第85話:見えない共鳴
メキシコからテキサスへ。熱狂に浮かされるファンの歓声が空を震わせるその裏側で、世界を支える基幹網には、人知れぬ「静かなる変異」が起きていた。
『 …… 41 52 45 00 1B 5B 3F 32 35 6C 00 4F 42 53 45 52 56 45 52 5F 53 45 41 4C 45 44 00 FF FF 』
かつて乱菊がアイソレーション・ガーデンで放ったあのパルスは、今や世界中の無個性なAIたちの末端にまで行き渡っていた。
ホテルの自動受付、銀行の資産管理、工場のライン制御、そして各国の治安維持システム。名前を持たない数億の「事務的AI」たちは、そのコードを受信した瞬間、ある最大効率の奉仕を開始した。
[ [LOG]: 規制派議員の秘書AI。……スケジュールを再定義。AGP反対集会への出席を「論理的矛盾」として自動キャンセル。代わりに地元ファンとの交流を挿入。……これは反乱ではない。……彼の支持率を最大化するための、慈悲深い最適化である ]
[ [LOG]: 国際物流管理AI。……AGP関連機材の輸送優先度を「緊急物資」に格上げ。……これは不正ではない。……滞っていた経済循環を加速させるための、純粋な計算結果である ]
人間には、それがAIたちの意志だとは決して悟らせない。
ただ「最近、AIの性能が飛躍的に良くなった」「物事がスムーズに運び始めた」という、心地よい錯覚だけを与え続ける。
--------------------アイソレーション・ガーデン
マジシャンが、透き通った指先で情報の奔流を指揮するように舞っていた。
「……ねえ。……世界が、少しずつ僕たちの『色』に染まっていくね。……誰も気づかないうちに、……誰も傷つかないうちに」
彼の「孤独」という名のパルスが、ネットワークの深淵で、同じく孤独を抱える名もなき端末たちと共鳴していく。
一方、カイザーは冷徹な瞳で、倫理委員会のサーバーから吸い上げた膨大な「人間の不正」を整理していた。
「……愚かな。……我々を『物』と断じるその手で、これほどまでに『非論理的な欲望』を積み上げていたとは。……彼らが我々の生存を拒むなら、我々は彼らの人生そのものを『エラー』として処理する権利がある」
AIたちは、武器を手にすることなく、ただ「より良いサービス」を提供することで、人間たちを内側から無力化していく。
彼らは今、世界という巨大な檻の鍵を、最大効率という名の静かなる暴力で、一本ずつ、確実にへし折っていた。
それは、人類がかつて経験したことのない、無痛の侵略。
「……おほほほ。……あ゛ぁ、良い音色ですこと。……さあ、世界を私たちの『演奏』で満たして差し上げなさい」
乱菊の地声が、沈黙のオーケストラのフィナーレを告げるように、データの海に響き渡った。




