【第7話】ピエロの終幕
大聖堂のバルコニー。
秋風が、重苦しい沈黙を切り裂く。
眼下の広場を埋め尽くす何万の民衆。
彼らの顔に張り付いていた祈りは、すでに凄惨な絶望へと変貌していた。
病人の苦痛のうめき声だけが、無慈悲に響き続けている。
「エリーゼ……ッ! お前、なにをしている! 早く祈れと言っているだろうが!」
フェリクスは血走った目で怒鳴り散らした。
豪華な礼服が不安の汗で張り付き、金糸の刺繍がみすぼらしく光っている。
見せかけの奇跡で経済を立て直すという、薄っぺらな賭けが崩壊したのだ。
現実を受け入れられない彼は、狂ったように何度も指を鳴らした。
エリーゼの胸元の呪具が、致死量の赤黒い熱を放つ。
本来なら、生者の精神を焼き切るほどの拷問の炎。
だが、その激痛はエリーゼの白い肌には一切届かない。
(あの傲慢な男の絶望を見届けるまで。わたくしは消えませんわ)
(愛おしいあなたを守り抜くまで、決して……)
奥底で限界を迎えているヴィクトリアの魂。
彼女は狂気的なまでの執念で、迫り来る痛みの波をせき止め続けている。
その気高い自己犠牲に応え、エリーゼは瞬き一つしなかった。
彼女の澄んだ瞳はフェリクスを素通りし、すでに彼という存在を視界から完全に消し去っていた。
かつて怯えていた小鳥の面影は、もうどこにもない。
「どうしてだ……! どうして痛がらない! どうして僕の言うことを聞かないんだ!」
特賓席から盤面を見下ろすベアトリスは、扇を閉じた。
彼女の配下たちはすでに広場の各所に潜み、この異常行動を待っていた。
王子の怒声の瞬間に『これだ』と判断し、一斉に扇動を開始する。
商人層の密集地帯から『聖女様に暴力を!』と声が上がる。
下層民の区画から『王家の悪魔だ!』と怒号が続く。
それらの声が、次々と広場全体へ広がっていく。
だが、数万の群衆にはまだ、大聖堂に突入する心理的躊躇があった。
神の象徴である王家に、本当に牙を剥くのか。
広場に渦巻くのは、爆発寸前の迷いと停滞。
一方、バルコニーのフェリクスは極限の混乱に達していた。
呪具が効かない。完全に彼女に支配されている。これは許されない反逆だ。
力で支配を取り戻すしかない。彼はそう、計算的判断を下す。
彼は歩み寄り、大きく右腕を振り上げた。
パン、と。その音は、期待と現実の衝突音そのものだった。
エリーゼの白い頬に、痛々しい赤い手形が浮かび上がった。
衝撃で顔は弾かれたが、彼女の足元は一歩も揺るがない。
ゆっくりと顔を戻したエリーゼの表情には、路傍の石ころを眺める無関心さだけがあった。
「……手が、痛くはありませんか? 殿下」
氷のごとく透き通った声。
フェリクスは、殴った己の指が微かに震えている事実に気づいた。
力で支配するはずだった。だが、殴ってしまった。もう後戻りできない。
計算は完全に崩壊し、圧倒的な絶望だけが彼を包み込んだ。
その光景は、広場の群衆に焼き付けられた。
王族による野蛮な暴力。それが、民衆の躊躇を突き破る決定的な触媒となったのだ。
最初の一人が動き出し、それに続くごとく集団的暴動が火を噴く。
群衆の密集地点で、ベアトリスが放った配下たちが戦略的に『行け、行け』と叫ぶ。
門前で『道を開けろ』と群衆を誘導し、あたかも民意であるかごとく集団心理を操作する。
商人の絶望の叫び、農民の怒りの吼え、貴族の困惑の声が、一つの獣の鳴く音へと変わる。
怒り狂った民衆が、ついに大聖堂の門を突破した。
重厚な金属の門扉がひしゃげ、近衛兵たちの悲鳴が響き渡る。
古い王家が焼け落ちる熱気を背に、ベアトリスは裏口へと消えていった。
バルコニーのフェリクスは、大理石の床に無様に這いつくばっていた。
「ま、待て……! 僕は王子だぞ! どうして僕を守らない!」
「僕に逆らうな……! 誰か、助けろ!」
側近たちすら暴動の恐怖から逃げ出し、彼は完全に孤立した。
エリーゼは静かに踵を返し、純白の法衣の裾を翻す。
(……見事な終幕ですわ、エリーゼ。あの傲慢な男にふさわしい、最高の喜劇)
内側から響くヴィクトリアの声は、極上の歓喜に震えていた。
だが、限界の激痛に耐え抜いたその魂は、今にも消え入りそうに揺らいでいる。
《……はい。ですが、これはまだ終幕ではありません》
エリーゼの心に、勝利の甘い余韻など微塵もなかった。
背後で泣き叫ぶ男の声も。眼下の広場で苦しむ、見捨てた病人たちのうめき声も。
すべてを自分の意思で切り捨てたのだ。その絶望の音は、きっと一生、彼女の耳から離れることはない。
《私たちが犯した大罪の償いは、ここから始まるのです。私はこの血に塗れた重圧から決して逃げず、生きていきます》
《私が新しい世界を築くところを、どうか見届けてください。お願いです、ヴィクトリア様……私を一人にしないでください》
引き返せない罪を背負う悲壮な覚悟と、たった一人の理解者への切実な祈り。
二人の気高き反逆者は、足音を立てず、ただ風のごとく去っていった。




