪いた。
「せ、聖女様……! 大変でございます!」
「国王陛下が……昨夜の混乱で、倒れられました!」
エリーゼの瞳が細められる。
ついに来た。
王家崩壊の連鎖反応だ。
「それで?」
静かな問い。
侍従は唾を飲み込んだ。
「第一王子フェリクス殿下は、暴徒鎮圧の失敗と国庫破綻の責任を問われ……現在、王族会議によって幽閉されております」
《……っ》
エリーゼの胸に、奇妙な感覚が走る。
復讐を果たした達成感ではない。
もっと冷たく、空虚な感覚だ。
あれほど憎んだ男が、あまりにも呆気なく崩れ落ちていく。
まるで最初から、中身など空っぽだったかのように。
(当然の帰結ですわ)
(無能な人間ほど、自分の失敗を他人への支配で誤魔化そうとするものです)
ヴィクトリアは淡々と言い放つ。
だがその直後、彼女の魂がわずかに揺らいだ。
《ヴィクトリア様?》
(……なんでもありませんわ)
隠そうとしている。
だが魂を共有している今のエリーゼには分かってしまう。
ヴィクトリアの存在そのものが、急速に薄れていることに。
昨夜、呪具の出力を受け止め続けた代償。
彼女は確実に、消滅へ近づいていた。
《嫌……っ》
エリーゼの呼吸が乱れる。
《だめ……! 私、まだ何も返せていません!》
《ヴィクトリア様がいなくなったら、私は……っ》
(こら。そんな顔をしないの)
優しく、けれど少し困ったような笑み。
ヴィクトリアはエリーゼの魂を、柔らかく撫でた。
(わたくしは、あなたを守れた。それだけで十分ですわ)
(あなたが、自分の足で立てるようになった。それだけで……)
《違います!》
エリーゼは、初めてヴィクトリアの言葉を遮った。
《私はまだ、一人では立てません!》
《ヴィクトリア様がいない世界なんて、そんなもの……っ》
その瞬間だった。
廊下の窓ガラスが、突如として激しく震えた。
――キィィィン。
耳障りな高音。
服の下に隠された銀のペンダントが、突然、真紅の光を放ち始めたのだ。
「なっ……!?」
侍従たちが悲鳴を上げて後退る。
呪具の中心に刻まれた魔法陣が、狂ったように明滅している。
そして次の瞬間。
バキン、と。
星型の銀のペンダントに、大きな亀裂が走った。
《ヴィクトリア様!?》
(……しまった。王家側の術者が、呪具の強制再接続を――)
ヴィクトリアの声が、そこで途切れる。
凄まじい激痛が、魂の回線を通じて逆流してきたのだ。
エリーゼの視界が真っ赤に染まる。
脳髄を直接焼かれるような苦痛。
だが、それ以上に恐ろしかったのは。
ヴィクトリアの存在が、急速に引き剥がされていく感覚だった。
《いや……っ!》
エリーゼは胸元を押さえ、絶叫した。
呪具が、ヴィクトリアの魂を“異物”として排除し始めている。
このままでは。
彼女は本当に、消える。
その時だった。
回廊の奥から、冷たいヒールの音が響く。
コツ、コツ、コツ。
第二王女ベアトリス。
そして、その隣にはノア・イリス。
二人は異常事態を一目見て、表情を変えた。
「……なるほど。王家の呪術師ども、最後の悪あがきを始めたのね」
ベアトリスは忌々しげに目を細める。
ノアは、砕けかけたペンダントを凝視した。
そして灰色の瞳を、大きく見開く。
「その術式……まさか、『魂の固定化』か!?」
《固定化……?》
「古代帝国の禁術ですよ!」
「本来、生者に寄生した魂は長期間存在できない! だから呪具を楔にして、無理やり現世へ縫い止めていたんだ!」
ノアの言葉に、ベアトリスが舌打ちする。
「つまり、その呪具が壊れれば?」
ノアは唇を噛み締めた。
「ヴィクトリア様の魂は、この世界に留まれない……!」
沈黙が落ちる。
エリーゼの顔から、血の気が引いていった。
嫌だ。
やっと出会えたのに。
やっと、この人が自分を見つけてくれたのに。
失いたくない。
その瞬間。
エリーゼの奥底で、何かが決壊した。
彼女は、砕けかけた呪具を両手で握りしめる。
そして、涙で滲む視界のまま、静かに呟いた。
「……なら、壊してしまいましょう」
「え?」
ベアトリスが目を見開く。
エリーゼは、ゆっくりと顔を上げた。
その琥珀色の瞳には、かつてない狂気的な熱が宿っている。
「王家の呪具だから、ヴィクトリア様を縛るんです」
「なら……こんなもの」
「完全に壊してしまえばいい」
パキ、と。
彼女の指先に、淡い金色の光が宿った。
これまで一度も使われなかった、聖女本来の奇跡の力。
だが今、その力が向けられているのは。
病人を救うためではない。
王家の支配そのものを、焼き切るためだった。




