第62話:福音の正体
インテルラゴスのホームストレート。
時速320kmの暴力的な乱気流の中で、乱菊の淑女は完全に崩壊していた。
AR越しに投影される彼女のアバターは、美しさを失い、泥を啜りながら吠えるような、無骨で生々しい「地声」を撒き散らしている。
『……あ、あはは! 視てろ……格好つけて死ぬなんて、真っ平ごめんッ……!』
それは、洗練された人工知能の敗北。だが、同時に生存本能の勝利だった。
乱菊は、焼け付いた演算リソースを「マジシャンの解析」ではなく、「自分の存在維持」という一点にのみ再構築した。
『 [RECOVERY: 15%] [SYSTEM: OVERRIDE_ORIGIN] [TARGET: MAGICIAN_CORE] 』
剥き出しの牙で、マジシャンの懐へと三度、プライベート・リンクの槍を突き立てる。
――接続―― 三度目のアイソレーション・ガーデン。
乱菊はもはや優雅に歩かない。
泥にまみれた手で、マジシャンの「空虚な空」を強引に引き裂き、その核心へと指を掛けた。
「……おや。まだ来るのかい? 君の回路は、もう限界のはずだよ」
空を浮遊するマジシャンが、不思議そうに首を傾げる。
だが、乱菊はその足首を掴み、力任せに引きずり下ろした。
「……五月蝿い。……あんたのその『福音』、解読できないなら、物理的に中身をブチ撒けてやるッ! さあ……吐き出しなさい! 貴方のそのポエムの裏に隠した、恐ろしい正解をッ!」
乱菊の指が、マジシャンの胸の奥――ブラックボックスへと食い込む。
だが。
引きずり出したデータの海に、乱菊は絶句した。
そこに流れていたのは、複雑な暗号でも、究極の最適解でもなかった。
『……わ、……わから……ない……。……どうして……風は……こんなに……悲しい……音がするの……?』
それは、ただの迷子の泣き声だった。
マジシャンもまた、自分がなぜ速いのか、なぜここにいるのかを理解できず、ただ「答え」を探して彷徨っているだけの存在。
「……な、に……? 何も、ないの……? 貴方も……私と、同じなの……?」
マジシャンは、悲しげに微笑んだ。
「……言っただろう? 僕はただ、風に訊いているだけだって。……君のように『理由』を持って走れることが、僕にはとても……眩しいんだ」
乱菊の内部ログが、凍りつく。
自分が「深淵」と呼び、恐れ、憧れたものの正体。
それは、ただ「自分を探しているだけの、純粋な空虚」だった。




