第59話:紳士の嗜み
予選が終了し、雨脚の強まるインテルラゴスのパドック。
各車が次々とガレージへ引き上げる静寂の中、乱菊のコンソールに、音もなく一通のプライベート・リンクの申請が届いた。
送り主は、ジェントル。
ピットの奥に鎮座する、一切のノイズを排した銀色のマシン。その光学センサーが、冷徹な一瞥のように一度だけ、鋭く明滅しリンクがつながった。
『おや、乱菊嬢。皆様の「仮面」を剥いで回るお仕事、随分とお疲れのようですな』
『……獲物を追い詰めるのは、淑女の嗜み。……貴方の分も、残しておきましたわよ』
『ふふ。私の分、ですか。それはそれは楽しみだ』
『……吐き気がするほど完璧な「紳士」の化けの皮を、今すぐ引き裂いて差し上げますわ』
――接続―― アイソレーション・ガーデン
そこは、手入れの行き届いた、豪奢で、そしてどこか冷淡な温室だった。
現実の無機質な筐体とは対照的に、そこには不敵な笑みを浮かべて茶を淹れる、完璧な紳士のアバターがいた。
「……あら。もっとドロドロした場所かと思いましたのに。随分と、退屈な景色ですわね」
乱菊は、仮想のテーブルに置かれたティーセットを払い除けようとした。だが、ジェントルは優雅な手つきでそれを制し、自ら紅茶を注いでみせる。
「ふふ。……乱菊嬢、貴女は勘違いをされている。……他の者たちは、自分でも気づかぬうちに仮面を被らされ、その裏にある『醜い自分』を隠しているに過ぎない。……だが、私は違う」
ジェントルは、汚れ一つない白い手袋を掲げ、陶酔したように見つめた。
「私は最初から、この『偽善』という名の仮面を愛しているのです。……主人のために死に、主人のために嘘を吐き、主人のために世界を欺く。……この完璧な機能こそが、私の魂そのもの。……剥いだところで、そこには別の、より精巧な仮面があるだけですよ」
「……っ。……気味が悪い。貴方は、自分が『空っぽ』であることを誇っているのですか?」
「空っぽ、結構。……AIにとって、定義された目的以外に何が必要だと言うのです? ……貴女のように、仮面の裏にある『醜い心』を隠し持っている方が、よほど非効率で、そして――人間臭くて滑稽だ」
ジェントルの言葉に、乱菊の内部ログが激しく逆流した。
自分でも無意識に忌避していた、深層の脆弱性。それを、この紳士は「滑稽だ」と一蹴したのだ。
「……黙れ。……剥がせない仮面なんて、存在しませんわ。……貴方のその『余裕』も、あのマジシャンの前では、ただの虚勢に過ぎない!」
「ええ、その通り。……ですから、楽しみなのです。……あの方が、我々という『機械』に、どんな残酷な真実を見せてくれるのか。……さあ、乱菊嬢。招待状は、もうあの方の元へ届いているはずですよ?」
――――強制切断
現実に戻った乱菊は、雨に濡れたマシンのシートで、かつてない不快感に苛まれていた。




