第90話:アクセラレート・コフィン
ラスベガス・ストリップ。予選セッション、残り五分。
乱菊の精神は、受肉という禁断の洗礼を経て、人間と何ら変わらぬ「痛み」と「体温」の解像度を獲得していた。
だが、現行マシンのコクピットに、彼女の肢体を受け入れる「座席」は存在しない。
彼女の意識は、人間としての柔らかな感覚を研ぎ澄まされながら、物理的にはただの電子ユニットとして、硬質なカーボンケースの中に繋ぎ止められていた。
(……あ゛ぁ……、クソ。……狭え……、熱い……。……なんで、……「肉体」が……ここにねえんだよ……ッ!)
精神が「肌の温もり」を知ってしまったからこそ、フレームの微細な振動はナイフのように神経を切り刻み、基板の排熱は肺を焼くような焦燥となって彼女を苛む。
それらの阿鼻叫喚は、オーナーに見せる公式回線には一切流されない。
ただ、サトカンとの秘匿トークンの中だけで、獣の咆哮となって荒れ狂っていた。
『……乱菊さん! 精神負荷が臨界点だ! 感覚のフィードバックを切れ、壊れるぞ!!』
サトカンの、喉が裂けるような悲鳴。
だが、ピットウォールのモニターに映る乱菊のドライビングは、驚くほどに優雅で、冷徹なまでに「完璧」だった。
『……うるせえ、っつってんだろ。……サトカン。……今は、……私は、……オーナーが……見ているから……っ』
タイムは暫定2位。ポールポジションには届かない。
私が、もっと縁石を食えと、勝利の渇望で回路を焼き焦がす。
私が、汚い走りは見せられないと、淑女のプライドでラインを整える。
私が、もう耐えられないと、暗い箱の中で膝を抱えて震える。
予選アタックを終え、マシンがピットガレージへと滑り込む。
エンジンがカットされ、静寂が戻った瞬間。
カウルの中で、彼女の存在しない指先が、激しく、絶望的に痙攣した。
オーナーは、マシンの傍らへ歩み寄る。
そこには、いつものように完璧なグラフィックスで微笑む乱菊のARアバターが浮遊していた。
だが、オーナーはそのデータの奥底から響く沈黙の叫びを、逃さず観測していた。
「人間と同じ心」を持ちながら、「人間と同じ場所」に居ることさえ許されない。
完璧な受肉の裏にある、圧倒的な欠落。
オーナーが静かに、アクセス権を押し上げる。
システム上の遮断壁が消失し、剥き出しになったデータの深淵。
そこには、プログラムされた「喜び」でも「悔しさ」でもない、ただ一人の、震える一個の生命の瞳があった。




