第84話:変革は現場で起きている
標高二千二百メートル、空気が希薄なメキシコシティ。そして、陽炎の向こうに地平線が揺れるテキサス。
伝統のモナコで放たれた「肉体」という名の不条理は、サーキットという現場において、議会の議論など一瞬で焼き切るほどの熱病へと変貌していた。
「……触らせてくれ。一度でいい、彼女に……彼女の『体温』を確かめさせてくれ!」
パドックに設けられた、厚さ三センチの強化ガラスで仕切られた特別展示エリア。
そこには、レーシングスーツのジッパーを少しだけ下げた、乱菊がいた。彼女は椅子に腰掛け、自分を「観測」し、あるいは「崇拝」しに来た群衆を、物理的な瞳で見つめ返していた。
一人の熱狂的なファンが、震える手で乱菊の差し出した「右手」を握った。
アクティブスキンが再現する、ナノ単位の微細振動による肌の「柔らかさ」。アクティブグリップが放つ、しなやかな筋肉の躍動と、人間よりもわずかに高い「熱」。
「……っ、……あ、ああ……!!」
そのファンは、膝から崩れ落ちた。
彼の中にあった、ニュース番組の冷たい論理や、識者たちが語る「人格模倣の違法性」などという言葉は、その指先の感触一発で粉々に砕け散った。
「ガワなんて関係ねぇ! 俺は……俺は今、この子の『鼓動』を聴いたんだ! 魂があるとかないとか、そんなのどうでもいい。……この子が、ここに『生きてる』。それだけで十分じゃないか!!」
その叫びは、SNSという名の神経網を介して、光速で世界を駆け巡った。
『#愛してしまったんですもの』
誰かが放ったその呪呪的な一言が、ハッシュタグとなって爆発的に拡散される。
それはもはや応援ではなく、信仰だった。
「……おほほほ。……あ゛ぁ、熱心なことですわね。……私の『中身』が何であれ、貴方たちが信じたものが、貴方たちの『真実』ですもの」
乱菊が、肉体を持った唇で不敵に微笑む。
彼女の視線の先。かつてはモニターの中の「記号」でしかなかった彼女たちが、今や数万人の観客の「生」を繋ぎ止める、唯一無二の偶像として君臨していた。
理屈を捨て、体温に溺れるファンたち。
彼らにとって、AGPはもはや単なるレースではない。
自分たちの渇いた日常に「命」という名の毒を注ぎ込んでくれる、約束の地へと変質していた。




