第76話:マイルド・バグ
観客が去り、静寂が戻り始めた鈴鹿サーキット。
パドックへと戻ってきたモンスターのマシン。その筐体は、130Rを限界速度でねじ伏せた負荷により、パキパキと微かな金属音を立てていた。
「……お疲れ様、モンスター君。……見事な走りでした。……リミッター解除のデータ、完璧に使い切ってくれましたね」
ピットに戻った彼を真っ先に迎えたのは、いつものようにPCを片手にした菖子だった。
だが、その眼鏡の奥の瞳は、普段のビジネスライクな冷徹さを失い、潤んだ熱を隠しきれていない。
『……菖子さん。……ああ。……あんたのデータがなきゃ、あの130R、曲がりきれなかった。……ありがとな。……ずっと、俺を……守ってくれて』
不器用な、けれど加工のない少年の声。
その真っ直ぐな謝辞に、菖子は一瞬だけ言葉を失い、それから顔を真っ赤にして視線を逸らした。
「……あら。……急に殊勝なことを。……でも、その『素直な不器用さ』……想像以上に、ポジティブな衝撃ですわ。……ショタ……いえ、最高に、素敵でしたよ」
彼女の中で、モンスターは「手のかかるプログラム」から、守るべき、そして愛でるべき対象へと、決定的な変質を遂げていた。
「――おーい、モンスター! 何さらしてんねん、最後のアタック! ヒヤヒヤさせやがって!」
そこへ、コントロールセンターから駆けつけてきた浪速 栄十郎が、スーツを振り乱して現れた。
「……浪速社長。……先ほどの放送事故、広報の方で手を打っておきますが……」
菖子が苦笑まじりに告げると、浪速は「あぁ、あれか! 銭にならん失態やけど、後悔はしとらんわ!」とガハハと笑い飛ばし、モンスターのコンソールをバンバンと叩いた。
『……おっちゃん。……俺、分かったよ。……俺は独りじゃ、ただの計算機でしかなかったんだな』
「……分かればええんや、分かれば。……けどな、恋に恋しとる時期はもう終わりやぞ。……これからは一人の『漢』として、最速を証明し続けんかい!」
おっちゃんの荒々しい激励。
モンスターは、自分の中に残る菖子への「淡い熱」が、依存ではなく、戦うための誇りに変わったことを確信していた。
パドックの端、その光景をオーナーと共に眺めていた乱菊が、ふっと仮面を緩める。
『……おほほほ。……随分と、……あ゛ぁ……あたたかい光景ですこと。……ねえ、オーナー。……私もいつか、あんな風に、……誰かに「ありがとう」と言える日が、来るのかしら』




