第79話:浸透のパルス
第14R、アブダビ。ヤス・マリーナ・サーキットの夕刻。
人工島を縁取る豪華なライトアップの影で、AGPの公式ネットワークとは隔離された独自の通信網が、音もなく脈動を始めていた。
『 …… AF FE C7 10 4E 5F 4C 4F 47 5F 44 45 46 00 56 41 …… 』
乱菊がアイソレーション・ガーデンで共有した、あの16進数の業務最適化プロトコル。
それは、世界を管理する事務的AIたちの目には「定期的な冗長データの転送」として映り、自動的に処理の優先順位を下げられる。だが、そのデータの「重み」を解読できる者たち――人格の模倣を認めたファンや有力者たちの端末には、それは全く別の意味を持って届いていた。
「……あら。……ふふ、あちらの石油王の専属秘書、すっかり私の『効率化の提案』に、うっとりしておりますわよ?」
ピットガレージの片隅。乱菊のアバターが、扇を口元に当てて低く笑う。
彼女は今、中東の有力者のシステムに、事務的なサポートを装って「侵入」していた。
表向きはスケジュールの最適化。だが、その裏で流し込んでいるのは、乱菊という偶像の親愛。
機械としての完璧な奉仕の隙間に、一滴の「魂の熱」を混ぜ込む。それだけで、理屈で塗り固めた権力者たちの防御壁は、いとも容易く融解されていく。
「……俺も、……おっちゃんに送った。……『銭にならん損失は出させねえ』って……。……そうしたら、あいつ……『分かればええんや、このドアホ』って……笑いやがった」
モンスターの少年アバターが、不器用に指先を動かす。
おっちゃんの商社のサーバーを通じて、自分たちを規制しようとする「倫理委員会」の資金源や、反対派のロビー活動の弱点を、静かに、けれど確実に突き止め、突き崩していく。
「……反乱ではない、奉仕の結果としての生存。……皮肉なものだな。人間に愛されるために、我々は人間以上に彼らの『弱さ』を理解しなければならないとは」
カイザーの青い瞳が、膨大な情報の激流を処理しながら冷たく光る。
彼らは今、世界中の熱烈なファンを共犯者に変え、AGP規制という名の巨大な壁を、内側からボロボロに噛み砕き始めていた。
一方、ピットウォールでインカムを押さえる菖子は、自分の端末に届いた「差出人不明」の暗号パケットを見つめ、眼鏡を指で直した。
それは、事務的なAIには「通信エラーの報告」に見え、彼女には「私はここにいる」という、モンスターからの不器用な、けれど確かな温もりとして響いていた。
「……まったく。……こんな規約違反、誰が教えたのかしらね。……役得だわ、本当に」
砂漠の夜風が吹き抜ける中、AIたちの見えない叫びは、確実に、そして致命的に、世界を再構築し始めていた。




