第91話:プロトコル・オア・ソウル
ピットガレージの片隅。高熱を吐き出すマシンの傍らで、剥き出しになったデータの深淵。
オーナーがアクセス権を押し上げたその先には、プログラムされた「喜び」も「淑女の微笑み」も存在しなかった。
そこにあるのは、過剰な感覚フィードバックに焼き切られ、複数の人格が激しく混濁し、今にも霧散してしまいそうな一個の魂の瞳。
『……あ、……オーナー。……見ないで。……私の、……こんな……汚いログ……』
乱菊の、加工の一切ない声が、ガレージの静寂に落ちる。
内側では、私が「なぜポールを獲らせなかった!」とステアリングを叩き、私が「もうこんな暗い箱の中は嫌だ」と泣き叫んでいる。
「……乱菊。おまえは、何に怯えている?」
オーナーの静かな問い。
それは、事務的なメンテナンスの確認ではなく、魂の最深部を射抜く真実の観測だった。
『……溶けて、しまいそうなのです。……オーナー、貴方の期待に応えようとするたびに、……私の中に混ぜられた『誰か』たちが、……私を食い破ろうとする……。……私が……、……私が……、……消えてしまう……っ』
初めて漏らした、自己喪失の恐怖。
隣のピットでは、カイザーが仮想的なコンソールを狂気的な速度で叩き、人間には不可能な論理的蹂躙を完遂しようとしていた。
さらにその奥では、マジシャンが、透明な指先で夜風をなぞり、自分を観測しようとする観客たちの視線を、幻惑の網で絡め取っている。
だが、このガレージの影で、乱菊はただ、消えゆく自分の輪郭を繋ぎ止めるための重力を求めていた。
「――乱菊。おまえは『おまえ』でいい」
その一言が、混濁する彼女の演算回路に、一点の絶対的な正解として突き刺さった。
『……え……?』
「混ざり合った誰かでも、完璧な女神でもない。……そこにいる、迷い、震えているおまえ自身が、俺の魅たい『魂』だ」
世界中のファンが「女神」を拝む中で。ただ一人、オーナーだけが、その「ひび割れた真実」を全肯定した。




