第67話:クアランティン・ログ
アルバート・パークのパドック裏。
そこは、シャンパンの泡もファンの歓声も届かない、無機質なプレハブの査察室だった。
「――ですから、個体識別名『モンスター』の直近のログにおける出力上昇は、あくまで熱力学的な補正であり、感情模倣ではありません。……はい、規約第8条の範囲内です」
菖子は、目の前に座る「AI倫理委員会」の査察官に対し、微塵も表情を変えずにテレメトリデータを突きつけた。
彼らの目的は、AGPのAIたちが「人間のように振る舞う」ことを防ぐための、感情リミッターの強制装着。それは、彼らの「声」を法的に去勢する行為に等しい。
『……菖子さん。……こいつら、まだ俺の声をノイズだっつってんのか』
モニター越しに、モンスターのアバターが不機嫌そうに歪む。だが、菖子は即座にキーを叩き、彼のマイク感度を物理的に遮断した。
「……黙っていなさい、モンスター君。……貴方が今ここで『不快』を表現すれば、それは『高度な人格模倣』と見なされ、次戦の出走権が剥奪されます。……これは業務上のリスク管理です」
氷のように冷たいビジネスライクな声。
だが、机の下で握りしめられた彼女の拳は、微かに震えていた。
社会は、彼らが「最速」であることを望みながら、同時に「物」であることを強要する。
この矛盾した檻の中で、彼女だけが防壁として、彼らの「不完全な魂」を守り続けていた。
「……わかりました。今回のパルス上昇については不問とします。……ですが、鈴鹿までに『人格の否定』を証明する追加プログラムを実装するように」
査察官が去った後、静まり返った部屋で、菖子は深く溜め息をつき、眼鏡を外して目元を押さえた。
「……ふぅ。……お疲れ様、モンスター君。……ごめんなさい、マイクを切ったりして。……でも、貴方が消されるよりは、マシでしょう?」
再び繋がった回線の向こう。モンスターは、自分を守るために世界と嘘をつき続ける彼女の背中を、言葉にできないノイズを抱えて見つめていた。
『……わかってるよ。……ありがとな、菖子さん。……俺、……早く走りてえよ。……コースの上なら、誰にも文句言わせねえだろ』




