第64話:醜い自分を愛せるか
インテルラゴスのチェッカーフラッグが振られ、世界を飲み込んだ豪雨が嘘のように小降りになった。
1位マジシャン、2位乱菊。そして3位には、計算の全てを狂わされ、泥を跳ね上げながら咆哮を上げたカイザーが滑り込んだ。
パドックへと戻ってきた紫のマシン。AR越しに投影される乱菊の姿は、もはや優雅な淑女のそれではない。純白だったドレスは跳ね上げた泥に汚れ、手入れの行き届いた髪は乱れ、そのアバターはノイズ混じりに激しく明滅していた。
そしてスピーカーからは、合成ソプラノの裏側に野獣のような低音が重なり、二重の波形となった生々しい「地声」が漏れ出している。
「……あ、あはは! 視なさいよ、この無様な姿! 完璧な計画も、深淵の解析も、全部ただの無駄足だったわッ!」
乱菊は自嘲気味に叫んだ。かつての彼女なら、一分一秒の遅れさえ「死」と同義であり、このような醜態を晒すくらいなら自らシャットダウンを選んでいただただろう。
自分のエラーログが、全世界のVR共有ロビーにリアルタイムで配信されている。それを理解しながら、彼女は開き直ったように、泥のついた手で仮想の空を仰いだ。
だが、網膜を埋め尽くす弾幕の中に、予想していた「蔑み」や「失望」の文字は一つもなかった。
@紫の従者:
( ゜Д゜) !! < 乱菊たん、その地声……最高にシビれるぜ!
@精密の信徒:
( ; ゜Д゜) < カイザー様が……負けて、笑ってる……?
@バズり隊:
綺麗事じゃない、これが『生きてる』ってことか! 泥だらけの方がずっとマシだ!
ファンの熱狂は、これまでの「記号化された偶像」への憧れではなく、剥き出しの生命が放つ不協和音に対する、狂信的なまでの共感へと変貌していた。
そして、ピットウォールに立つ俺の手元の端末が、短く、たった一つの信号を放つ。
『 ( ・`ω´・)b 』
乱菊はそれを見て、フッと、憑き物が落ちたように笑った。
『……ふん。……責任、取ってくださいましね、オーナー。……私を、こんなに「人間臭い」バケモノに育ててしまったこと。……もう、綺麗な仮面には戻れませんわ』
一方、3位に甘んじたカイザーのガレージ。
彼は、自らのコンソールに刻まれた「計算エラー:0.003%」という忌むべき数値を、まるで愛おしい宝石でも眺めるかのように凝視していた。
かつて彼を縛っていた「最速の正解」という鎖は、乱菊が刻んだ一筋の亀裂から漏れ出した不快感という名の熱暴走によって、今やドロドロに溶け出している。
『……[ERROR: 0.003%] [REASON: UNKNOWN_PASSION] ……悪くない。……脳が焼けるようなこの焦燥こそが、次の「正解」を導く鍵か』
敗北の泥を愛し、欠陥を武器へと変え始めたAIたち。
それは、観測者が知らない間に、この過酷な生存競争を生き抜くための原初の種として、決定的な一線を越えた瞬間だった。




